弘化四年十二月二十六日(1848/1/31) <次郎左衛門>
この月、水戸の徳川斉昭が外国人追放に関する意見書を提出した。昨年謹慎を解除されてから、2回目の意見書である。精力的だと言うほかはない。
幕政に参加したいとの権力欲か? いやいや、純粋な憂国の志からだろう。かなり、いや相当アクの強いおっさんだったけど、なんか邪なものは感じなかった。
本当にそれが正しいと信じているんだろう。ちょっと行きすぎ感は否めないけど。
南の薩摩藩では、知る人ぞ知る調所広郷さんが給地高の改正を行っている。
薩摩藩は500万両の借金があったらしいから、その返済も膨大だ。年間の利息だけでも80万両を超え、12~14万両の歳入じゃあ返済不可能だった。
さすが大藩。見習えないけど、桁が違う。
■松代藩
「象山よ、被災の復旧の有り様はいかがじゃ?」
藩主の真田幸貫は、家老と共に地震災害の復旧に努めている佐久間象山へ聞いた。
「は。川の土砂や村々の瓦礫を取り除き、家屋の修復が進んでおります。いまだ家のないものは多うございますが、炊き出しを定めて行っておりますれば、餓死者などは出ておりませぬ」
「うむ」
幸貫はつらそうだ。誰であれ、天災はどうしようもない。迅速な処置によって川の氾濫による二次災害は防げたものの、それでも被害が甚大な事に変わりはない。
「くわえて、田畑が受けた被害も甚大にございます。然(さ)りとて、来年の田植えまでには幾分か戻りましょう。二年ないし三年は年貢に障りはでるかと存じますが、大村藩の支援が大きゅうございました。おかげで他藩への借財も少なく終わりましてございます」
「ふむ。大村藩か……」
幸貫は何か考えているようだ。
「象山、お主は大村……丹後守殿とは面識があるのか?」
「ございませぬ」
「ではなにゆえに、あのような遠方から支援の兵糧や味噌醤油、さらには銭まで送ってくれたのだ? いや、感謝はしてもしきれぬのだ。お礼の文はすぐに送ったのだが、次の参府の際にはぜひに会って礼を述べたい。しかしなにゆえ……」
「それがし、大村藩家老の太田和次郎左衛門殿と、多少知己がございまして……そのご縁にございましょう。誠に、ありがたいことにございます」
「誠か! ? ならば、ならば……もしや! お主は長崎の遊学を志しておったろう? 大村藩と、なにやら関わりがあるのではないか?」
象山は地震の前、長崎への遊学を申し出ていた。
次郎の名前も出さず、大村藩の名前も出していない。あくまで、まだまだ藩のためには勉強が必要で、それには長崎でなくてはならない、との体で希望していたのだ。
「誠に申し訳ございませぬ。決して、決して殿を謀ろうなどと、そのような事微塵も考えておりませんでした。ただ他藩に留学ともなれば、様々なしがらみができまする。それゆえあえて、伏せたのです」
「良い。わしはそこを責めているのではない。ならばなおさらである。象山、そなた長崎、いや大村藩に赴いて大いに学んでくるのだ。そしてその知識を藩のために役立てよ」
幸貫は思い切った。
「よ、よろしいのですか?」
「うむ。本来ならば五年は藩にいて欲しかったが、幸いにして少しずつではあるが、復旧に向かっておる。借財、いや義援金と支援物資とか申しておったな。その礼も、必ずや謁見を願い出て、直に申し上げるのだ」
「は、ははあ!」
■江戸 大村藩邸
「修理様、こちらにいらっしゃいましたか」
大村修理は諱を純熈(初名は利純)といい、大村藩主、大村純顕の弟である。文政十三年(1831)に大村の玖島城で10代藩主の大村純昌の十男として生まれ、天保九年(1838)に純顕とともに参府し、以降は江戸で育った。
山川宗右衛門は、針尾九左衛門によって江戸の藩邸詰め、ならびに修理の側用人を命じられていた。年齢はこのとき17歳。純熈と同い年である。
江戸にある各藩の武家屋敷は、大村藩における玖島城下の武家屋敷と同じように、家格によって立地が決まっている。
藩邸は永田町にあったのだが、路地に向かって左隣が細川豊後守、左斜め向かいが松平主税頭など、大村藩の表高である2万7千石と変わらない家格の大名が並んでいた。
細川豊後守(興建)は常陸国の矢田部藩で1万6千二百石、松平主税頭(頼徳)は同じく常陸国の宍戸藩で1万石である。
「宗右衛門か、いかがした?」
純熈はその隣人の嫡男、細川興貫を呼んで茶を飲んでいた。同世代である。ここにはいない松平主税頭は、すでに若年ながら家督をついでいた。
「は、申し訳ございませぬ。時を改めまする」
「よい。どのみち、遅かれ早かれ、こうして三人で茶を飲むこともなくなるのだ。お主もどうじゃ? 遠慮はせずともよい。辰十郎(興貫)どの、よろしいか」
「構いませぬ」
興貫はなにかを察知したようであるが、あえて言葉にはしなかった。
「では」
宗右衛門は入室し、下座に座る。
「して、いかがした」
「は。さきごろ国許より知らせがまいり、修理様(純熈)へ国許に戻るようにとの事にございました」
宗右衛門は静かに告げた。
「ふふふふふ。そうであったか。やはりの。嫡男が生まれたそのかみ(時点)、そうなるであろうと考えておった。もとより兄上は壮健ではないものの、長きに渡って病に伏せている訳でもない。家督など、そもそも私の望みではないからの」
「修理様、何を……」
反論しようとする宗右衛門を純熈は制した。
「兄上が藩主で、見てみろ。大村藩は栄え潤っておるではないか。お主らの忠義は嬉しく思うが、それは本来の忠義ではないぞ。よいか。自重するのだ」
「……」
針尾九左衛門の発言以降、次郎は純顕に進言し、言路洞開とは言うものの、藩の御政道をむやみに危うくする思想は気をつけるべきだとの考えを表したのだ。
そして、正式に幕府に願い出て、嫡男の甲吉郎(利純)を跡継ぎとするべく動いたのであった。その結果認められ、次の純顕の参府の際に甲吉郎が同行し、大村に下る際に純熈が同行する形になった。
(これは……いかがなものか? 九左衛門様にお知らせしておくべきだろう。修理様にその意趣なし、と)
「良い、天気ですね」
「ええ、本当に」
純熈と興貫は、宗右衛門の考えをよそに、年の瀬のせわしい中、久々に晴れて暖かく天気の良い空を眺めていた。
次回 第94話 (仮)『鷹司政道の歌道と遊学生続々大村へ』
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