豊後に忍ばせてあった石宗衆から報告があった。
大友宗麟が横瀬浦への誘致に前向きらしい。いいニュースだ! 石宗衆の報告は定期的に千方に集められ、俺に伝わる。
正式に抱えて以来、資金の援助は惜しんでいない。各大名の城下町はもちろん、京大阪は特に、中央の情勢がわかる様に拠点を置いて複数人配置してある。
常在戦場。臨機応変に対応できる様に頼むよ! 千方! 石宗衆!
横瀬浦周辺は道幅を広くして、桟橋を拡張した。
落下防止と敵の上陸阻止のために、主要部には柵を立て、丘の上から完全に港が見える様に障害物を取り除いたのだ。
それから敵からは、どこに兵が配置しているのか見えない様に木々を配置した。
そして横瀬浦の防衛はもちろん、面高軍港と黒口の造船所の防衛のために、石原岳に城塞を造っている。
ミニ五稜郭? ミニ旅順要塞? 南蛮船と宣教師の他、領民を守るために、転生してから資金に余裕のある範囲で港の整備と城塞の構築を進めていたのだ。
どちらにしても相当規模は小さいけどね。
まだ開港してないが、俺の中では最初から既定路線だったから全く問題ない。石原岳(堡塁)にした理由は、付近の岳の城や天崎城では横瀬浦の防衛には距離があったからだ。
「治郎兵衛、堡塁からながめて、敵の予定侵入経路はわかるか? またその場合の迅速な対応はこの位置で問題ないか?」
陸軍奉行の治郎兵衛に堡塁と警護陣地の事を尋ねる。
「は、まずは湾の入り口から侵入したとしても、陸上からだとしても、死角はございませぬ」
うむ、と答えた後、さらに深沢義太夫に聞く。
「義太夫、その方から見てどうだ? どう攻める?」
「どうもこうも、ここに堡塁と陣地をつくられちゃお手上げだ。より長射程の大砲でももってこないと無理だな」。
そうか、と俺は満足そうにうなずいたが、世の中に完璧なものはない、随時改修していこう。
かなり先の事になるかもしれないが、家康がイギリスから輸入したカルバリン砲が6.3キロの射程があったらしい。
針尾城まで射程範囲だ。いずれにしても佐世保湾を一望でき、横瀬浦の防衛とともに湾内に入ってくる敵の殲滅と、商船の保護を同時にできる。
まだまだフランキ砲が関の山だろうが、輸入しつつ国産に挑戦していくつもりだ。もちろん艦載砲も研究に入れている。
堺から招聘した鍛冶職人からはまだ結果がでていないが、順調だ。
ここには実際に、日露戦争の時に対バルチック艦隊用に城塞がつくられた。しかし日本海海戦で勝ったので実戦はしていない。
なんか大砲を作るっていったら、幕末の反射炉? をイメージするけど、それまではどうやって作っていたのかな? 思い出せ思い出せ。
反射炉は多分、高熱で溶かすか、なにかのために作ったんだよね。今までの製鉄法と全く違うやり方で。あれ、今できんかな? 先取り300年。ははは……夢は膨らむ。
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