第83話 『弘化の大地震と象山大村来訪ならず。しかして意に反し、三十七士同盟、芽吹く』(1847/5/8)

 弘化四年三月二十四日(1847/5/8) の刻(22時頃)

 信州全土および越後高田地方にまで及ぶ広範囲で、未曾有の大地震が発生した。善光寺平をはじめ北信地方四郡の揺れはひどく、山は崩れ家は潰れ、あちこちで火災が発生したのだ。
 
 圧死、焼死、およびけが人はおびただしい数に上り、その阿鼻あび叫喚地獄の有り様は形容し難いほどである。

「まず、領民の避難が最もなすべき事にございます! 城から遣いを出し、村役人や庄屋すべてを使って建物が少なく広い場所に移すのです!」

 夜間の地震のため、佐久間象山を含めた城詰めの人間ができることは少なかった。そのため実際の行動は夜が明けてからであったが、象山の行動は素早かった。

「大変です! 虚空蔵山が崩れて犀川をせき止め、大いなるせきとなって川辺の村を沈めましてございます」

「そうか……」

 何人が逃げ遅れ、溺れ死んだであろうか。

「川下の村々では、いつ堰が切れて大水が押し寄せてくるかと、心配の声が多く上がっております」

「さもありなん。川沿いの村々の民は避難させよ。人夫を指揮して小松原に堰を築き、鳥打峠の坂下にも堰をつくって、大水が来ても耐えられるようにするのだ」

「はは!」

「象山よ、長崎遊学の件だが……」

「心得ております。この象山、もてる力の限り領内の復旧に努めまする」

「すまぬ」




 ■江戸からの帰藩中

「次郎よ、さきごろ地震があったようだが、もっとも激しきは信濃松代藩と聞き及んでおるぞ」

「は。その儀につきましては、殿に折り入って相談いたしたく存じます」

「なんじゃ?」

「は。松代藩に対しての義援にございます」

「義援、とな?」

 松代藩と九州の西にある大村藩とは離れすぎているし、つきあいもない。隣接している藩からの援助は考えられるが、大村藩からの援助など、誰も考えつかないだろう。

「は。おそらくはこたびの地震の復旧には、多大なる時と銭が要りましょう。そして明日は我が身にございます。困った時に助け合うのは人としての道にございますれば、我が藩からも、いたすべきかと存じます」

 次郎は居住まいを正し、真面目な顔をして、真剣に話す。

「うむ。もっともであるが、何が入り用じゃ?」

「は。糧米に医薬品、そしてなにより銭にございます」

「いかほどか」

「は。これは、反論が出るやもしれませんが、米千石に醤油千石、味噌みそ十石に塩千石。医薬品とあわせて、銭も少々融通いたしましょう」

「かなりの……銭になるな」

「は。されど、我が藩は入目は多うございますが、年貢に様々な税もございます。深澤組への借財を返すあても目処がたっておりますし、新たな入目となりますが、蓄えと合わせれば、なおいくばくかは残ります」

「うむ」

「助け合いの心、これこそが人の人たる所以かと存じます。また、これは下世話な話となりますが、偽善と呼ぶ者がおれば、言わせておけば良いのです。それにそのような輩には、こうすれば大村藩の名声いや増すばかりではないか、と」

「……」

「できぬ者が、できぬ事を無理に致すのではありませぬ。わが藩は、それだけの力があるのです」

「……あい分かった。良きに計らうがよい」

「はは。ありがたき幸せにございます」

 大村に向け、早飛脚が送られた。




 ■玖島くしま城下 五教館

 大村藩主純あきは、藩校である五教館を全国レベルまで引き上げた実績がある。それはこの時代でも変わらない。家督を継いで以降、次郎と共に藩政の改革を行ってきたのだ。

 7年前、五教館に蘭学らんがくが導入され、私塾『開明塾』が発足した。

 しかし、藩校では女性への門戸は開かれていなかったのだ。

 その点で純顕と次郎では意見の食い違いがあり、開明塾にのみ女性の学べる場所があった……が、正確には意見の相違ではない。
 
 純顕は賛成したかったのだが、できなかったのだ。

 いかに藩主とは言え、次郎以外の家老全員の意見を無視し、藩の教育の根幹に関わる事項を、変えることはできなかったのである。




 貝原益軒著『和俗童子訓』

 ~男子は外に出て師にしたがひ、物をまなび朋友ほうゆうにまじはり、世上の礼法を見聞きするものなれば、おやのをしえのみにあらず、外にて見ききする事多し。

 女子はつねに内に居て外にいでざれば、師友にしたがひて道をまなび、世上の礼儀を見ならふべきやうなし。

 ひとえにおやのをしえを以て、身をたつるものなれば、父母のをしえをおこたるべからず。をやのをしえなくてそだてぬる女は、禮義をしらず。

 女の道にうとく、女徳をつつしまず、且女功のまなびなし。是皆父母の子を愛するみちをしらざればなり。~




 男性は外に出て先生に学び友と交遊し、世の中の道理を学ぶので、親の教えだけではなく見聞する事が多い。女性は家の中に居て外に出ないので、その必要がない。

 ただ親の教えだけで生計をたてるので、父母は教えを怠ってはならない。等々書かれてある。

 逆に言えば、女性が男性と同じ教育を受ける必要はないし、外に出ることもないのだから無意味、ともとれる。実際、次郎と他の三人、そして純顕以外はそう考えていたのだ。

 女性の社会進出は、維新後の富岡製糸工場が良い例だと思うが、大学としての女子学生は1916年の東洋大学である。また、共学は戦後に入ってからだ。

 女子学校(女学校)は1872(明治5)年の官立東京女学校が初であり、しかも教えていたのは一般教養である。

 幕末の世で、女性が学ぶことに対する風当たりは、推して知るべしだろう。

 しかし、純顕の改革はそれを可能にした。

 その一つが藩校五教館への講師の招聘しょうへいである。

 天保二年には江戸の儒学者朝川善庵を招聘し、藩士教育の強化を図っている。さらに豊後日田の咸宜園かんぎえんの廣瀬淡窓を招聘しては、教育改革を実践した。

 淡窓は弘化二年にも再び招聘されている。その教育制度は咸宜園のそれと全く同じで、入学金の納付と名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず、女性でも入校できたのだ。

 この咸宜園の廣瀬淡窓の教育に対する考え方は、破格であった。

 成績の管理システムは藩校の五教館も開明塾も同じで、10段階制度で実力順に分けられた。毎月末に試験が行われ、月旦表(開明塾では通知表)というものである。

 1番上の特級から1番下の9級までで、7~9級は補習の後、及第点をとれなければ落第とした。




 ■遡ること九月十日 玖島くしま城下 某所

「九左衛門様、御家老様は、いかに?」

 そう聞いたのは、五教館初等科を今年卒業し、中等部へ進学した渡辺清左衛門である。父は寺社奉行の渡辺巌で、弟の昇は初等部であった。

「予想どおりであったよ。御危篤ならばともかく、心身壮健ならざるともご健在なる御主君を、隠居が望ましいなどとは何事か、と。しかも御嫡男ではなく弟君など言語道断、と仰せであった」

「あのお方らしいですね」

「さよう。さればこそ殿も重用されているのであろうが、いかんせん、それが危うい」

「と、仰せになりますと?」

「『言路洞開』とは言うものの、実情は御家老の次郎左衛門様が藩政を仕切っているといっても過言ではない」

「独善的に過ぎる、と?」

「そうは言うておらぬ。されど今の藩論、藩政の向かう先が、次郎左衛門様の考えそのものなのだ」

「それがしもそのように感じまする。良し悪しは別にして、殿や他の御家老様方のご意向が反映されていないようにも見受けられます」

「本来ならば、それではいかんのだ。俺もまだ家督を継いではおらぬゆえ、お城では無役だ。建言したとて誰も聞かぬ。されど、本当に皆様が、すべて次郎左衛門様のお考えに賛同されておられるのか?」

「それは家督、ご当主の件にございますか?」

「そうではない。万事、万機公論に決しておるのだろうか、という意味じゃ」

「それは……いかがなものでしょうか。結果として次郎左衛門様のなさった事は益になっておりまするが、以後も同じとは限りませぬ」

「というと?」

「それがしは、たかが書生の身にてつぶさには存じませぬ。さりながらどうにも皆様方には、すべて次郎左衛門様の言うとおりにして、失敗すればすべての責を次郎左衛門様に負わせるつもりではないか、と思えてならぬのです」

「ふむ。では、いかがいたそうか」

「……まずは、我らの同志を集めねばなりませぬ。さりとて、藩内にて徒党を組むは厳に禁じられております」

「うむ」

「まずは後ろ盾。弟君様に新たな考えをもっていただく。また藩の上役、できますれば両家や御家老衆、上から仲間に引き入るのが肝要かと存じます」

「それはまた、相当に難しかと思うがいかに」

「なにも一朝一夕に為さねばならぬ事ではございませぬ。ゆるりと、ゆるりと進めていけばよいかと。加えて殿の御参府にあわせて、適任者を同行させてはいかがでしょう。江戸にて弟君の信を得るのです」

「ふむ。では父上にお願いしてみよう」




 次回 第84話 『七郎麻呂一橋家を継ぎ、孝明天皇即位す。天下の遊学先は江戸よりも大村になるやもしれず』

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