第67話 『大村藩、全国に先駆け、種痘を推奨す(コレラ・麻疹・天然痘撲滅へ!)』(1845/6/18)

 弘化二年五月十四日(1845/6/18) 次郎邸 <次郎左衛門>

「これ、御家老様はお忙しいのだ! お手を煩わせるでない! 申し訳ありませぬ御家老様! なにぶんまだ子供ゆえ、お許しいただきたく存じます」

「ははははは! よいのです俊達先生。子どもは元気なのが仕事のようなものです」

 元気に走り回っている男の子は、俊達先生の孫である後の長与専斎だ。父の中庵先生も藩医で、俊達先生と同じく蘭学らんがくに傾倒していたが、一昨年、専斎が4歳の時になくなっている。

 その後は祖父の俊達先生が面倒をみていた。

 子供の頃に親を亡くすって、かなりショックだろうな。しかもまだ小学校に入るか入らないかの年齢だぞ。

「先生、やはり五教館に入れるのですか」

「はい。五教館にて学び、その後は適塾にと考えておりました。されど医者ならば、一之進先生以外に、この日ノ本で師事する方はおりますまい」

「ははは。大人気だな一之進は。うらやましい。して、種痘の件はいかがじゃ?」

 ほんと、うらやましい。俺も弟子が欲しいよ。

 というか俺の弟子ってなんだ? 歴史オタで軍事オタの弟子?

「はは。私と同じように、というのはおこがましいのですが、一之進先生も出島のモーニッケ先生にバタヴィアの種痘を頼んでいたようで、今年それが届きます」

 ああ、あれね。

 すっかり忘れていた。ペニシリン開発の陰に隠れていたのだ。

 当時(江戸時代)は毎年冬に天然痘が流行し、祈るしか方法がなかったのだが、大村藩では患者を隔離して養生させる施設を設けて、天然痘対策に力を入れていた。

 人痘種痘法……この方法は天然痘患者の瘡痂皮そうかひ(かさぶた)をすりつぶし、鼻に吹き込むもので、10人に1人が死んでいた。

 しかし、半数が死亡する天然痘のリスクを考えて、ある程度は容認されていたのだ。

 いわゆる牛痘種痘法は松前藩以外では一般的ではなかったが、佐賀藩が種痘を成功させる4年前の事である。




 ■医学方 尾上研究診療所

「天然痘はこれでなんとかなる。後はコロリと麻疹だ」

 一之進は俊達が牛痘種痘法の促進を願い出ていた事(史実ではやっていない)は知らなかったが、それに関しては専門家の俊達に任せる事にした。

 予防法がわかっているのだ。任せれば良い。

 問題はコレラと麻疹はしかである。

 麻疹は麻疹ウイルスによる感染症で、空気感染・飛沫ひまつ感染・接触感染と感染経路は多岐にわたる。抗ウイルス薬もないため、ワクチンが唯一の予防法である。

 マスクや手洗いなどでは完全に防げないのだが、幕末の技術では生成不可能なのだ。

 麻疹ワクチンは 生ワクチン(ウイルスを弱めたもの)である。

 ワクチンを溶液として保管すると不活化する可能性があるため、凍結乾燥したワクチン粉末を、純水などと接種直前に混ぜ合わせ、皮下注射または筋肉注射で投与するのだ。

 注射はできる。
 
 凍結乾燥は難しいかもしれないが、冷凍庫が完成すれば、近い将来可能かもしれない。しかしそれよりも重要なのは、生ワクチンの製造である。

 ワクチンを弱めたものであるが、臨床という壁がある。

 どのように弱めるか? どの程度弱めるか? 動物実験から始めなければならないし、麻疹も天然痘と同じく致死率が強いものだから、容認されるのだろうか?

 そもそも一之進は専門外である。結局、現時点では対症療法しかないことが、無念でならない。

 ちなみに次郎を含め信之介、一之進、お里は神様のイタズラかやさしさなのか、ツベルクリン・BCG・天然痘・おたふく・風疹等々の免疫がある。

 アセトアミノフェンやイブプロフェンなどの解熱剤、せきを鎮めてたんを取り除く対症療法、輸液や酸素投与などの支持療法を行うしかないのだが、化学部質なんてない。

 漢方に頼る解熱と咳や痰の除去、それから経口補水液や輸液、酸素投与……点滴に必要な器具を大量に作る必要がある。酸素は……合成方法を信之介に頼むしかなかった。

「先生、先生のお力をもってしても、麻疹は、防げぬのですか?」

「……残念だが、今は、今はそうだ」

 麻疹ワクチンは1954年に分離されたEdmonston株を親株として、ニワトリ胎児胚細胞をはじめとした、本来の感受性宿主(人間で言えばかかりやすい人)以外の細胞で継代することにより、高度弱毒生ワクチンが樹立された。

 実に100年以上先の技術なのである。

 ……コレラに関しては、衛生環境を良くするしかない。

 これに関しては前述の長与専斎が『衛生』という言葉をつくったので知られているが、それに先だって大村城下や藩内の衛生環境を整えようという試みを行った。

 江戸時代、幕末においてコレラは文政・安政・文久の3回の大流行という説と、文久を除いた2回だという説がある。2回説は文久の流行を安政の延長だとみているが、ここではそれはどうでもいい。

 文政以降、毎年死者が出ているのだ。
 
 毎年流行しているというより、感染者数が多い年と少ない年にわけられると言った方がいいだろう。治療法がなかったのだ。

 日本では13年後の、ペリー来航の嘉永三年(1583)から5年後の安政二年に、長崎でコレラが流行した。

 その際はオランダ軍軍医のヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトが治療にあたったのだ。

 解熱剤のキニーネや、腸の運動を抑えるモルヒネを使ったコレラ治療を行い、患者の生存率が飛躍的に上がった。

「コレラに関しては、いかに防ぐのですか?」

 コレラは、コレラ菌で汚染された飲食物を摂取することによって感染症である。そのため、飲料水や食物からの感染を絶つ事が第一の予防となるのだ。

「コレラは感染した人の糞尿ふんにょう吐瀉としゃ物から伝染していくのだ。領内で感染が認められたら直ちに生食を止め、生水も飲まない。必ず火を通して食べる事が肝要だ」

 全員が真剣に聞いている。

「じろ……御家老様を通じて殿に進言しなければならぬが、公衆衛生を徹底しなければならない」

「公衆……衛生、にございますか?」

「うむ。下水道の完備であるが、これはいささか時がいるであろう」

 大規模な工事が必要である。

「患者にはどのような治療がありますか?」

「特別な薬は要らぬ。水に少しの塩と砂糖を加えたものでよい」

「それだけでよろしいので?」

「うむ」

 砂糖は1斤(600g)で銀九分六厘(153文)、塩は4斗入り1俵(18.9kg×4=75.6kg)で銀4匁八分(764文)。1升で19文。

 米が1石(150kg)で77.7匁(12,376文)、1升で123文、5kgで412文の時代である。(※近世大坂の物価と利子より)

 経口補水液1ℓにつき、砂糖40gに塩3g。塩は計算できないくらい少量なので省くが、約10文で1ℓできる。酒1合が17.5文、米1合が12.3文であるから、それと同等である。

 一之進は次郎を通して、予防と感染拡大防止、治療のための措置を頼むのであった。




 ■大砲鋳造方
 
 6と7回の操業で、それぞれ核鋳砲1 門ができた。

 5回目以降に炉内に装入した鉄はすべて溶解するようになったが、溶解後の流動性はまだ十分なものではなかった。
 
 試射した1門を含む砲3門(1門は前回破裂)は、中子を作って鋳造し、砲孔を削り仕上げた。(核鋳かくちゅう法)
 
 この方法は日本古来の鋳物職人が青銅砲を造る方法と同様であり、作業は短い時間で終わる。

 後は試射を待つばかりである。

 かや瀬村・波佐見村・大串・戸根の鉱山は、やはり採算があわないようだ。産出量が少ないのである。四カ所の鉱山に均等に予算を投入するか、それとも一極集中か? いっその事全部廃坑にするか?

 次郎は悩んでいた。




 ■佐賀城

「なに? それは誠か?」

「はい。誠にございます。大村藩内に行商に出ていた商人が、何人も見ております。まるで山火事でも起きたように大きな黒煙がもうもうと立ち上り、武雄から波佐見へ向かう峠からは、大きな煙突が何本も見えたそうにございます」

「ううむ……先日の帆船の儀といい、大村藩はいったい何をしておるのだ?」

 我が藩こそが長崎警護の任にあたるにふさわしく、日本で1番西洋技術を導入していると直正は自負している。
 
 隣の大村藩がいったい何をしているのか、気になって仕方がないのである。

「そこまではわかりかねます。されど、引き続き監視をしておりますれば、いましばらくお待ちくださいませ」

 前述のヒュゲーニンの『ロイク王立~』が佐賀藩士によって翻訳されるのが、5年後の嘉永二年ないし三年(1850 – 1851年)であり、すぐに反射炉の建造にかかっている。

 破裂したとはいえ、鋳造に成功している大村藩とは大きな差があった。

 
 
 
 この年の参勤交代で、藩主大村純顕は老中首座の阿部正弘に、長崎湾ならびに外海地区の防衛強化のための台場の設置を進言する。

 次回 第68話 『炭素鋼ドリルによる切削と口径を統一した芯金による鍛造製造』

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