遡って大村藩邸での会合の後――。
「お見事でございます。これにて万事、滞りなく相成りました」
永井尚志はわずかな笑みを浮かべて慶喜に言った。
「ふん」
「頭を下げて事が良き方へ流れるならば、いくらでも下げれば良いのです。然りながら殿が行いは天下万民の目がございます。ここぞのときにこそ、使うべきかと存じます」
まさに、面従腹背である。
いや、敵対していないので腹背ではないが、本音と建前だ。
「して、これよりは如何いたす？ 大村は公儀に統べらるるを良しとはせんだろうが、少なくとも今は与しよう（味方になるだろう）。障りとなるは薩長と薩長派の公卿よの」
「は、その儀につきましては、すでに手を打っております。薩長は、恐らく殿がお赴きになっても大勢は変わりますまい。故にこのままで良いかと存じます。朝廷においても中川宮様をはじめとした佐幕派は半数を超えております。後は然るべき日時に御所にて論議すべく、会議を催せば良いかと」
「うむ」
万事抜かりなく、事は運ぶのであろうか。
■薩摩藩邸
「ここは動かんほうがええんちゃいますか？ 幕府の権が京で強まった以上、下手に動いたら命取りになりまっさかいな。こっちに大義がなかったら、作ったらええだけの事や」
「何？ どげんすっとか（どうするんだ）？」
――殊、幕府については淀屋とよく諮って執り行うべし。
久光と忠義の連名による電信でそう聞いた小松帯刀と西郷隆盛は、真剣な顔つきで聞いていた。
■長州藩邸
「はい、薩摩様をはじめ加賀様や越前様、土佐様にもご贔屓にしてもらっています」
（御家老様、この男は信用できるんでしょうか？）
（わしは直には知らん。然れど殿がそうおっしゃっているのだ。聞けば淀屋は幕府に潰された恨みが何代にも積み重なっているそうな）
（ああ、それならば我が長州と重なるところはありますな。幕府は憎むべき相手であり、これまでは大村の事もあり、従っていたにすぎませぬ）
（うむ、その為の御用金ならば、如何様にもお使い下さいと申している）
周布政之助と久坂玄瑞は、小声で確認、相談したあと、淀屋の話を聞き始めた。
■慶応四年四月十七日（1868年5月9日） 御所内 小御所
御簾の奥には孝明天皇が座り、手前に公卿たちが居並ぶ。
そのさらに下座に幕府、大村、薩摩、長州をはじめとした代表者がそれぞれ席を与えられていた。
慶喜の呼びかけに応じ、各勢力の重鎮が一堂に会したのである。
場の空気は静かであったが、無言の腹のさぐりあいで互いの視線は交わらない。
やがて、関白の二条斉敬が口火を切った。
「これよりは、主上の御前にて、御国の行く末をお諮りいたしたくありましゃる。一橋中納言、まずはそなたのお心積もりを、お聞かせ奉れ」
慶喜はゆっくりと立ち上がり、一同を見渡した。
「は。恐れ多くも奏上仕りまする。今、我が国に要るは、諸藩の衆知を集め、公明なる政を執り行うための仕組み。つきましては、二百七十余の全藩主もしくはその名代、加えて国事御用掛の皆様方による『貴族院』を設けたく存じます」
その言葉に、場がわずかに動いた。
大村藩の構想を、慶喜が自らの言葉として発したからである。
純顕と次郎は事前に聞いていたので驚かないが、薩長の面々は苦々しく思っていた。
「この貴族院において国事を議し、決を採る。これこそが、帝の聖慮を安んじ奉り、天下万民の安寧に繋がる道と確信しております」
慶喜の提案は、表向き非の打ち所がなかった。
『全藩参加の議会』の理想に、誰も正面から反対はできない。
その時、島津久光（従四位上・左近衛権中将）が口を開いた。
「中納言様ん『貴族院』構想、そん趣旨に異はございもはん。じゃっどん、そん仕組みはどげんなさっおつもりか。二百七十余藩ん中には、親藩、譜代ん御家が多くを占むっ。こいでは、始めから幕府に利すっ決がなさるっは必定。公平なる議とは言えもはん」
久光の指摘は、薩摩の不満を的確に表していた。
数の論理で幕府が優位に立つ結果は明らかである。
「薩摩殿。先の五大老による合議の際、薩摩殿もその一員でおられた。その時は五藩による合議を是とされ、幕府が少数なるも議論を重ねてこられたはず。然るに、藩の数が増えれば公平に非ずとは、いかなる道理にござるか」
慶喜は久光の言葉尻を捉えて静かに反論した。その論法は、かつて薩摩が主導した大老会議を逆手に取っていたのである。
久光は言葉に詰まった。
「中納言様。我らが求めるは、藩の大小や家格による政ではございませぬ。ただひたすらに、帝を中心とした新たなる政体。貴族院の創設も結構。然れどその前に、二百六十年続いた武家の政そのものを、一度帝にお返しする『大政奉還』こそが筋ではございませぬか」
次に口を開いたのは長州の毛利敬親（従四位上・参議）であった。
「毛利殿。政を帝にお返しするとは、すなわち帝に政の責を負わせよと仰せか。それでは真の尊皇とは言えまい。我ら臣下が責を負い、帝には安寧におわします事こそ、臣下の道と心得ますが、如何に？」
慶喜は薩長の主張をことごとく論破していったが、純顕と次郎はただ静観している。
2人にとって、議会の形がどうであれ問題ではなかったのだ。
一度議会が始まれば、あとは多数派工作の世界である。
大村藩が持つ経済力、技術力、そして軍事力は、諸藩を味方につけるうえで何よりの武器となる。
第一党になれずとも、キャスティングボードを握るのは可能だと読んでいた。
議論が行き詰まりを見せたとき、慶喜はゆっくりと純顕に視線を向けた。
「丹後守殿。貴殿はこの議論を、ただ静かに聞いておられるが、如何お考えか」
名指しされた純顕は、初めて顔を上げた。
「……中納言様の貴族院のお考え、異存はございませぬ」
「ほう。真にご異存ございませぬな？」
「そうですな……」
純顕はじっと考え込み、次郎を見る。次郎が小声で耳打ちすると、純顕は発言を続けた。
「強いてあげれば、薩摩殿や毛利殿の仰せもごもっとも。大老院は五大老全てが外様でございましたが、総裁職の春嶽様は親藩にございました。加えて安藤殿他、老中院も全てが譜代。後見職であった中納言様を加えれば、決して御公儀の力が弱かったとはいえませぬ」
もっともであった。
外様の専横を防ぐために安藤信正を筆頭大老とし、人事権を与え、最終的には老中院と協議するしくみだったのである。
「すなわち、中納言様のお考えになる貴族院は、薩摩殿や毛利殿がご懸念の通り、徳川宗家と譜代諸藩の数の力による一人勝ちと成りかねないのではないでしょうか。親藩と譜代で百六十八、外様は九十八。公卿様を仮に十名として二百七十六でございます」
純顕の発言は、慶喜の意図を正面から指摘する内容であった。
御簾の奥から孝明天皇の視線を感じる。公卿たちの間にも動揺が走った。
「それは……丹後守殿、些か言葉が過ぎるのではないか」
慶喜が幕府の体面を保とうと口を挟んだが、困っている様子ではない。
薩長は純顕と次郎が幕府に反論しているのか恭順しているのかの判断がつかないでいる。
ニコニコと笑って聞いているかと思えば、自分たちを援護する論陣を張っているからであった。
「然に候わず。ただ忌憚なく考えを申し上げているだけにございます。もし、真に公平な議会を望まれるのであれば、親藩・譜代の議席数を減らすか、あるいは他の諸藩の議席を増やすなどの配慮が肝要かと存じます」
純顕は臆せず続けた。
慶喜は動じず、笑顔で純顕と次郎を見て、次に薩長と公家の面々を見る。
「なるほど。ではこれまでの話、中川宮様と近衛様、三条様と正親町三条様は如何にお考えでしょうか」
慶喜はいきなり公家衆に意見を求めた。
上座周辺がざわつく。
武家の政治を議論する場において、公家衆に直接意見を求めるのは異例であった。
最初に口を開いたのは、佐幕派の筆頭である中川宮朝彦親王である。
「中納言の申す通り、徳川の治世が日の本の安寧を保ってきたは事実でありましゃる。議会を設けるにしても、その秩序を軽んじるべきではない。丹後守の案は、些か急進に過ぎると思いましゃる」
中川宮は、その言葉で幕府の立場を明確に擁護した。
大村藩が持つ力は認めつつも、徳川家を中心とした秩序の維持こそが朝廷の安泰につながる。その信念に変わりはない。
しかし、親大村なのは間違いがないのだ。
おそらくこの場にいる誰もが大村藩を敵に回したくはない。そのうえで協力を仰ぎつつ、自分の意見を通そうと考えているのである。
次に、五摂家筆頭の近衛忠房が、慎重に言葉を選ぶ。
「然れど、丹後守の申す公平さもまた、理のある事。双方の顔が立つ道を、探るべきではあらしゃいませんか」
近衛の言葉は、まさに彼の立場を表していた。
五摂家筆頭として特定の武家に与すれば朝廷そのものが神聖な中立性を失い、一政治勢力に堕ちてしまう。
幕府が強すぎれば朝廷は軽んじられ、雄藩が強すぎれば新たな権力者として朝廷を脅かす。
どの勢力も単独で覇権を握らせず、常に勢力を拮抗させなければならない。
それこそが、千年にわたり天皇家をお支えしてきた藤原氏の嫡流として、彼が守り続けるべき責務であり、朝廷存続の唯一の道であると確信していた。
慶喜は、尊皇派の急先鋒である三条実美に視線を移す。
「三条様は、如何でございますか」
三条は迷っている。
言うべきか、言わざるべきか。
自らの発言が今の世の中を根底から覆すと分かっているからこそであった。
「……皆様、議席の数を論じてあらしゃいますが、それは枝葉にありましゃる」
場の雰囲気を一新するため、三条は静かに、しかしはっきりとした口調で語り始めた。
「今の日の本の安寧は、真に幕府一力によるものでありましゃるか。外交も財政も、礎にあるは丹後守の家中の働き。幕府はその力に頼りながら、旧来の徳川の世を守る事に固執しているのではあらしゃいませぬか」
その言葉で幕府の成功の根幹を突き、正当性に疑問を投げかけたのだ。
「たとえ善政であろうとも、帝に代わって武家が政を司る形そのものが、本来あるべき姿ではあらしゃいませぬ。政の良し悪しを論ずる前に、まずその歪みを正し、大政を帝にお返しする。そして、帝の御名の下に、全ての藩が等しく国を論ずる新たな『公儀』を創り上げる事こそ、我らが目指すべき道。これこそが真の尊皇と信じまする」
その主張が問うていたのは政治の実績とは別の次元、すなわち統治の正統性そのものであった。実績では反論が難しい幕府に対し、理念を武器に戦いを挑む。
それが尊皇派の戦略であった。
最後に意見を求められた穏健尊皇派の正親町三条実愛が、静かに続ける。
「……三条様の仰せの筋道も、中納言の申す秩序も、何れも重き事。されど、内乱こそが最も避けねばならぬ道と心得ましゃる。政が滞り、民が苦しむ事こそ、帝が最も憂慮される事ではあらしゃいませぬか。机上の議論に時を費やすより、まずは議会を立ち上げ、国を前に進めるが肝要でありましゃる」
内乱回避を最優先する正親町三条は、話合いの場としての議会設立を支持した。
それは、武力衝突を避けたい彼の立場と、議会で影響力を行使しようとする大村藩の利害が、この一点において一致した瞬間でもあった。
慶喜は、全ての意見を聞き終え、満足げに一同を見渡す。
「皆様、貴重なご意見、かたじけなく存じます。これにて朝廷の御心も、諸藩の考えも明らかになりましたな」
慶喜の狙いは議論の収拾ではなかった。
佐幕、中立、尊皇急進、尊皇穏健、そして大村。各派の意見を天皇の前で吐き出させて対立構造を白日の下に晒し、自らがその調停役として君臨することにあったのだ。
「中納言様、これでは話がまとまりますまい。いまだ議席の話は終わっておりませんぞ」
純顕が静かに言った。
「ああ、そうでございましたな。では……いかがでしょう。大藩なればそこに住む人も多く、障りある沙汰も多い。然れば大老院の如くではございませんが、石高によって票数を変える。これならば不平も出ぬのでは」
慶喜は全員の顔を見てそう宣言し、内訳を話した。
・10万石未満は1票
・10～20万石は2票
・20～30万石は3票
・30～50万石は4票
・50～100万石は5票
・100万石以上は6票
親藩・譜代・外様で分けると、親藩が43票、譜代が160票、外様が165票であった。
幕府勢力が203票で外様が165票、そこに公家衆を40票前後とすれば、公平性が保たれる。
さまざまな思惑が渦巻く中、小御所会議はさらに続いた。
次回予告 第434話 （仮）『慶喜の策謀と政党結成』
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