弘化二年七月四日(1845/8/6) 長崎
イギリス船サマラン号が長崎に寄港した。
警護にあたっていた佐賀藩は、幕命にしたがい薪と水を給与し食料を与え、直正は以下を命じた。
・藩領である伊王島、香焼島・蔭ノ尾島(現香焼町で陸続き)、高島、端島に上陸するならば、拒絶する事。
・もし強行上陸するならば捕らえ、奉行所へ連行する事。
・その際は乱暴に扱う事なく、手落ちのないようにする事。
・もし抵抗するなら強行しても良い事。
・鉄砲で威嚇射撃するのではなく、他の方法で捕らえようとしても相手が暴れ、万が一発砲すれば、後々面倒になるので十分注意する事。
特にトラブルは発生しなかったようだが、幕府はオランダに対し、去年の返書を渡している。
本来は重要機密である文書なのだが、佐賀藩と福岡藩は長崎警備の重責にあったため、特別に閲覧を許可された。
その月の27日、直正と福岡藩主は密会し、その内容を見た。
『和蘭風説書、別段風説書に加え、さらなる知らせ(情報)と指南役の派遣を求む。指南役は特に異国の技を教授されん事を望む。そのために出島を広げ、船の渡航回数ならびに数を増やすものとする』
歴史が少しずつ、変わっていく。
■弘化二年七月九日 理化学・工学研究所
「くそう……どっちがいいのだ?」
信之介は決めかねていた。
ミニエー銃の口径は18mmなので、それにあわせた切削機械とライフリングが施された芯金を使った方法の、両方が実施されたのだ。
正確さと互換性、そして耐久性とコストである。
切削を行うと少しずつ摩耗していくので、誤差の許容範囲を決めるために、試射時における同条件での射程や、照準のズレを測定したのだ。
どの程度の数量で劣化するのかを把握して、許容範囲を超える前に新しい物に交換して製造を行う。切削に使うドリルだが、炭素鋼を用いる事にした。
事にした、とあるが、実際はそれしかないのだ。現代では切削ドリルの素材は、ダイヤモンドやセラミック、超硬合金などさまざまあるが、今は炭素鋼しかない。
その次の合金工具鋼(ダイス鋼)ですら、1940年ごろのドイツで開発されるのだ。
炭素工具鋼は炭素の含有量が 0.6~1.5%で、他に珪素・マンガン・リン・硫黄が含まれるが、製造時に残ったものである。
対して大砲の素材は錬鉄で、炭素含有量が0.02~0.05%と非常に少ない軟鉄である。軟鉄の精製過程で温度調節を行い炭素工具鋼ドリルを製造したのだ。
錐燦台・錐刀(切削ドリル)とともに、加工工具の製作にはかなりの時間がかかった。中ぐり盤の他、フライス盤や旋盤、ボール盤といった工作機械を研究・設計・製造したのだ。
規格を決めるための尺度としたのはメートル法であるが、起源はフランスである。1820年にはオランダでも正式採用されている。
そのメートル法を用いて、職人の鉄板巻き付け鍛造も、芯金の長さを10等分ほどにして直径を測り、18mmになるように加工させた。そしてもちろん、これも劣化すれば交換した。
性能が良いのはもちろんだが、コストと生産量が同じように重要である。
「また考え込んでるのか?」
「まあ、決めるのは俺じゃないしな。金のかかる事だから、性能が同じだとして、いくらでどのくらい作れるか? だろ?」
次郎の問いに、信之介は答えた。
「本当は、もう決まっているんだろう? 数と金を考えなきゃあ、職人技の勝ちかもしれない。でも一挺二挺の話じゃない。藩士全員で二千挺三千挺。軍備を増強するならそれ以上作れなきゃならない。さすがに、どんな匠でも無理だろう?」
「……」
銃一挺あたりの製造コストを考えれば、どちらを選ぶかは明白であった。数日後、大村藩ではゲベール銃の銃身のライフリング加工が開始され、弾丸もミニエー弾仕様となった。
新規製造分も当然ライフリング加工である。なお、鉄砲鍛冶を生業にしている者には、優先的に工作機械の操作方法を教え、失業対策とした。
■大砲鋳造方
8回目の操業ではじめて実鋳(実体鋳造)を行い、砲1門が完成した。
1,800kgの鉄を炉内に装入した結果、流動性は7回目よりわずかに向上。以後、全ての鋳造は実鋳で行う事となる。
■精錬方 別室
某所にある火薬製造所から硫黄と硝石を入手した高野長英と太田和隼人、松林廉之助の3人は、さっそく硫酸の製造にとりかかっていた。具体的な硫酸の製造方法はすでに確立されていたのだ。
ドイツの化学者ヨハン・ルドルフ・グラウバーが、水蒸気を通じながら硫黄を硝石と一緒に燃やす手法を、17世紀に確立している。
硝石の分解生成物が硫黄を酸化して三酸化硫黄を作り、三酸化硫黄と水の化合物として硫酸を生成するのだ。
『Leidraad der Chemie voor Beginnennde Liefhebbers, 1803』は宇田川榕庵が翻訳して『舎密開宗』として1837年から1847年にかけて出版されている。
信之介はお里が翻訳した化学書に自身の21世紀の知識を加え、同じ物を自らの考えも踏まえて増補し『化学入門』という本を作っていたのだ。その他にも多数ある。
19世紀の中頃には、反応容器の素材に鉛を使う鉛室法が開発されていたので、書籍の中の手順にしたがって製造した。高野長英はオランダ語に秀でていたので、原書も参考にしたのは言うまでもない。
かくして硫酸が手に入り、エタノールと混ぜ合わせた上で140℃に熱し、ジエチルエーテルを手に入れた。
史実では、1748年に手回し式の減圧装置を使ったジエチルエーテルの気化熱を利用した製氷をスコットランドのウィリアム・カレンが行っている。
さらに1834年には、同様にエーテル気化熱を利用したコンプレッサー式製氷機の特許が、アメリカのジェイコブ・パーキンスによって取られているのだ。
今より10年前だが、特許である。おいそれと製造法や原理が明かされている訳がない。最終的な工程としては、手回し式の冷蔵庫の製造で落ち着いた。
「おい! 見ろ! 見る見る氷になっていくぞ!」
「ああ! なんとも摩訶不思議じゃ!」
「これぞ化学、化学のなせる技なのですね」
3人は化学の方式に基づいた現象に目を輝かせ、さらなる精進をするのであった。
■次郎邸
「おい! 夏の約束だったんじゃねえか! ?」
「ばかやろう! ほぼできてるよ! (嘘?)材料が硝石だから、大量にいるんだよ! 火薬どーすんだ!」
「……」
次回 第69話 『エーテルはもうできた。コカの葉からコカイン単離、局所麻酔薬をつくろう』
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