第64話 『アルコール⇒エタノール⇒エーテル⇒麻酔と冷蔵庫!』(1845/3/29)

 弘化二年二月二十二日(1845/3/29) 江戸城

 史実どおり、水野忠邦はさしたる成果を上げることなく老中を辞任した。

 やった事といえば、鳥居耀蔵を失脚させた事くらいだ。
 
 土井|利位《としつら》は自ら老中を辞任している。ともかく、一連の関係者がすべて辞任し、開明派を弾圧する勢力は一旦弱まったといえる。

 またそのころ、伊予宇和島藩では火薬の製造が始まっている。やはり沿岸諸藩の危機意識は高まっており、徐々に軍備を進めていたのだ。




 人事とは別に、幕政においては決めなければならない事があった。

 それは昨年オランダ船よりもたらされた、オランダ国王ウィレム二世の将軍宛の国書である。
 
 アヘン戦争の清国の敗北から、日本がこのままでは清国の二の舞になるとの心配から届けられた。

 内容は以下のとおり。

 1.200年来の友好を考えると、黙ってはいられずに筆をとった。
 
 2.アヘン戦争で清国が敗れ、5港が開港させられた。
 
 3.日本も清国と同様の災難が予想されるので、回避の努力をするべき。
 
 4.異国船打払令の撤廃は評価できるが、それだけでは不十分だ。
 
 5.世界はいまや蒸気船の時代であり、自由に来航が可能である。外国人受け入れ禁止を緩めるべき。
 
 6.必要ならアドバイザーを送る。




 さて各々方、いかが思われる?」

 水野忠邦に代わって老中首座となった阿部正弘は、同席している幕閣に尋ねた。
 
 次席の牧野|忠雅《ただまさ》(親阿部)、戸田|忠温《ただはる》(親阿部)、青山忠長(反阿部?)、松平|乗全《のりやす》(反阿部?)の四名である。

「さてもなにも阿部殿、幕府の祖法は変えられませぬ」

「さよう。いかに|和蘭《オランダ》国王からの親書とて、丁重にお礼を述べて断るべきでしょう」

 忠雅と忠温は、口をそろえて言う。

「ただ、やみくもに鎖国鎖国と申しても、清国が負けたのじゃ。異国の力は推して知るべし。|攘夷《じょうい》などというものは絵空事にござる。それにいかに処するかが肝要にござろう」

 忠長が具体案を考えなければというと、乗全が添える。

「さよう。断るにしても、六つ目の指南役に、鎖国を前提としていかに守るかという意味で、助力を仰ぐというのはいかがでござろうか」

 親書の内容は理解できるのだ。
 
 ただ、いかにして戦争を回避するか? いかにして日本が|蹂躙《じゅうりん》されるのを防ぐか、というのが大事である。

 オランダが言うアドバイザーは開国を前提としたアドバイザーであり、忠温のいう鎖国前提のアドバイザーではないだろう。

「では各々方、鎖国は祖法として曲げられぬが、感謝すると丁寧に答えた上で、指南役を要望するというのはいかがか? 仮に異国の力が強まり、開国も止むなしとなるとしても今ではない」

 意見をまとめる形で正弘が言うが、松平乗全が異を唱えた。

「それはそうとして、解決の策ではございませぬ。……例えば、長崎へのオランダ船の来航を緩和し、居住地を増やしてさかんに西洋の文物を取り入れる。今よりもこの日本を強くせねば、攘夷どころか、たちどころに蹂躙されてしまいますぞ」

 ……。
 ……。
 ……。
 ……。
 
 議論は紛糾したが、結局オランダへの返書は、鎖国は変えられないが助力を求めるものとなった。また、沿岸諸藩に『|十《・》|分《・》|に《・》|備《・》|よ《・》』と命じたのであった。

 これは、現在でいうところの拡大解釈では、そのために銃火器の製造や大船建造の禁を廃止すると、言えなくもない。

 

 

■|玖島《くしま》城下

「あまりに次郎の……いや、御家老様の仰せが幅広く研究も多岐にわたっているのだが、いま我が藩の財政を支えておるのは、石けんの製造と販売に間違いはない」

 信之介は隼人と廉之助、そして高野長英を前に、まるで重大発表でもするかのように喋り始めた。
 
 からくり儀右衛門の田中久重は、高炉と反射炉に興味津々のようで、現場にはりついている。

 大砲鋳造方は鉄の溶解100%の結果を出したのでいよいよ核鋳をためし、その後実鋳を行って、それぞれ試射を行う。国産鋳鉄砲まで、あとわずかだ。

「石けんはしゃぼんとの事。江戸にいる時分も存じておりましたが、はなはだ高値だったものが近年求めやすくなったとか。それが、この大村藩産だったとは。いやはや、驚きにございます。この石けんも、先生が考えられたので?」

 長英が素朴な疑問を投げかけると信之介は答えるが、一回り以上年上の長英に言われると、気恥ずかしい。

「いや、まあ。作ったのはそれがしにござるが、考えたのは御家老にござる。まあ、それは良いとして。その材料には油と灰汁が要る。されど灰汁をつくるにも海草や木を燃やしてつくらねばならぬゆえ、手間暇がかかるし銭もかかるのじゃ」

 ほうほうほう……と三人してうなずいている。

「先生、その灰汁の代わりの物をつくるのですか?」

「そうだ! よく分かったな」

 そう質問してきた廉之助に、右手で拳銃の形のハンドサインをおくって褒める。むむむむむ……という顔をしているのは隼人だ。

「海草の灰はアルカリと呼ばれているが、同じ性質のものを総称してアルカリ性物質と呼ぶ。水に溶ける。ここまではわかるな? 木を燃やした灰も、海草を燃やした灰も、性質は違っても同じアルカリ性だ」

 信之介の部屋にも一之進の部屋と同じく、翻訳された化学書が膨大な数収納されている。

 最初の1~2年で反射炉の製造法を翻訳したお里が、医学書と化学書、とにかく役に立ちそうな本を翻訳していたのだ。もちろん、自身の知識をまとめたものも蔵書にしている。

 難易度の低い順から並べられているのだが、廉之助と隼人は競うように読みあさっている。今後は長英もそれに加わることになるだろう。

「そのアルカリである灰を石灰と塩水から作る研究に移る。これには大がかりな設備が要るゆえ、御家老の許しを得ねばならぬが、その工程はこうだ……」

 信之介はソルベー法の手順を紙に書き出した。

 ①石灰石をコークスとともに石灰炉で1,000℃に加熱して二酸化炭素を発生させる。

 ②次に食塩を水に飽和させ、そこへアンモニアを十分に溶かした後に①③で生成した二酸化炭素を加えると、溶解度の低い炭酸水素ナトリウムが沈殿する。
 
 ③沈殿した炭酸水素ナトリウムを取り出して、熱分解して炭酸ナトリウムを得る。(二酸化炭素の発生)

 ④最初に生成された生石灰は水と反応させ、消石灰とする。

 ⑤消石灰と②の工程で発生した塩化アンモニウムを反応させるとアンモニアが回収され、②の工程に再利用できる。

「この塩化アンモニウムはションベンと塩からつくる」

「「「小便から?」」」

「そうだ。驚く事はないだろう? 黒色火薬……玉薬? 火薬の元になる硝石も、し尿が材料のひとつだろう?」

 あっけにとられている三人をよそに、信之介は話を続ける。

「まあ実際には、小便は使わない。例えだ。石炭の窯からアンモニアをとりだして、塩酸と化合させて塩化アンモニウムをつくる……三人増えて四人になったから、当然四倍速でいくぞ! ……いきます」

 長英がいるのでやりにくいみたいだが、すぐに慣れるだろうと信之介は考えた。三人は頭がパンクしそうなのを必死でこらえ、理解しようとする。

「次は、これはさっきのに比べたら簡単だ。冷蔵庫をつくる」

「「「冷蔵庫?」」」

 ふたたび三人があんぐりと口を開ける。

「これは、一之進からの依頼だ。麻酔用のエーテルを作れないか? という物だったが。つくれる。その過程の最終形が冷蔵庫なのだ!」

 次回 第65話 『もう一つの高炉と石炭乾留、そして実際に冷蔵庫をつくる!』

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