第504話 加越同盟と越前の未来

加越同盟と越前の未来 緊迫の極東と、より東へ
加越同盟と越前の未来

 天正元年(元亀三年・1572年) 二月六日

「敵大軍なれども われに地の利あり 心配に及ばず 一乗谷で 督戦 あれ」

 一乗谷にあって全体を指揮していた義景のもとに、巳の一つ刻(09:00)に戦端が開かれたとの一報が入ったのは申一つ刻(12:30)であった。

 杣山そまやま城にて浅井軍二万五千との戦闘が開始され、城将河合吉統はその城のなんたるかを知っていた。

 杣山城は要害であり、大軍といえどそう簡単に落とすことはできない。

 さらに吉統は織田軍との戦いの前に、実はもう一つの献策を行っていた。

 加賀の七里頼周よりちかや下間頼照との密約である。

 織田軍の侵攻に際して、永正三(1506年)に起きた九頭竜川の戦いの後に破却された、吉崎御坊の再建を条件として、援軍の要請をしていたのだ。

 加賀の一向宗にとって信長の越前侵攻は対岸の火事ではない。

 朝倉にとっては一時的に信長包囲網によって本願寺と協力してはいたが、これ以上の一向宗の勢力拡大は抑えたかった。

 しかし、背に腹は代えられない。

 石山本願寺は信長と和睦しているため、緒戦から参戦することは難しい。長期戦に持ち込み、石山本願寺を動かして、その後の参戦を要請していたのだ。

 

 ■東河原村 朝倉景健 本陣

「申し上げます! 敵二万三千、冠峠を抜け松ヶ谷村、こちらへ向かっております!」

「良し! そのまま向かってこい! 返り討ちにしてくれよう!」

 織田軍の北進の報に際し、景健は喜んだが、一抹の不安が残った。

(二万三千か、と言うことは少なくとも杣山か戌山に二万五千から五万の兵が向かう。三方面、ほぼ同数か、もしくは二方面か)

 

 ■戌山いぬやま城 山崎吉家

「申し上げます! 敵兵一万、油坂峠よりこちらに向っております!」

「何! 一万とな? 確かか?」

「は、間違いございませぬ」

(わが方は五千、信長め、わずか一万でこの戌山城を抜こうというのか? いや、兵を杣山と河原村口に集めたのか? いずれにせよ、わしはこの戌山の城を守るのみじゃ)

 

 ■酉一つ刻(17:00)杣山城

 8時間以上に及ぶ戦闘では、城兵に軍配が上がった。

 まずは北西にある二の木戸を丹後勢の三千が攻め寄せ、西丸の西側から若狭勢の二千が攻め寄せた。

 しかし隘路となっている二の木戸は守りの堅固である。

 西丸の西側丘陵には7mに及ぶ切り落としの内空堀と、間に高さ2mほどの土塁が築かれた外空堀が備えてあったのだ。

「信長よ! 幾度となく攻めてくるが良い! この五郎兵衛尉(河合吉統)、閻魔となりて地獄へ案内いたそうぞ! 文明七年よりこの河合家が治むる杣山の城、易々と通れると思うなよ!」

「殿、まずもって緒戦の勝ち戦、執着至極に存じます」

「うむ、合戦は四刻(8時間)に及んだゆえ、敵もさることながら味方も疲れていよう。しかと休ませよ」

「はは」

 吉統は明日以降も激しい戦いが続くと考え、兵にゆっくりと休みを取らせた。

 

 天正元年(元亀三年・1572年) 二月七日 卯の二つ刻(05:30)

「申し上げます! 夜襲にございます!」

「なんだと!」

 吉統は油断しているつもりはなかった。

 どこにそんな余力があるというのだ? われらと同じく疲れ果て、兵を休ませる必要があったはずだ。そう考えたのだ。

 しかし、実際にはそうではなかった。

 杣山の城兵は五千であったが、浅井長政配下でさえ一万二千、信長の後詰めで一万三千が控えていたのだ。

 つまり夜襲を行ったのは、丹後勢、若狭勢に案内された無傷の浅井本隊であった。

 

「申し上げます! 二ノ木戸、落ちましてございます! 敵はそのまま一ノ木戸へ向かっております!」

「あい分かった! 一ノ木戸へ後詰めをいたせ! 東丸が落ちれば、西丸を守っても要なし(意味がない)ぞ!」

 吉統は懸命に指揮をとり、西丸、東丸ともに持ちこたえたが、衆寡敵せず、早朝の奇襲によっていったん崩れだした士気を持ち直すことはできなかった。

 本丸から北の東丸を経て一ノ木戸までは十数段の曲輪に空堀がある。そのため本丸突入は、西丸攻撃組に先を越される事となった。

 

「敵将、河合吉統、討ち取ったり~! !」

 夜襲開始から3時間半、城将河合吉統の戦死とともに、杣山城は巳の一つ刻(09:00)に落城した。

 その報は一乗谷ならびに戌山城の山崎吉家、東河内村の朝倉景健のもとに伝えられたのだった。

 

 ■申一つ刻(15:00)一乗谷城

「申し上げます! 河合五郎兵衛尉様、討ち死に! 杣山城、落ちましてございます!」

「何い! そんな馬鹿な! 杣山城が、あの吉統が一日も持たず敗れるはずがない! 何かの間違いであろう! ?」

 間違いでは、なかった。

 伝令は織田軍の透波でもなければ身元のしれた者であり、戦況の把握のために、杣山・東河内村・戌山と派遣していたものである。

「如何する、如何する、如何するのだ! 一月三月は守れるという話ではなかったのか! わずか一日で落とされるとは、吉統もふがいない!」

 自分の政治力のなさ、現状の判断力のなさを棚に上げての言動であった。

 兵衛尉どのは大軍を相手に死ぬ覚悟で戦ったのだぞ! 重臣達は苦虫を潰すような顔を必死でこらえる。

「殿、かくなる上は題目(条件)を上乗せした上で、本願寺を頼むに他なりませぬ」

 青木上野介景康である。

「おお、おお、そうであった。わしが直々に文を書こうぞ。景康よ、見事助勢の証をとってまいれ」

 義景はそう言って筆と紙を用意させ、加賀の大聖寺城にいる下間頼照に向けて手紙を書き、景康に渡す。

 

「上野介殿、よろしいのですか。この事の様(状況)で一向宗が首を縦に振るとは思えませぬが」

「良いのだ。致し方なかろう。殿をこのようにしてしまったのは、われらの責もあるのだ。ならば、出来うる限りの事はせねばならぬ」

 

 ■酉一つ刻(17:00)東河内村 朝倉景健

「何! ? 馬鹿な! 杣山城が落ちただと? あり得ぬ……しかし、落ちたとなれば……如何すべきか」

 このまま織田軍を待つべきか? いや、杣山を落としてとなれば相当な兵力のはずだ。ここで織田軍を待ったとして、北上した織田軍が一条谷へ向かうだろう。二万か、三万か? 四万か?

「敵の動きはどうか?」

「は、敵軍変わらず北へ向い、ただいま志津原村を越えたとの事にございます」

 五千の兵がもどったとしても焼け石に水である。であれば、信長軍の二万三千を足止めした方がいい。

「わが軍は動かぬ。このまま信長を待つ」

 

 ■酉三つ刻(18:00)戌山城 山崎吉家

「申し上げます! 河合五郎兵衛尉様、討ち死に! 杣山城落ちましてございます!」

「なんと! ……信じられぬ」

 吉家の判断は早かった。

「われらは、動かぬ。動いたとて、えも(どうにも)出来ぬ」

 戌山城を捨て、一乗谷に向ったとしても大勢に影響はないと判断したのだ。一万五千の兵がいて兵糧矢弾も備えてある。

 

 ……はたして、この二人の判断は正しかったのだろうか?

 ■翌八日 巳一つ刻(09:00) 加賀 大聖寺城

「坊官様、越前朝倉より、青木上野介殿がお見えになっております」

「なに? よし、通せ」

 頼照は嫌な予感がした。

 織田家と朝倉家が戦いを三度始めたのは、密約の使者が来ていたので予想していた。

 しかし本願寺としては和睦していた手前、助力するとは答えたものの、実際は難しかったのだ。

「して、こたびは如何されたのでしょうか」

「加賀の一向宗のお力をお借りしたい。過去の禍根は忘れ、吉崎の御坊を再び建てるとの約定は無論の事、門前の権益や租税の優遇をいたしたいと、わが殿は仰せにございます」

 なんと、ここにきて更なる条件の上乗せなのか? 

 頼照は考えた。よほど、戦の事の様がよろしくないのであろう。ここで本当に助力すれば、信長との大戦になる。

「わかり申した。即断はできぬゆえ、考えると伝えてくだされ」

「坊官様、なにとぞ、ここで証をいただけませぬか」

 そんなに切迫している状況なのか? なおさら即答できぬ。

「そうは仰せですが、こちらも本山、石山の考えを聞かねばなりませぬ」

「そこを何卒! 朝倉が滅びれば、次は加賀にございますぞ」

 半分自暴自棄とも言える、脅しともいえる物言いである。

「わ、わかりました。……それでは、それでは七日の内に信徒をまとめ、越前に向かいましょう」

 七日……。青木上野介景康はそう思ったが、七日であればなんとか持ちこたえるであろう、そう思い、大聖寺城を後にした。

 ■翌二月八日 巳三つ刻(10:00)朝 杣山城

 浅井長政は前日、兵にゆっくりと食事と休息を与えていた。気力体力十分な状態で進軍しようとした時、伝令が走り込み、伝えた。

「申し上げます! 敵方、前波吉継の遣いと申す者が、お目通りを願っております」

「なに? よし、通せ」

 長政は使者を通し、話を聴く。どうやら朝倉からの寝返りの申し出で、一乗谷までの道案内と下木戸(北側)から攻めた際の手引きを行うという。

「あい分った。九郎兵衛尉殿(前波吉継)には承知したと伝えよ」

 長政の考えは決まった。

「与右衛門、街道へ行き、富田長繁に降るよう伝えよ」

「はは」

 藤堂与右衛門(高虎)は一隊を率いる将であったが、代将にまかせ、朝倉街道を守る富田長繁の元へ向かった。

 

 ■二月八日 申一つ刻(15:00) 朝倉街道

「殿、敵方、藤堂与右衛門と名乗る者が、お目通りを願っております」

「なに? 敵方の? 是非に及ばず、追い返せ!」

「しかしながら殿、殿の今後を決めたる、重し(重要な)文を持ちたり、と申しております」

「なに? ……通せ」

「初めてお目にかかります、浅井備前守様が家臣、藤堂与右衛門と申します。このたびは……」

「前置きは良い。その、文とやらを見せてみよ」

 高虎はニヤリと笑い、長繁に吉継からの書状を見せた。

「な、これは誠か? まさか謀ろうなどと考えてはおるまいな?」

「ふふ、謀るなどと。もはや杣山城は落ち、一乗谷は落ちるのが、おわかりになりませぬか? 信ずるか信じぬかは、ご自由にめされよ」

 ……。

 ……。

 ……。

「あい、わかった。こちらも兵を手引きいたそう。街道から上木戸へ入ればよろしかろう」

 

 ■二月十一日 一乗谷 

「申し上げます! 下木戸守将、前波吉継謀反にございます! 敵兵木戸よりなだれ込み、城下を通り権殿へ向っている模様にございます!」

 落城の噂、味方の敗色が濃いときなどは、兵の逃散が著しい。杣山城落城の報が届いてより、各将の必死の鼓舞にもかかわらず、朝倉勢の兵は減り続けた。

 街道に千を配して残りの一万四千で一乗谷を守れば、そう簡単には抜かれない作りである。しかし、このころにはすでに一万を切っていたのだ。

 武具兵糧に矢弾は備えていたとしても、強制的に徴兵された兵である。士気は高くない。賦役に軍役、領民は限界だったのだ。

「申し上げます! 街道に配した富田長繁、謀反! 敵を引き連れ、上木戸に襲いかかっております! その数二万五千!」

「馬鹿な事を申すな! 吉継に長繁が謀反だと! 敵に寝返ったというのか! ?」

 義景は思考が追いつかない。そうこうしているうちに、さらなる悲報が舞い込んできた。

「上木戸が落とされました! 敵軍雪崩を打つかの如く、諏訪館、中の御殿、権殿に向っております! 小見放城にて守りを固めておりますが、いつまでもつかわかりませぬ」

 すでに下木戸から攻め寄せてきた前波軍が権殿を襲い、返す刀で山を登り、小見放城を攻めていたのだ。

 上木戸から攻め寄せてきた富田景康の軍も加わり、壮絶な攻撃が続いた。

 

 翌十二日、一乗谷城陥落。

 朝倉義景は逃亡を図るも、寝返った配下の武将に捕らえられ、自刃する名誉も与えられぬ間に討ち死にした。享年四十。

 一乗谷城の陥落を聞き、東河内村の朝倉景健は投降し、戌山城の山崎吉家は家族と城兵の助命を条件に自刃した。

 ここに朝倉家は滅び、一乗谷は朝倉家の初代『英林孝景(えいりんたかかげ)』より百年の城下町の歴史に、幕を閉じたのである。

 

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