第16話 『モリソン号事件を警告しよう』(1837/5/5)

 天保八年 四月一日(1837/5/5)

 次郎(太田和次郎左衛門)は、長崎から帰ってきてから考え事をしていた。

 この時代に転生してから常に考えていたことだが、目的を達成するためには、技術革新だけでは駄目だという事である。

 先進技術を持つアメリカやイギリス、フランスやロシアなどの列強に対抗するためには同程度の技術が必要だが、それを行うためには金がいる。

 そしてその実行を邪魔するものをなくすため、政治力も必要だ。

 幸い、藩主の純顕とは親交があり、今のところ藩内での目立った反発はない。一部で次郎を蔑むものもいたが、それは今に始まった事ではないからだ。

 あわせて重要なことは、藩論はもちろん日本の国論を、攘夷や倒幕といったぶっそうなものではなく、開国しつつも国内では合議制をとる政治形態を目指す事にあった。

 そのための歴史知識であり、先回りした人脈づくりが必要なのだ。

 

 <次郎目線>
 天保八年、天保八年、1837年に何があった? ……確か、ベタだが、教科書には……大塩平八郎の乱! いや、あれはもう終わっているか。

 大塩平八郎の乱は天保八年二月十九日、つまり1837年の3月25日に起きている。

 幸い大村藩は芋の栽培を奨励していたので、いわゆる天保の大飢饉の影響は、他藩に比べて少なかった。

 ああ、これ。こんなに昔から芋つくってたんだな。地元の農家と言えば基本、米とミカンと芋だったからな。

 ……そうだ! モリソン号だ! モリソン号事件! 

 フェートン号事件以来外国船打払い令が発令されて、オランダ・朝鮮・清国(中国)・琉球以外の国の船舶は、無条件で撃退するようになっていたんだっけか。

 モリソン号はアメリカの商船で、マカオで保護されていた日本人漂流民の送還と通商、布教が目的だった。

 普通に考えてキレるよなあ。

 送還を条件に通商っていうなら人道的に相手もどうかと思うけどね。

 うーん、これ。なんとかならんかな?

 

『異国船打払令にかかわる建白書』

 仲春の候、城代様(冨田鷲之助)におかれましては、ますますご健勝の事とお慶び申し上げ候。
 
 さて今般、異国船往来甚だ多しみぎり、御公儀の発したる打払令につきまして、建言いたしたく存じ候。
 
 文化五年の砌の屈辱はあり候へども、往来せし異国船すべてが同じとは言い難しと存じ候。

 異国の地に漂着せし日ノ本の民を、送り届けんとする船もあるやもしれず、薪や水食料を欲しているやも知れずと案じ候。

 確たる証もなく全ての船を打ち払うは、余計に異国の感情を悪しきものとする恐れありと考え候。

 この上は来航せし異国船を吟味し、助けを求めるならば応じ、悪しき者なれば打ち払うよう、分けて応ずべきと存じ候。

 なにとぞ御城代様の言をもって藩主様に御得心いただき、以て幕府への建白としていただきたく、伏してお願い申し上げ候。

 恐々謹言

  四月一日 次郎左衛門武秋

 冨永鷲之助様

 

 

 要するに、一介の藩士じゃどうにもできないから、城代(親交のある冨永鷲之助)を通じて藩主様に意見しようって事。

 むやみに打ち払うのではなく、目的を確認し、その結果で対応を決めるべき、との内容だ。

 でもモリソン号まであと三ヶ月、幕府に届いたとしても、まにあわないだろうな。

 

 「お里、翻訳の調子はどう?」

 お里は部屋に籠もって、例の反射炉の本の翻訳作業に入っていた。

「一息ついたら?」

 俺はそう言って従者にお茶と茶菓子を運ばせた。といっても、今どきの茶菓子なんてない。冷めたふかし芋だ。

『ばあら』(もしくは『ばら』。長崎弁? 天井からつるされた保存用の竹で編んだカゴ)にあった芋(カライモと呼んでいた)をいくつかみつくろって、一口サイズに切って持っていく。

「おーいみんな、休憩しようぜ」

 そう言って信之介と一之進も呼んで、ティータイムだ。ああ、コーヒー飲みたい紅茶飲みたいチョコレート食べたいetc……。

 開国前だから無理だとしても、和菓子にしたっていろんな物が高すぎる!

 お茶も、ゲンノショウコ茶だ。

 俺の家(二百九十石取りの藩士の家)だけじゃない。信之介の家はもちろん、いわゆるお茶は高級品なのだ。廉価な煎じ茶でさえ、ない。

 ……まじでなんとかならんかな。

 おかげで、総額は知らないが、貯蓄もあるらしい。

 

 変な言い方だけど、お里とは距離を置いている。

 というよりも、置かざるを得ない。別にどうって話じゃないけど、下女ならともかく、友人として家に上げるなどありえないからだ。

 この時代では、当然と言えば当然の待遇。

 現代(前世)だって異性を家に泊める、住ませるなんてとんでもない。子供がうまれたばかりの奥さんの事もある。

 親父もじいさんも賛成はしてくれたが、それとこれとは別だ。

 母屋の離れにある納屋をきれいに掃除して、そこに住んで貰っている。お里もここにきて10年。黙って従ってくれた。

「これ、辞書もあるけど、わからない単語や専門用語もあるから、そこは空欄にして訳してる。専門の人? 例えば鍛冶屋さんとか炭焼きの人、陶工の人なんかが見ればイメージが沸くかもしれないけど、意味というか、それはわかんないな」

 お里が言う。当然だろう。

 技術書なんだから、日本語でも発電所やいろんな設備の取説なんか、チンプンカンだ。

「それでいいんじゃない? あとは信之介がなんとかしてくれるよ、な?」

「丸投げすんな」

 わはははは、と笑いが起きて、冗談を言い合う平和な一時だ。

「ところで次郎くん(亨くん)、これ、いつまでに翻訳すればいいの?」

「うーん、先生に弟子入りした奴が皆伝、卒業するのに一年から二年だろうから、それまででいいんじゃない? 早いに越したことはないけどさ」

「うわー、ざっくりしてるね。でもまあ、それくらいなら大丈夫だと思う。231ページに、あとは図解だから。和製蘭語つくりながら訳すよ」

 笑いながらお里が言う。

「うん、頼むよ。信之介に一之進、何かある?」

「うーん、石けんはまあ、これでいいと思うよ。生産量や原料調達で問題が発生したら、ソルベー法で炭酸ナトリウムを生成して水酸化カルシウムとの複分解反応でつくる。あとは塩化ナトリウム水溶液の電気分解……それか酸性白土使って鹸化しないといけないけどな。そうすっと、けっこうな機材がいるから、いや、今の時代なら1から作るしかないか? 電気もいるしな。それ考えたら酸性白土か……ブツブツ……」

「ああ、うん。……そんときは頼む。一之進は?」

「うーん、なんといっても栄養改善かなあ? 俺たちみんな、一番低いお里でさえ、身長が160cm以上あるだろ? でも見たか? みんな背が低い。食糧事情を考えて改善しないと。体は資本だからな。医者の視点としてもそう思う」

「わかった。その辺は少し話してみるよ」

 

 改善点は……多すぎる。
 次回 第17話 『大村藩の食糧事情とその改善。全国平均ってどうなんだ?』

 

 

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