遡って文久元年二月二八日(1861/4/7)
二月十九日付(23日博多着)
露国 測量セリ 修理ノタメノ小屋建テリ 食料求メラルルモ 牛ハ断リケリ
「これは一体どういう事ですかなゴシケーヴィチ領事、先日退去を命ずるようお願いしたはずですが」
外国奉行として交渉に当たっている村垣範正は、いっこうに退去しないロシア艦が、さらに測量・上陸・兵舎の建設等を行っている事を、駐日ロシア領事のヨシフ・ゴシケーヴィチに厳しく非難したのだ。
箱館奉行所には大村藩の五教館開明大学卒の通訳がいる。
「村垣奉行」
ゴシケーヴィチは落ち着いた様子で応じる。
「我が国の軍艦の行動に誤解があるようですね。艦隊の修理は予想以上に時間がかかっており、一時的な滞在が延びているだけです。測量や小屋の建設は、安全な停泊と作業員の宿泊のために必要不可欠な措置なのではないでしょうか」
「条約第一条に基づき、貴国の軍隊が我が国の領域に無断で侵入していることに対し、正式に警告します。すでに対馬家中より訴えがあります。さらに、第三条により、貴国の艦隊が行っている測量行為は我が国の国益を損なう恐れのある行為として、即刻中止を求めます」
範正は眉をひそめ、声に力を込めて反論したが、ゴシケーヴィチは軽く肩をすくめ、冷静に範正の発言に反論する。
「奉行、我が艦の行動は友好的なものです。第五条にもあるように、条約の解釈については協議の余地があるのではないでしょうか。修理が必要な状況下での一時的な滞在は、侵入や占領とは異なると考えます」
「友好的な意図があるにせよ」
と範正は毅然として返した。
「測量ならびに兵舎の建設や、その他の行為も現地の対馬領主の同意を得て行われているのですか? そうでなければ貴国の行為は我が国の主権を侵害しています。条約第二条により、我々はこれに対して断固たる行動をとる権利があります。測量の中止と速やかな退去を要請します」
ゴシケーヴィチは表情を引き締めて答える。
「理解いたしました。しかし、修理が完了するまでは完全な退去は困難です。第10条に基づき、この件について協議をいたしたいと存じます。それまでの間、最小限の活動を継続できないでしょうか」
範正は厳しい表情を崩さない。
「協議には応じますが、これ以上の主権侵害行為は認められません。測量は即刻中止し、新たな建造物の建設も控えていただきたい。また、現地住民への影響を最小限に抑えるよう求めます」
ゴシケーヴィチは渋々同意した。
「承知いたしました。測量と新たな建設は中止し、現地住民との接触も最小限に抑えるよう、中国海域艦隊司令部を通じて通達します。ただし艦隊の安全確保のための、必要最小限の活動は継続いたしたい」
範正はうなずきながらも、警告を発した。
「了解いたしました。しかし、これ以上の違反行為があった場合、条約に基づきさらなる措置を講じざるを得ないことをご承知おきください。また、貴国本国にこの状況を速やかに報告し、対応を求めてください」
交渉は一応の決着を見たものの、両者の間には依然として緊張が漂っていた。
■三月二十二日 箱館
三月十三日付(17日博多着)
伐木セリ 水兵トノイザコザアリ 大工ヲ求メ 木材買イ上ゲシ
「領事! 状況が改善されるどころか、なぜイザコザが起きるのですか? 我が国は和親条約はもちろん、通商条約に基づいて人道的な配慮はしているつもりです。なぜ民間人と争いが起きるのですか?」
村垣範正の厳しい追及に対し、ゴシケーヴィチは一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。
「村垣奉行、大変申し訳ございません。事態を把握しておりませんでした」
ゴシケーヴィチは誤解を招かないよう、ゆっくりと答えた。
「水兵たちの行動が度を超えたことは誠に遺憾です。しかし長期の航海と、予想外の修理の長期化による不満の蓄積が原因かもしれません」
「それは言い訳にはなりません。貴国の軍紀の問題ではないですか? さらに、伐木や木材の買い上げなど、許可を得た行動ですか? これらの行為は明らかに条約違反です」
「奉行のご指摘はごもっともです。軍紀の問題については早急に対処いたします。伐木や木材の買い上げについては、修理に必要不可欠だったためです。しかし、現地当局との調整を怠ったことは認めます」
一応の決着を見たものの、範正は、ロシア艦隊の行動を注視し続ける必要があると感じながら、この難しい状況をどう打開するか思案を巡らせていた。
まったく、のれんに腕押しではないか!
■四月七日
三月二十八日付(4月2日博多着)
芋崎ヲ借リ受ケタイトノ申シ出アリ
「領事! これはいったいどういう事ですか! 借り受けたいとは清国と同じように、なし崩しにして自国の領土にでもなさるおつもりか! これでは如何なる事を我が国が報復として行ったとしても、どの国も擁護いたしませんぞ! 沈められても文句はいえぬ!」
「奉行! 誤解があるようです。我々の意図は決して領土の占拠ではありません! 芋崎を借り受けたいという申し出は、あくまで一時的な修理基地としての使用を目的としたものかと思われます!」
ゴシケーヴィチは瞬時に答えたが、穴があった。
「馬鹿な事を仰るな! なにゆえ借り受ける必要があるのですか? 借りるという事は、金さえ払えばその土地を売る以外、何でもできるのですぞ! 船の修理のためだけに、借りる必要などないではありませぬか! 事情を説明し、最も少なく、必要なだけの物を建てれば良い! 明らかに悪意がありますぞ!」
ゴシケーヴィチは汗を拭いながら話し始める。
「奉行、わが軍の不適切な行動に対して、深くお詫び申し上げます。今後の対応について、具体的な提案をいたします」
範正は真剣な表情でゴシケーヴィチを見た。
「如何なる対策を考えているのか、聞かせてください」
ゴシケーヴィチは姿勢を正して答える。
「まず、芋崎の借用要請は即刻撤回します。次に、軍艦の修理に関するすべての要請は、正規の外交手続きを厳守します。また、現地当局と協力し、修理作業は必要最小限に留めます。水兵たちへの規律指導も徹底し、地元住民との争いが起きないよう努めます」
「当然です。しかし領事、今この時、貴国の軍艦が沈められ、もしくはそれ相応の武力衝突になっていたとしても、条約に基づき、責任は貴国にありますぞ」
ゴシケーヴィチは範正の厳しい言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐに対応した。
「奉行、ご指摘の通りです。我が軍の行動が条約違反であったことを認めます。武力衝突が起きていれば、確かに我が国に責任があったでしょう。しかし、幸いにもそのような事態には至っていません。今後このような事態を二度と引き起こさないよう、最大限の努力をいたします」
範正は冷静に返答した。
「その認識で結構です。よいですな? この時点で起きていたとしても、貴国の責任で、我が国は一切の責を負う物ではない、よいですな?」
ゴシケーヴィチは、範正の言葉の重みを感じ取り、慎重に答えた。
「はい奉行。その通りです。仮にこの時点で武力衝突が起きていたとしても、それは我が国の行動に起因するものであり、日本側には一切の責任がないことを認めます。条約違反を犯したのは我が国であり、そのような事態になっていれば、すべての責任を負う覚悟です」
範正は、ゴシケーヴィチの言葉を確認するように続けた。
「よろしい。ではそのように対処をお願いします」
■四月七日(1861/5/16) 江戸城
四月三日(1861/5/12) 付
発 太田和六位蔵人 宛 御大老
我ガ国民射殺サレリ ココニ至ッテ 武力ヲ以テ 露国軍艦撃沈セリ
「上野介、江戸の物の値はいかがじゃ? 廻送令にて滞りなく……なに! なんじゃと?」
安藤信正は久世広周と小栗上野介、岩瀬忠震とともに業務中に、驚愕の事実を知った。
「御大老様、如何なさいましたか? 某はもう、大抵の事には驚かぬようになりましたぞ。さすがにロシアも……癪ではありますが、大村家中のあの艦隊を見れば、なんらかの行いを為すでしょう。直に退去するかと。箱館でも村垣殿が交渉しております」
涼しげに答える上野介と対照的に、信正は顔色を変えて答えた。
「いや、事態はそう簡単ではないようじゃ。今、報せが入った。対馬にて我が国民が射殺され、それに対して大村海軍がロシアの軍艦を撃ち沈めたというのだ」
「 「 「なんですと!」 」 」
全員が同じような反応を見せた。
上野介は驚きを隠せない様子で尋ねる。
「御大老様、それは重き事ですな。詳し事様は明らかなのですか?」
久世広周も厳しい表情で意見を述べた。
「これは単なる外交問題では済まされませんな。我が国民の死、そして軍艦を沈めたる儀。両国の関係に甚大な名残(影響)を与えかねません」
岩瀬忠震は冷静に分析し、続ける。
「ロシアの報復も考えねばなりませんな。沿岸の備えを高めるべきかと」
「そうじゃな。まずは子細を知らねばならぬ。対馬家中と蔵人へさらなる報せを送るよう伝えると共に、今以上の事様にならぬよう自重せよと伝えるのだ。箱館の淡路守(村垣範正)にもしらせ、公儀としての策を練らねばならぬ、方々、知恵を絞ってくれ」
信正は重々しく言った。
■対馬
「よいか、まずは捕虜の差し出しを条件に、投降を促すのだ。もし拒むようであれば、救出の策を練る」
次郎はポサドニック号を撃沈した後の事後処理を行っていた。
「御家老様、対馬宗家中、家老の杉村様がお見えになりました」
「良し、会おう。これより先の事を論ぜねばならぬ。丁重にお迎えせよ」
発 六位蔵人 宛 御大老
敵艦沈メシ後 生キ残リシ者ノ救助 ナラビニ 陸ノ上ノ兵ニ対シ 領民二名ヲ返スヨウ談合(交渉)中
次回 第257話 (仮)『戦後処理その2』
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