第60話 『塩の製造とミニエー銃とドライゼ銃』(1844/4/29)

 天保十五年三月十二日(1844/4/29) 玖島くしま城下 <次郎左衛門>

 俺は大砲と同時進行で、小銃の開発製造を進めていた。2年前の天保十二年に管打ち式のゲベール銃が完成した後、すぐにミニエー銃の開発に移っていたのだ。

 しかし、原理はわかっているのだが、簡単にはいかない。

 まずライフリングだが、これは信之介に頼んで旋盤の設計図の雛形ひながたを作って貰い、金属細工や鍛冶屋などを動員して開発を進めた。
 
 本当なら人力の旋盤でさえ、もう少し先か明治に入ってからだ。

 それと同時に、もう一つの方法も試している。

 円柱状の芯金にライフリングに使うような突起を施し、熱した鉄板を巻いて熱間鍛造で接合面を一体化して、その上から帯状の鉄板を巻き付けて補強する方法だ。

 しかしどちらも試行錯誤している。

 それはカッティングする際のフックカッターの材質であり、加工の手間であり、精度の問題を解決しなければならないからだ。
 
 この時代の欧米の技術者は、どうやってライフリングを施していたのだろうか?

 ここはもう信之介と技術者に頼むしかない。俺は自慢じゃないが(わはははは!)文系の歴史オタクの軍オタだ。(数年自衛官)

 この問題が解決して、ミニエー銃の完成となり、めざせドライゼ銃ってとこかな。いや、確かドライゼ銃は1836年に完成している。
 
 でも軍事機密だから知る方法はないか。

 ドライゼ銃は1848年にドイツ(プロイセン)で配備がはじまる。幸いなことに列強は紙製薬莢やっきょうや後装式の優位に理解を示さない。
 
 結果、1866年の普仏戦争まで日の目をみないのだ。

 俺が(信之介が)完成させれば20年近いアドバンテージが生まれる。いや、ドイツは開発国だし、その存在は各国も知っているから、いずれ量産されるか。
 
 まあ、その先はその先だ。

 しかし……正直、信之介と大坂からくる儀右衛門さんにおんぶに抱っこだな。いや、考えてもしょうがないか。

 

 ■大村湾

「よし、今だ。そう、そのまま……よし、止めろ」

 あちこちから大声で棟梁が指示を出して、流下式塩田の小屋で作業を行っている。海水を手動ポンプでみ上げ、スプリンクラーの要領でよしず(すだれ)に吹き付けるのだ。

 5~6mの高さに枠を組んで、これによしずをかけて作る。

 ポンプで汲み上げた海水を上からかけ、流れ落ちる間に水分が蒸発するので塩分が濃縮されるという仕組みだね。

 技法としては16世紀頃からヨーロッパで使用されていたようだ。

 これを何度も繰り返す。

 できあがった海水をかん水というのだが、かん水の沸騰を繰り返して、2~3日それを煮詰めて塩を作る。

 流下式塩田は今まで大村藩が行ってきた入浜式塩田のように、大量の砂を動かす必要がない。

 そのため労働力が減り、年間の稼働日数も増えた。結果として生産量が2.5~3倍と大幅に増加したのだ。

「よしよしよしよし。よきかなよきかな」

 文法的に合っているか間違っているかわからない言葉で独り言を言う。もちろん周りには誰もいない。

 塩を煮詰めるのに使う燃料だが、通常は柴・かや・ツツジ・ウバメなどの雑木から、松葉・松枝・松薪が使われていた。

 しかしかん水を煮詰めるには大量の燃料が必要なのだ。そのために瀬戸内海の国々、例えば周防や長門では森林資源の枯渇という重要な問題が発生していた。

 その点幸か不幸か、大村藩では枯渇するほど伐採はされなかったのだが、流下式に移行するに従い、必要となってきた。

 そこで、石炭である。燃料には事欠かなかった。

 史実で大村藩によって石炭が製塩の燃料に使われるのは少し先、弘化四年(1847)の事である。

「ぐふふふふ……さて、今の藩の塩田を全部流下式にかえてっと……」

 得意の銭勘定である。はまる時もあれば、外れる時もある。

 川棚村・宮村・長与村・時津村・三町分・雪浦村の合計で、二十九町三反三畝九十九分(88,089坪・東京ドームが15,000坪なので約6倍)の広さがある。

 生産量は104,514俵。1俵以下は省略。引き料銭257貫文。
 
 これが3倍で……塩の単価が1俵で銀5匁だから、24,234両になる。人件費や設備投資費は……いろいろ面倒だから、四公六民!

 で、約1万両。

 ……うーん。なんだかなあ。濡れ手であわのぼろ儲けには、ならんなあ。

 いや、もちろん、1万両が大金なのは分かってるよ! わかってるけど出る金が多いからなあ……。

 石けんと|椎茸《しいたけ》で13万両(増えるかも? は未知数)。塩で1万両。真珠が全25種類の総合計で5,837両(÷3年で1,945両/年)。

 それから捕鯨だよね。今んとこなんとかなりそうだけど、鉄砲も大砲も、招聘しょうへいするにも金かかるし、なんかねーかな。

 

「御家老さま」

「ん? 何? ……いや、何事か」

「は。伊予へ向かわれました一之進様より文が届いております(藩士待遇で医学方副頭取だからちょっとえらくなった)」

「みせよ」

「は」

 

 拝啓

 おーい! 元気か次郎! こっちは元気でやってるぞ。お前が言ってた長崎には痕跡がなかったけどな。伊予まで来て、その例の二宮敬作先生って人に出会ったぞ。

 最初はくそ医者かと思ったけどなんのなんの(この時代にしては)すごい人だ。今は仲良くなって、なんだか知らないけど診療所を手伝わされてる。

 ああ、それと! あのおイネちゃん。めちゃくちゃカワイイじゃねえか! お前それならそうと早く言えよ! こういうのはモチベーションがものを言うんだからな!

 んーで、なんか知らんけど、産婦人科覚えてほしいんだろう? 

 前にも言ったけど俺は専門じゃないって言ったら、備前の石井宗謙って人紹介してくれるらしいから、3人で一緒に備前までいって連れてくるよ! じゃあな!

 敬具

 

「まったく、あいつときたら……。ん? 石井宗謙……宗謙? あ! やべえ!」

 

 拝啓

 一之進! 絶――――――っ対に、イネちゃん一人にすんじゃねえぞ!

 敬具 

 次回 第61話 『徳川斉昭の謹慎とおイネ道中に適塾留学生』

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