第118話 『そのころの幕府と薩長土肥と他の藩、次郎左衛門の川越来訪』(1849/11/11) 

 嘉永二年九月二十七日(1849/11/11) 江戸城 <阿部正弘>

 さてさて、いかがしたものか。かくも多くの障り(問題)があれば、なにを初めにやれば良いのかすら、わからぬようになってくるぞ。三月には長崎にメリケン船が来おったし、四月にはエゲレス船じゃ。

 これは打払い令を再びやらねばならぬのか、と問えば反対の上書があふれかえりおった。誠に能うかと問われれば、能わぬとなるであろう。
 
 されどこうも頻繁にこられては、如何いかんともし難い。

「これ、江川と下曽根に命じておった件はいかがあいなった?」

「は、まずは江戸表の備としては品川沖に台場を備えるが肝要と、つぶさに調べ、その見積もりが出ましてございます」

「おおそうか! して、いかほどか?」

 具体的な金額がわからねば話にならぬゆえな。

「は、まず上書された物すべてを挙げますれば、品川沖に第一、二、三、五、六の台場を設け、砲を備え、大船を停泊させまする。その入目は、まず台場の入目として金七十六万三千八百七十一両、大筒並びに砲弾に加えて台座に五万八千九百六十三両、大船その他御船製造に六万三千六百五十七両、しめて八十八万六千四百九十一両となりまする」

 な、な、なんだと……。

 か、勘定奉行……これは能うのか? 先の上様の御代の豪奢ごうしゃな暮らしぶりに、天保七年の飢饉ききん。弘化元年の江戸城本丸の炎上の都度都度、大名に献金を命じては幕臣にも高割上納金を課したのだ。

 この上でさらなる献金など、無理ではないか。

「恐れながら御老中様、この上は……銀貨の改鋳より他ないかと存じます」

「改鋳とな?」

「は、これまで諸大名に献金をお命じになっておりましたが、此度こたびも、と言うわけにもまいりませぬ。加えて公儀の蔵入地へ献金を命じれば、なんとか捻出能うかと存じます」

「さようか……う、うむ。その儀については皆と協議するゆえ、江川・下曽根両名には沙汰を待てと伝えておくのだ」

「はは」

 ……これは、なんと。何をするにも銭がかかるが、そうだ佐賀の……いやいや、先だって長崎の備えを断ったばかりじゃ。それに西国の諸大名にこれ以上の負担はかけられぬ。

 ん? 西国……。……そうだ、丹後守殿とは見知らぬが、長崎奉行を通じて内々に聞いてみようかの……。井戸対馬守の手腕ならば丹後守殿の胸襟を開けるやもしれぬ。




 ■長州藩

「殿、家督を継がれてより早十年。ご慧眼けいがんによりこの毛利の家中の勝手向きも、随分と良くなり申した」

「うむ。清風。すべてそちのおかげぞ」

 天保八年に毛利家の家督を継いだ毛利敬親に対し、敬親まで5代の藩主に仕え、敬親の代に藩政改革をリードした村田清風である。

「何を仰せになりますか。殿の御下知なくば改革など能いませぬ。されど未だ改革は道半ばにございます」

「うむ。今後はいかなる事を為さねばならぬ?」

「第一に教育にございます。此度の藩校改革においては、武士に限らず町民や農民にまで門戸を開きました故、この先我が家中を担う人材が多く育つ事にございましょう。加えて殿、寅次郎の遊学の件にございますが」

「いかがした」

 吉田寅次郎(後の吉田松陰)は九年前の天保十一年(1840)に藩主である敬親の前で御前講義を行い、敬親のお眼鏡に適っていたのだ。

「平戸藩への遊学にて葉山左内に学ばせるとの事でございましたが、この際異国の事情を明らかにするためにも、長崎を含め西国諸藩を巡らせるのはいかがにございましょうか」

「……では、そうせい」

「はは」




 ■佐賀藩

「して、筑前公はなんと仰せだったのじゃ」

 直正は長崎防衛の見解の相違で、使者を遣わしては筑前福岡藩主の黒田長溥と協議を重ねていた。

「は、筑前様は、元々伊王島に堡塁ほうるいを築くは本意にあらず、然れども御公儀の差配するところにより、長者岩と高峰の模様替えを行うのが穏当だと仰せにございました」

 ふう、と直正はため息交じりに憮然ぶぜんとした表情で聞いている。

「このわしが好きでやっていると思うのか。我らは長崎の警固を仰せつかり、先のフェートン号のみぎりは世に恥をさらした。それ故にではないが、このように異国船が跋扈ばっこし、いついかなる時に攻めてくるやも知れぬかような時に、悠長な事は言っておられぬではないか」

「左様にございます」

「よし!」

 直正は意を決した。

「この上はこのわし自ら阿部殿と談判し、促さねばならぬ。第一に大砲の鋳造と、第二に銃火器の練兵ぞ」

 大砲の鋳造、性能の改善、銃火器を使う兵の練兵等々である。

「兄上、反射炉はいかがですか?」

 兄であり佐賀藩家老の鍋島茂真に聞く。

「いま試行錯誤してやっておりますが、なかなか上手いこといきませぬ。鉄が全て溶けぬのです。色々と試しておりますれば、今しばらくの猶予を願いたい」

「もとよりすぐに出来るとは思うてはおりませぬ。されど」

「されど?」

「心にかかる(気になる)は、大村の家中よ」

「密偵でも放ちますか? それとも使者を遣ってよしみを通わしまするか?」

 茂真は具体的な策を考えようとしている。

「いや、かえって目立つでしょう。別段不仲な訳でもないが、わが家中が頭を下げる事は……最果ての(最終的な)手立てでありたいのです。聞役(長崎聞役)を通じてそれなりの知らせは互いにあるであろうから、それとなく密に聞き、知らせるようにすればよいでしょう」

「承知しました」

 直正にしてみれば、大村藩の情報は喉から手が出るほど欲しかった。しかし、反射炉の製造にしても2~3年の遅れであり、十分に西洋化の面では挽回できると考えたのだ。

 もちろん、西国35万石の藩としてのメンツがなかった訳ではない。しかしこの場合は、間に合うだろうとの考えが強かったのだ。




 ■薩摩藩江戸藩邸

「なに? 周防(島津久光)が上座だと?」

 昨年の琉球密輸事件にからむ調所広郷の自害によって、藩主島津斉興と斉彬の間柄は険悪の一途を辿たどっていた。

 斉彬が数え四十を超えても家督を譲られなかったのは、蘭癖大名とされた島津重豪しげひでに似た斉彬による藩財政の悪化を、調所や斉興が懸念していたからだ。

 それが、調所の死によって加速した。

 斉興は斉彬の異母弟である久光を後継者と考えていたのだ。そのため藩政に携わらせるべく、城代家老の島津豊後の上座に据えたのであった。

「殿、これはもはや、疑いようもございませぬ。昨年の寛之助様、せんだってお亡くなりになった篤之助様の死は、呪詛に間違いございませぬぞ」

 まだ家督を継いでいないので正式には殿ではないが、若殿と言うには歳をとりすぎており、斉彬派にとっては『殿』であった。

「……」

「混迷を極めるこの時勢に、大殿様は無論の事、周防様では島津の家中はこのさき、立ちゆきませぬ」

「めったな事を言うでない。自重せよ。よいか、自重するのだぞ」

「は……」

 斉彬は島津の家中はもとより、混迷する日本の海外情勢と、薩摩藩が抱える琉球や外国船の来航など、やらなければならない事があっても、何もできないふがいなさに悶々もんもんとしていた。

「聞役からの知らせはまだか? 和蘭との貿易は黒田・鍋島・大村の三家中に限られたとは言え、奉行所と会所を通じての商いはこれまで通りであろう? その件も踏まえて探りを入れておったが、まだ大村家の事はつぶさにはわからぬか」

「申し訳ございませぬ。未だ……」

「わかった。よいか、くれぐれも軽挙妄動は慎むのだぞ」

「は……」




 ■土佐藩

「殿、またお酒を召し上がっておられるのですか?」

「ふふふ……藩主とは名ばかりよのう。なりとうてなった訳でもないが、いざなってみても、何もできぬではないか。馬鹿馬鹿しい。くだらぬな。自らがやりたいのであれば、隠居などせねばよいものを。くだらぬ、くだらぬぞ」

「……」




 ■水戸藩

「なに? また諸生党と天狗党が争っていると? 益体もない。今に始まった事ではなかろう」

 斉昭は武田耕雲斎にうんざりしたように言う。

「大殿様、そうは仰せでも、この幕府寄りの諸生党と天狗党のいさかいは今に始まった事ではございませぬ。お若い殿では収拾がつかぬかと存じます。なにとぞ御出座を願います」

 この年藩政に復帰した斉昭であったが、藩論を二分する党派の争いには辟易へきえきしていたのだ。幕政への意欲もあり、海防と攘夷じょういを建白してはいたものの、斉昭もまた、もどかしい想いにかられていた。

「あいわかった」




 ■宇和島藩

「功山はいかがしておるだろうの」

「は、されば文を寄越しておりますぞ」

「おお、見せよ」

 伊予宇和島藩主伊達宗城は、前原功山からの手紙を、時には笑い、時には疑問に顔をしかめながら読んでいく。

「息災に、つつがなくやっておりますか?」

「うむ。多くを学び、持ち帰ってもらいたいものだ」

 史実では村田蔵六とともに蒸気船を完成させる功山であったが、今世ではどうなるのだろうか……。




 ■次郎左衛門

 今ごろ隼人は加賀かな? 俺も出先だから状況がわからんけど、今はお茶の増産が大事なんだよね……あ! あああ! 思い出した! 製茶機発明した人いたやん!

 ……高林謙三さん。確か……川越藩! いや、ついでじゃないよ! 川越藩にいこう!




 次回 第119話 (仮)『次郎左衛門、川越藩にて高林謙三に会い、隼人は加賀にて大野弁吉を口説く』

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