第496話 孤立無援に四面楚歌 徳川家康vs.曽根虎盛

孤立無援に四面楚歌 徳川家康vs.曽根虎盛 緊迫の極東と、より東へ
孤立無援に四面楚歌 徳川家康vs.曽根虎盛

 元亀三年改め天正元年(1572年) 正月九日 岐阜城

 信長としては反織田の包囲網が崩れたとは言え油断できない状況であり、雪解けを待って朝倉攻めをする為には、武田との和睦は喫緊の課題であった。

 そのため純久の仲介で光秀を調整役として、虎盛との会談を設定していたのだ。

『条件次第』

 これにつきる、というのは織田陣営のスタンスである。

 対照的に徳川は、一戦も辞さず徹底抗戦の構えで、信長の要望により仕方なく家康が出向いて来た、という状況だ。

 信玄が死んだとなれば話が違うのだ。攻勢に転じて武田領、正確には武田に奪われた徳川領と遠江を取り返す。これが家康の考えであった。

 家康は信玄が生きている事を知らなかったが、織田からの情報提供で生存を知った。信玄が生きているなら、信長にしても家康にしても、戦いたくはないであろう。

『負』『敗』のイメージしかないからだ。 

 しかし、その武田からの和睦の要請である。ここは強硬姿勢を見せた上で交渉を行い、できる限りの譲歩を引きだそうというのだ。

 信長に武田との和議を認めさせるために、利三郎と直茂、そして純久は面談した。

 三人は虎盛には和議の斡旋だけだ、と伝えてはいたものの、あまりに難題のぶつけあいでご破算になっては意味がない。

 そこで三人の中から純久を残し、この場にいる、という訳である。 

 岐阜城は元は天嶮の城ではあったが、信長によって縄張りが破棄され、新時代を思わせるような城塞群となっている。

 豪華絢爛、小佐々の諫早城を見たことがない人間にとっては、そう感じるであろう城の中で執り行われたのだ。

 信長をはじめとしてその家臣、徳川家康と家中、武田家の家老、曽根九郎左衛門尉虎盛の姿があった。

「おお、これはこれは。飛ぶ鳥を落とす勢いの小佐々家家老であり一門、そして京より東をすべて行い治むる治部少丞殿ではござらぬか」

 家康の側に控えていた石川伯耆守数正が、皮肉めいた口ぶりで言う。

「伯耆守殿、三年前の京都以来になりまするな。息災にございましたか?」

 織田家は小佐々家と五分の盟約を結んでいる。

 その織田家と徳川家はまた、五分の盟約を結んでいた。そのため家格に違いはあっても、数正はお互いに同列だと考えていたのだ。

 しかしこの時点ではすでに信長は美濃を平定し、将軍義昭を奉戴し宣下させている。織田と徳川では力の差は歴然で、形式上は五分であっても、従属色の色合いのある同盟であった。

 浅井長政が抱いていた不安と、同じものを家康も抱いていたのである。

 しかしそれでも純久は、数正の態度に対応を変える訳でもなく、お互いを五分として接したのだ。

「息災、な訳はありませぬ。武田との戦、どれほどの血が流れたか」

 数正は虎盛を見据えて言う。虎盛は言葉を発しない。

「これ、数正、控えぬか」

 家康が間に入る。

「然りとて、こたびの和議、当方から望んだものでないことは、申し伝えておきます」

 人質生活の長かった家康は、腰が低い。それでも言うべきところは言う、そういう芯の強さが見え隠れした。

「では兵部卿様(信長)、侍従様(家康)、左衛門尉殿、これより織田、徳川、武田の三家による和睦交渉に移りますが、よろしいですか?」

 純久は治部少丞であり従六位上である。虎盛のみ武田家中であるし、同じく従六位なので『殿』なのだ。

「よかろう」

「承知した」

「承りました」

「では全員の賛同をもって和議を進めてまいりますが、まずは左衛門尉殿、武田からの申し出にて、なにか条件はございまするか?」

 純久は虎盛に、条件の提示をするよう伝えた。

「は、然れば申し上げまする。我が武田家は、特段条件をお出しすることはございませぬ。兵部卿様(信長)ならびに侍従様(家康)のお申し出が相応なれば、甘んじて受ける所存にございます」

 一同がざわつく。

「甘んじて、受ける、とな?」

 信長は表情を変えない。

「は、相応なれば、お受けいたしまする」

「ははははは! 面白い事を仰せになる。然れば和議の場ゆえ、戯れ言では済まされませぬぞ」

 虎盛の言葉に、徳川家中から声が上がる。

「控えよ」

 家康の言葉に鎮まるも、続いて家康が言葉を発する。

「ではこたびの戦、武田が先に仕掛けてきた事ゆえ、三河遠江をお返し願うは無論の事である。さらには甲斐と信濃の領国のうち、いくらかの割譲ものむ、と言われるのか」

 家康は少しだけ笑みを浮かべた顔で、静かに虎盛に訊く。

「然に候わず。そは一方ばかりの(それは一方的な)意見にて、こちらの考えを申さば、先の戦においては、やむを得なき仕儀にて攻めかかりけり次第にござる」

「一方ばかり、とはいかに?」

 家康も心の内には鬱憤がたまっているのだろう。しかし顔には出さない。

「はい、つぶさに(くわしく)申さば、遠江駿河の今川領に攻め入りけり折り、大井川を境に東は武田、西は徳川との取り決めがあり申した」

「うむ」

「その後、我が武田の兵が遠江に美濃路より入りけり事は、すでに詫び言(謝罪)を申し上げております。その後も細かな行き違いはあったものの、武田は徳川に対しての何の二心もございませなんだ」

 徳川陣営がざわつく。

「然りながら侍従様は、上杉と盟を結びてわが武田を陥れ、南北より挟まんとされました。その上今川、北条と、一切の断りもなく和睦するとは言語道断にござりませぬか」

「それまで! 侍従様も左衛門尉殿も、それまでにござる」

 慌てて純久が割って入った。徳川陣営の顔が怖い。

「今、いくさの端(発端)を論じても詮無き事にございましょう? いずれにも言い分ありて、話が進みませぬ」

 本能寺の変の直前に武田が滅び、そして変後に徳川が武田領をのみ込んだように、一大勢力になってもらうのが小佐々にとって一番困るのだ。

 それが織田でも徳川でも、武田でも同じである。

「ふむ」

 条件次第と信長は考えていたが、正直なところ、武田から多くを取れるとは考えていなかった。

 そもそも東美濃恵那郡の岩村城は、織田と武田に両属しており、岩村城主の遠山景任には信長の叔母にあたる『おつやの方』が嫁いでいた。

 武田にも属していたため、武田軍の遠江への軍の通行を許したのだ。それが信玄の西上作戦前、武田と徳川の誤解のもととなっていた。

 景任が死んだ後、信長は東美濃の支配権を強めようと、息子の御坊丸を岩村遠山氏の跡継として送り込んでいる。

 おつやの方を事実上の岩村城主としていたのだ。

 これに怒ったのは信玄である。信玄はこれを口実として、遠江侵攻の本隊とは別に秋山信友に命じて軍勢で包囲し、岩村城を降伏させて武田に服属させた。

 その際、御坊丸(織田勝長)は人質として甲斐に送られている。

 自分の叔母が敵である(敵となった)武田の家臣の秋山信友に嫁いだ事は、信長にとっても耐えがたい屈辱ではあったが、信玄との話し合いもなしに事を進めていたのは事実である。

 それらを鑑みて、人質である御坊丸の解放と和睦、これが信長の最低条件であった。

 一方の家康は、というと三河と遠江の三分の一以上を攻め取られているのである。このままでは済まされない。

 最低でも元の状態に戻さなければ、和睦など結べないのだ。

「では聞こう。甲斐信濃は別としても、三河遠江の所領はお返し願える、と言う事でよろしいのか?」

 家康がぐっと突っ込んだ話を切り出した。しかし、結局のところは、誰もが予想できた展開なのである。

「はい、ご随意に……と申し上げたいのでござるが、これはそれがしの一存で決める事はできぬのです」

 虎盛が、一見すると意味不明な事を言った。

「なに? 貴殿の一存では決められぬ、と? これは異な事を。武田の、大膳大夫殿(家督相続しているので勝頼)の名代としてここにいるのなら、答えられないとは、これいかに?」

 なぞなぞ、まるで禅問答のようなやりとりであったが、虎盛には虎盛の理屈があった。

「奥三河に北遠江、そして東美濃の恵那郡は武田の蔵入地(直轄地)にあらず。国人衆が治むる地なれば、それがしがここで受け入れたとて、その通りに事が運ぶか心得難しにこざる(わからない)」

「なんとぞんざい(いい加減)な! そのような言い分、まかり通りとお思いか!」

 また徳川家中がざわめき立つ。

「ぞんざいも何も、誠にござる。では、いかようにすればよろしいのでしょうか? 国衆に、武田は徳川と和睦したゆえ、元に戻りてこれからは徳川に従うように、とでも言わねばならぬのでござるか? それこそおかしな話にござりましょう」

 虎盛は続ける。

「そもそも国衆は、武田強しとわが方に服属したのではありませぬか? 強きに従うは戦国の常にて、これにどう抗えと言うのですか。どれほど国衆に信を置くかは人によるかと存じますが、それでもわれらに、国衆に徳川に帰順せよと、説いてまわれと仰せにござろうか」

 純正が筑前と筑後の国衆に対して、宗麟を相手取ってやった事や、伊予の国人に選ばせた事に似ているかもしれない。

 確かに、和睦が成立したからこれからはあちらの勢力ね、という風に説得してまわるなど、聞いたことがない。

 それに一度は背いた国人衆である。

 帰順したとて、出戻りの待遇は厳しいものになるかもしれない。賦役や軍役を他よりも重く課されるかもしれないのだ。

 それよりは武田に降ったのなら、そのまま武田の勢力下に留まった方がいい。

 家康は、悩んだ。

 

 ■諫早城

「おーよちよち。パパでしゅよー。ばあ~」

 およそ半天下人とは思えないゆるんだ顔で、去年の五月に生まれた篤姫を抱っこしている。その傍らには嫡男で四歳の舞千代がいる。

 やはり小さな子供の前では、親の姿というのは今も昔も変わらないのだろう。

 威厳もなにもない。

「殿、前々から思うておりましたが、その『ぱぱ』というのは何なのでございますか?」

 藤姫が訊いてくる。

「南蛮の言葉で『父』という意味だよ。正確には今諫早にいる『ぽるとがる』ではなく、もっと北の『イギリス』の言葉だけどね」

 ※正確には英語、というわけではない。

 普通ならここで『いぎりす? それはどこの事ですか? なぜそのような事をご存じなのですか?』と、聞き返しそうなものだが、藤姫はそうしない。

「あら、では『母』である私は何と言うのですか?」

「母は『まま』だよ」

「まあ、そうなのですか。はーい、ままでちゅよう」

 ……。

 隣で見ている舞姫は、うずうずして自分もそう呼びたそうなのだが、嫡男の舞千代は四歳になっており、すでにそう呼ばせるには遅い。……次に期待していた。

 

「申し上げます! 建州女真への使節の代表が謁見を求めております」

「……あいわかった。控え室にて待たせるが良い」

 家族団らんも、なかなか上手いこといかない純正であった。
 

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