弘化三年十二月十二日(1847/1/28) 信濃国松代藩 松代城
「象山よ。では、そちの建言に従い手配した者どもを、この指示書の通りに働かせればよいと申すのか」
登城した象山を前に、藩主真田幸貫は問う。
「はは。その建言書のうち、いくつかは専門的な知識が要りますが、それはすべてこの百科全書に書いてございます」
「百科辞書とは申せ、それは和蘭語で書かれているのであろう? この藩内に、そちほど和蘭語を解すものはおらぬぞ」
幸貫は毎度の事ながら、象山の要望に正論で返す。
「ご心配には及びませぬ。その辞典は十六冊全て翻訳しておりますので、誰もが読むこと能いまする」
「なに? それは誠か?」
「はは。それゆえそれがしがおらずとも、事は運べるのです。第一、人に言われた事ばかりをやっておっては、その者の成長になりませぬ。自分の頭で考えやってみて、試行錯誤を繰り返してこそ、実となるのです」
象山は翻訳を自分がやったかのごとく、大真面目に話す。
もちろん、この翻訳書は次郎が大村藩から持ってきた写本である。事前に象山がシュメール百科全書を読んでいる事を知った上で、渡したのだ。
「あいわかった。再び長崎への遊学を許そう。されど、そう何度も遊学ばかりとはいかぬぞ。このわしも年ゆえ、藩に腰を据えて働いて貰いたい」
「は。承知いたしましてございます」
■玖島城下
翻訳は、お里の本業ではない。
真珠の養殖のアイデアは次郎からだが、実務指導を行ったのはお里なのだ。次郎が家老になった際には信之介が精錬方、一之進が医学方の副頭取となった。
お里は産物方である。薬品や医学に関する事は医学方。化学技術や造船・鋳造などの開発研究製造は精錬方となる。
産物方の基本はいわゆる農業・漁業・林業と、藩内で生産される産物の流通すべてであり、組織図でいうと、殖産方の指揮下にある。
しかし建前だけで、実際は独立した組織なのだ。もちろん、表にはでない。
この時代は女性が表にでて、いろんな事をするのを忌避する風潮だ。お里にしてみれば嫌なんだろうが、ペリーがきて日本が開国するまでの辛抱、という事でやってもらっている。
ただし実際のところは、面倒な事は全部表の責任者(男)がやってくれるので、楽ではあったのだ。
オランダ語に堪能だという理由で、当初は様々な翻訳業務を行っていたが、洋書はオランダ語だけではない。英語もあればドイツ語もある。
特に医学書は一之進の専門分野のため、ドイツ語が多かった。それに加えて、この10年で次郎や他の二人のオランダ語の実力もかなり上達したのだ。
もちろん、四人で定期的に英語だけで話す時間をつくっている。
オランダ語は日常会話と、それぞれの専門分野の言葉は理解できるようになってきた。信之介は理工学・化学、一之進は医学・薬学、次郎は軍事についてである。
「ふう、こりゃあ大変だぁ」
お里はまず、多種多様な大村藩の産物に目をつけたが、その多くが個人消費と個人売買を主としている事がわかった。例えば必要な分だけ薪をつくり、余ったら売る、という形である。
いわゆる工場制手工業というよりも、問屋制手工業、もしくは家内制手工業が多かったのだ。
お里は利益率という観点から取捨選択し、生薬の元となるエンジュ、桶や飯櫃、曲物の材料に適したサワラ、樟脳の原料となるクスノキに絞って植林、栽培させた。
海産物は真珠貝以外は除外した。
真珠以外に貝ボタンも検討中だが、手工業の域をでない。石炭の採掘は増産しているし、化粧品の原料となる雲母は多以良村や大串村、領内各地で産出する。
他にはハゼの実から木蝋をつくるための栽培を開始した。
次郎から真珠貝のアイデアが出る前に提案したのが、今あるハゼの木の栽培である。
ハゼの木は栽培を始めて結実するまで7年を要するが、次郎が家老になってから、なんだかんだでやっと、収穫できるようになったのだ。
作付面積を3倍に増やした。
さて、いくらになるだろうか?
「げ! なにこれ? 石けんとか鯨の方が割の良い仕事じゃん!」
おイネとお里は仲良しである。
周囲に同じ年齢層の女子がいなかったのか、ケンカもせずいつも一緒にいる。おイネは勉強があるが、お里にいたっては次郎と一緒にいる時間より長いかもしれない。
「どうしたの?」
「どうしたって、コスパが悪い!」
「こすぱ?」
「ええっと……かけた労力に対しての、見返りの代金が少ないって事かな?」
「そんなにハゼの実は儲からなかったの?」
「作付けを今までの三倍にして、実の取れ高が千八百五十七斤で、蝋にできたのが三百七十一斤。売って銀七百四十二匁よ。今の売価が百六十目(一斤)で銀二匁だからね」
「えーっとそれじゃあ……十一両くらい?」
「……」
「ま、まあ誰にでも失敗はあるって事で……」
100倍にしたところで1,100両である。石けんや椎茸が大きすぎたのだ。
次は樟脳である。
樟脳は専売で、脇荷貿易でも禁じられた商品の一つである。その樟脳はほぼ全部が薩摩藩から納入されていて、次郎はお里の提案で、薩摩藩独占状態をなくそうと営業をかけていた。
ここで使わずしてどうする高島家と長崎奉行!
これは、勇み足ではなかった。
そもそも次郎が営業したとしても、すぐに薩摩藩が納得するものではない。年間で58万6千斤もの輸出である。それを会所は1斤銀三匁で買い取っていたのだ。
仮に半分の29万3千斤を売ったとしたら、1万3千523両となる。1万5千本のクスノキからの生産量だ。可能な生産量と、可能な販売量との釣り合いをとっての殖産である。
「うーん、いまいち、ピンとこないなあ……」
養豚、養鶏、様々な殖産を試みるお里であった。
■大砲鋳造方
8回目の操業でできた実鋳砲(口径10.6cm、砲孔長175cm)を、水車が未完成だったために人力で|穿孔《せんこう》した。そのためにこの砲が最も多くの工員と日数を要した。
他の大砲の穿孔に使っていたため、途中から水車動力には変更できなかったからである。
試射を「久原」で行ったが、予想よりも少ない装薬で砲身が破裂した。原因としては、8回目の鋳造砲よりも砲孔が湾曲しており、鉄成分の結合不均等が、著しかったためと思われる。
また、人力で穿孔を行ったため、砲孔が偏心し、砲身の厚みに差異が生じたためとも思われる。
鉄の溶解と流動性に関しては安定してきている。
穿孔の際の均一化が問題となるが、水車動力では安定感に不安があり、一刻も早い蒸気動力による錐燦台の完成が望まれる。
次回 第83話 『弘化の大地震と象山大村来訪ならず。しかして意に反し、三十七士同盟、芽吹く』
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