第470話 『次なる火種』

 慶応五(明治二)年四月十二日(1869年5月23日)

 採決の日から2日後、議事堂には奇妙な緊張感が満ちていた。

 次郎は公議政体党の議員たちが浮かべる自信に満ちた表情を横目に、思いを巡らせている。

 彼らが勝利の勢いを駆って、次なる一手、何を打ってくるかを考えていたのだ。

 勘定奉行は誰になるだろうか?

 具体的な人材登用や試験、面接の制度はこれから詰めないといけない。

 財政の面は何とかなったが、他に発議するのではないか?

 そんな不安があった。




 議長が開会を宣言し、いくつかの事務的な報告が終わったときである。

 井伊直憲が堂々とした所作で立ち上がった。

「議長、発言の許可をいただきたい」

 議長がうなずくと、直憲はまず議場全体を見渡した。

 先日の採決の勝利を宣言することで、自派の優位性を改めて印象付けたのである。

 さらに、話題を薩長さっちょうの不穏な動向へと転じさせた。

「報告によれば、薩摩は兵を備え盛んに調練し、長州は下関にて武器弾薬を密かに集積しているとの事。彼の者らは『言論で国は変わらぬ』とうそぶき、我らの議会を、ひいては天子様の宸襟しんきんを悩ませ奉った。この罪、断じて見過ごす事はできませぬ!」

 直憲は薩長への懲罰的要求を突きつけ、最終手段が「長州征討」であると宣言したのである。

 その言葉が放たれた瞬間、議場は爆発したような騒ぎに包まれた。

 しかし、騒ぎの内実は単純な賛否ではない。

 日本公論会はもちろん、無党派層の藩、さらには公議政体党所属の藩からも、明らかに困惑と警戒の色が広がっていたのだ。

「征討だと?」

「戦か?」

「となれば兵と金はいかがするのだ……」

 長州征討となれば、各藩に課される軍役と出費は計り知れない。

 党派には関係なく、自らの藩の財政と人命に関わるなら話は別だ。

 次郎はその空気の変化を的確に捉え、静かに立ち上がる。

「掃部頭(井伊)殿。その動議、正気の沙汰とは思えませぬ。そもそも征討にかかる、はなはだ大なる費えは、一体いずこより捻出なされるおつもりか。先の議論で明らかになったとおり、幕府の財政は破綻しております。それを各藩に負担させると仰せか。兵の供出も同じにござろう。これでは国を守るための戦ではなく、国を疲弊させるだけの私戦となりましょうぞ」

 次郎の指摘は、議員たちが最も懸念していた点を的確に突いていた。

 多くの議員がうなずき始める。

 議場の空気は一気に反征討論へと傾きかけた。

 だが、直憲は待ってましたとばかりに不敵な笑みを浮かべて言い放つ。

「左衛門佐殿、ご懸念はもっとも。なればこそ、我らは策を準備しております。こたびの征討は、幕府が威信をかけて行うもの。よって、征討にかかる費えは、全て公儀御料所の益をもって賄う!」

「理解不能! 論理破綻! 言語道断! 何を仰せか! その幕府差配の御料所の財政が破綻しておるのです! まさか返すべき金を返さず商人を泣かせ、支払うべき金を支払わずに踏み倒すおつもりか!」

 あまりの論理破綻に次郎は現代の熟語を並べ立ててしまった。

 が、その意図は議場にいる全ての議員に何となく伝わったようである。

 次郎の激しい言葉に、議場は水を打ったように静まり返った。

 怒気に満ちた声は、多くの議員が抱いていた財政問題の根本的な疑問を代弁している。

 そうだ、その通りだ、とばかりに、先ほどまで揺れていた議員たちの空気が再び反征討へと固まりかける。財政が破綻している事実は、先日の議論で誰もが共有したはずではなかったか。

 しかし、万座の注目を浴びても直憲は少しも動じなかった。むしろ口の端に冷ややかな笑みさえ浮かべている。

「左衛門佐殿。ごもっともなご指摘。なれど、早合点は無用でございます」

 直憲は芝居がかった仕草で一度言葉を区切り、議場全体に聞こえよがしに続けた。

「幕府財政が厳しい事は事実。なればこそ、公儀はこれまでとは全く異なる手立てを講じました。すなわち江戸と大坂、そして京の御用商人衆が、こたびの征討における一切の費えを『御用金』として上納すると、そろって願い出てくれたのでございます!」

「何……! ?」

 次郎は絶句した。

 御用金。

 かつての大村藩にも存在し、いまだ多くの藩に存在する。

 幕府が権威を背景に、商人から半ば強制的に資金を供出させる旧時代の産物であった。

 しかし、財政が破綻した幕府に自ら進んで金を差し出す商人がいるはずがない。

 次郎の疑念を見透かしたかのように、直憲は追い打ちをかけた。

「無論商人衆とて、ただ忠義のみで動くわけではございませぬ。公儀は、彼の者らのこたびの奉公に対し、相応の利権をもって報いる約束をしております。例えば新たな銀貨の鋳造益、あるいは、未だ開かれておらぬ港での貿易権……。いずれにせよ、幕府と商人衆との間の取り決め。諸藩の財を損なう事は、一切ありませぬ」

「愚かなり! さればとて(だーかーら)! 御料所の差配は議会が選びし新たな勘定奉行のもと、厳正なる試験によって官吏を選ぶと決まったではありませぬか。何の権あって貴殿がさような事を決め、さような約束をなせるのでございますか。貿易の港も御料所にございますぞ」

 次郎はあきれて物が言えない。




 馬鹿なのか?

 え? 馬鹿なのか?




 次郎の指摘はまさに核心を突いていた。

 付帯決議によって財政と人事の権限は、いずれ議会の監督下に置かれるはずであったのである。その決定を無視した越権行為ではないか、という告発だ。

 議場は再びざわめき、一部の議員は『しかり!』と次郎に賛同の声を上げた。手続きの正当性を重んじる者にとって、直憲のやり方はあまりに横暴に映ったのである。

 しかし、直憲は冷然と言い放った。

 なぜか自信に満ちている。

「左衛門佐殿。貴殿の仰せの儀は、理屈の上ではその通り。されど、一つ、大きな心得違いをなされておる」

 直憲はわざとらしく間を置き、全ての注目が自分に集まったのを確認してから続けた。

「決議はあくまで『新たな勘定奉行が選ばれた後』に効力を発するものでございます。お聞かせ願いたい。今この議場に、議会が選んだ勘定奉行がおられるか?」

 ざわつき、誰もが顔を見合わせる。

「否! 試験に合格した新たな官吏がおられるか? これまた否! すなわち、ただ今において御料所の差配と商人衆との談判の権は依然として今この時の公儀にある。これは貴殿が重んじる法の手続きに則った、動かせぬ事実にございますぞ」

 次郎は言葉を失った。

 あまりにも悪辣な、法の隙を突く理屈である。

 確かに、まだ新たな奉行は任命されておらず、試験制度も始まっていない。その移行期間における権限は現執行部、すなわち幕府にある。法治の理屈から言えば、否定しようのない事実であった。




 何だこれは?

 慶喜の考えだろうが、家茂さんは知ってるのか? 許可したのか?




「さればとて(だーかーら)! 何度も申し上げたくもございませぬ。あまりの短慮に言葉もござらん。その先はいかがなさるおつもりか? 戦となれば一両二両の話ではない。万を超える金が動きまする。しかして薩長を滅して何が得られましょうか。改易して御料としたとて、残るは今よりも増して大なる借財のみにござるぞ。誰がいかにして払うのか。今少し先の事を考えてはいかがか?」

 次郎の問いは、戦争行為が必ず伴う戦後処理に関してである。

 最も現実的で、そして最も厄介な問題点を白日の下にさらしたのだ。

 借財だけではない。

 占領統治にかかる費用や遺恨、さらに荒廃した土地の復旧など様々な問題がある。

 それら全てを誰が背負うのか。

 次郎の冷静な指摘に、先ほどまで負担なき戦争に浮かれかけていた議員たちの顔が、再び曇り始める。

 しかし直憲は、もはや議論に応じるつもりなどなかった。

 目的は論理で次郎を打ち負かすことではない。数の力でこの動議を通過させること、ただそれだけであった。

「左衛門佐殿は、まだ始まってもおらぬ戦の後の心配ばかりなさる。まず、目の前の火事を消さずして、家の再建を語る者がおりましょうか!」

「否! そもそも火事とはなんぞや? 長州や薩摩が国境を越えて、兵を他の御家中の領国まで動かしけりや? 軍艦や兵備もこれまでの御公儀の沙汰通り。富国強兵もまたしかり。何をもって火事と仰せか!」

「火事が見えぬと仰せか、左衛門佐殿!」

 両者は一歩も譲らない。

「帝の御膝元に議会を開き、言論で国を治めんと我らが心を砕く間、京を離れて兵を練り、武器を集める! その矛先が一体いずこを向いているのか、赤子でも分かりましょうぞ!」




「いい加減になされよ、掃部頭殿! これ以上妄言を吐いて議会を愚弄するなら、我が家中も黙ってはおりませぬぞ!」




 次回予告 第471話 (仮)『決裂か妥協か』

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