第95話 『佐久間象山大村に着き、隼人肥後にて人を探す』(1848/2/20)

 弘化五年一月十六(1848/2/20) 玖島くしま城 <次郎左衛門>

 佐久間象山がやってきた! 地震の災害復旧で忙しくてこれないかと思っていたのに、奇跡だ!

「御家老様におかれましては、ますますご健勝の程、お慶び申し上げます」

 ……。

「また、こたびの天災につき、米や味噌みそ、薬や衣など、およそ民の困窮をすくうために要るものことごとくご支援賜り、感謝の極みにございます。この象山、藩主信濃守様になりかわり、厚く御礼申し上げまする」

 ……。

 おい、どうした? ずいぶん殊勝しゅしょうじゃないか。こんな一面もあるんだな。

 性格は……天上天下唯我独尊、本来は自分という人間は二人といないのだから尊い者だ、という意味らしい。

 それが意味が間違って伝わって自分が一番偉い! みたいになっているんだが、意味が間違っていてもまさにそれ! と思わずにはいられない体現者だと思っていたが……。

 良いことは良い、人としての道理で恩を感じれば礼をつくす、的な? 事はやっぱりちゃんとしているようだ。

「良いのです、象山殿。困った時はお互いさま。もし次に、この大村藩が天からの禍を被る事があったならば、頭の片隅にでも覚えておいていただければ、それで良いのです。なくなった方々のご冥福をお祈りいたします」

 本当だ。




「さて、象山殿。人払いはいたしました。明日、殿との謁見も決まっております。……いかがですかな、大村は」

「そうですな。藩境から入ってより、民の顔が明るいように感じられました。大村藩では近年、飢饉ききんや干ばつなどなかったのではありませぬか?」

 ……。

 どうした? いやに畏まっているぞ。あの威勢のいい象山さんはどこにいった?

「おかげ様で。それがしが家老になる前からでござるが、もともとこの大村の地は平地が少なく米が採れぬ地が多い。それゆえ唐芋の栽培を奨励しておったのですよ。幸いに海の幸も多く、貝や海草、魚もふんだんにとれますゆえ、多くの民が健やかにござる」

「なるほど」

 海のない信州松代藩にしてみれば、海産物は貴重品だろう。

「唐芋のほかにも馬鈴薯ばれいしょ(ジャガイモ・ジャガタライモ)もそこかしこで栽培しておりますれば、これも民の重要な糧にござる」

「ほう……。さようでございますか」

 自分が藩内に普及させようとしていたジャガイモがこれほど認知度を得ている事で、やはり長崎に近いというのは、それだけでメリットがあるという事を再認識したのだろうか。

 そんな返事のように感じた。

「では象山どの、長旅疲れたでしょう。今日はゆっくりされ、明日、殿との謁見のあと、各施設を見て回りますか」

「ご厚意痛み入ります。されど遊びに来たわけではござらぬゆえ、さっそく見聞を広めたいと存じます」

「あいわかった」




 ■大砲鋳造方

「ああ! これは御家老様。おはようございます」

「おはよう、大島君。どうだいここは?」

 昼間は作業の見学と手伝いをしながら、夜はヒュゲーニンの書を読んで書写している大島高任が、次郎と象山を見かけて声をかけてきた。

「はい。見るもの聞くもの、全てが新しく感じます。長崎とはまた違った様子にございますが、多くを学ばせていただきたいと存じます」

 大島高任は盛岡に帰ってから水戸藩の反射炉建設に寄与するが、その際に原料となる銑鉄の重要性を感じて、藩で銑鉄をつくるための高炉を建設する。

 釜石製鉄所の前身である。

 大島高任をはじめ、大村藩には多くの人材が集まりつつあったが、その人材の|招聘《しょうへい》について考えた時、次郎には一つ不安があった。それは遊学生が国許に帰った時、その藩が大村藩の敵にならないだろうか? という疑問である。

 純粋に大村藩士となるか、または客分として抱えるようなら問題はない。

 ただし他藩の藩士を迎えるとなると、いずれは藩に戻ってその藩の成長を促進させる人材となるのだ。攘夷じょういや倒幕といった、戦争を誘引するような思想になってもらっては困る。

 ……しかし、他藩から人を呼んでいる以上、多かれ少なかれ情報や技術は漏れてしまう。

 それならば、そういう風潮にならないように、大きな力で流れを変えるしかない。次郎は学者でもなければ技術者でもない。信之介や一之進、お里といった知識や技術もないのだ。

 あるのは歴ヲタと海軍知識のみである。京都や大阪で営業をすることで、日本の国論をゆるーく開国路線に持っていくしかない。藩論は今のところイコール次郎=純顕だ。

「佐久間象山でござる」

「佐久間……象山、象山先生ですか?」

「はて? いずこかで会うたかの?」

 象山は高任とは面識がない。

「いえ、お目に掛かるのはこれが初めてです。以前江戸にて箕作先生に学んでいたところ、先生のお名前をたびたび耳にしていましたので」

「ほう? いかなる話かな」

「はい。非常に博識で天下の秀才といっても過言ではないと」

「ははは。そうかそうか。箕作先生がそのような……そうかそうか」

 象山はまんざらでもないようだ。




 ■産物方

「いやあ、この辞書は実にわかりやすいですね! 和蘭語彙例文辞典とか言う……」

「ああそれね、まだ三分の一も終わってないの」

 手塚律蔵の言葉に反応しているのはお里だ。長崎で手に入れた蘭仏辞典を『ドゥーフ・ハルマ』のように作ろうとしていたのだ。

 史実の『ドゥーフ・ハルマ』は印刷ではなく、写本で複製したので数が少なく貴重であった。しかも幕府は海外の情報が国内に漏れることを恐れて、民間への出版を長い間許可しなかった。

「あ! じろちゃ……御家老様……いやあなた様」

「! ? 次郎様、このお方は?」

 象山は正直なところ、江戸で初めて会ったときは次郎が藩の家老だといっても話半分に聞いていたのだ。しかし地震の支援の件もあり、こうして実際に目で見て聞いて、改めてその立場を確認したのである。

「ああ、それがしの妻にござる」

「えええ! ? 奥方様がこのような……」

 お里は藩の家老の妻として、というよりはただの女性学者、といった方が正しいような身なりである。着飾るわけでもなく、身分の分け隔てなく接している様は、まったくそう見えない。

「いや、実はな……」

 次郎は象山に非常に面倒くさい説明をした。

 妻ではあるが側室であること。しかし本妻と同じように愛している。ただし対外的には家老の妻がこういう仕事をしているのはいかがなものか? という声を懸念して大っぴらにはしていない事……等々である。

「さようでございましたか。それは、まあ、なんとも……」

 象山の女性観念からすれば、絶句なのである。いや、象山以外の当時の多くの日本人の考え方だったかもしれない。

 いわゆる女は家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う……という令和に生きる次郎達には、何それ? 以外のなにものでもない。

「お里には随分助けられています。無論、正妻のお静も内助の功で支えてはくれていますが、それとはまた別の形です。それがしは良いと思うのですよ。こういう女性がいても」

 そう次郎は言ったが、理解してもらおうとは思わない。おそらく表向きは何もいわなくても、理解はしてくれないだろう。

 農業・漁業・林業・鉱業、様々な面でお里は貢献しているのだ。




 ■肥後藩 種山村

「御免候! 御免候!」

「はい、なんでしょう」

「益城郡の霊台橋を造られた勘五郎どのはいらっしゃいますか?」

 橋本勘五郎は石工である。石づくりのアーチ橋をいくつも手がけた。大村藩も洋式の軍へ変更するにあたり、多くの野砲を運搬することになる。

 川を渡る際の橋も、木造では耐久性に問題があるし、氾濫した際に崩れない頑丈なものが必要であった。

「勘五郎……という者はおりませんが、霊台橋を造った『丈八』はおりますが……」

「橋を造った石工は石工なんですね?」

「ええ……?」

「ではお願いします」

 次郎は勘違いしていた。勘五郎とは、その功績によって肥後藩により苗字帯刀をゆるされ、5年後に改名した時の名前である。

(まあいいや。同じ石工なら問題ないやろ。同じ橋本やし)




 隼人のスカウト行脚はまだまだ続く。

 次回 第96話 (仮)『上野俊之丞と宇田川興斎の大村藩舎密紀行』

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