安政五年七月十五日(1858/8/23)~八月八日(1858/9/14)
「どうするどうするどうする?」
井伊直弼による襲撃の幇助の事実が本当であれば……いや、恐らくは本当であろう。
証人もいて犯行動機もある。
井伊直弼は幕政に口を出してくる雄藩と同じく、大村藩が苦々しかった。
油問屋の大坂屋は灯油の販売の件で恨みを持っている。水戸の不逞浪士にとって次郎達は、攘夷を行わない不遜な輩というイメージだ。
しかしあれは、どう考えても威嚇のレベルではない。
幸いにして、本当に幸運な事に死者はでなかったが、3人とも重傷を負ったのだ。この助三郎からの報告を、次郎は上げない訳にはいかなかった。
『私怨よりも国事を優先せよ』
純顕ならこう言うだろう。結局次郎は、純顕と利純に報告はするものの、先に上洛をして幕府にハリスとの再交渉をするよう求め、納得をさせたと報告する事にしたのだ。
■大村藩庁
ここでも、史実にない歴史が、動いていた。
「初めてお目にかかります。島津家中、市来四郎と申します」
「おお、これはこれは、薩摩守殿の。遠路よくぞお越しになった。さあさ、どうか楽になされよ」
上座の大村純顕は笑顔で接する。右手には利純もいた。
「有り難き幸せにございます。然れば此度、わが殿薩摩守様より丹後守様にお願いしたき儀これあり、罷り越しましてございます」
四郎は楽にせよ、という純顕の言葉に感謝の意を述べつつも、平伏したまま面を上げない。歴史が変わっている。そう、急死するはずの斉彬が、生きているのだ。
そして、生きていれば行っていたであろう京都への挙兵の事である。
純顕は、四郎の沈黙にしばし目を細め、次に続く言葉を待った。四郎が伝えに来たという薩摩守島津斉彬の意図が、単なる友好の訪問に留まらぬものであることは明らかだ。
だが、どのような申し出であろうと、事を荒立てる前に冷静に対処する必要がある。
「願いとは、何であろうか?」
純顕が優しく問うた。
は、と短く返事をした四郎は顔を伏せたまま、ゆっくりと口を開く。
「此度の公儀のなさりよう、あまりに傍若無人にて、許しがたし。わが殿は京へ向けて五千の兵をもって上がり、天子様を奉じてい井伊の暴挙を天下万民にしらしめ、勅許をもって条約を結び直し、公儀において雄藩合議による幕政なさんと考えております。そのため、丹後守様におかれましては、どうか御助力を賜りたいと存じます」
純顕は四郎をじっとみるが、平伏したままの四郎にもう一度言う。
「いかなる求めにおいても、ゆるりと顔を見なければ話にならぬ。顔を上げよ。よいな、これは最初の条件じゃ」
「は、申し訳ございませぬ」
四郎は平伏から顔を上げ、居住まいをただして純顕に正対する。
「そうだ、それでよい。五千の兵であるか」
純顕は息をのみ、利純も目を見開いた。これは単なる政治的な駆け引きではない。斉彬は本気で幕府に楯突こうとしているのだ。純顕は咳払いをして、冷静さを取り戻そうとする。
「四郎とやら、然様な重大な話をわれらに持ってくるとは、薩摩守殿は、まことに兵を率いて上洛を考えておられるのだな?」
「は、嘘偽りなく、我が殿はそうお考えになり、はじめはわが家中のみで考えておりましたが、より間違いなく事を成すためには、丹後守様のお力が必要と仰せになり、某を遣わせたのです」
「ふむ……然れどこれは、明らかなる公儀に対する謀反ととられよう?」
四郎は真剣な眼差しで純顕を見つめ、静かに、しかし力強く答えた。
「丹後守様、確かにこの行いはその様だけを見れば謀反に見えましょう。然れど我が殿は、これを謀反ではなく、国家を救う義挙だとお考えです」
純顕が眉をひそめて『義挙とは、如何なる意味か?』と問うと、四郎は言葉を選びながら続けた。
「只今の公儀、特に井伊掃部頭の政は国を危うくしています。開国を急ぎすぎるあまり、攘夷派との対立を深め、各家中の不満も高まっております。このままでは国内が分かれ、異国の脅威にも定めて処する事、能わぬようになるでしょう」
そこで利純が口を挟む。
「確かに、此度の公儀のやりようは、かなり強引ではあるの」
「然に候。我が殿は、朝廷の権威を借りて幕政を改革し、雄藩合議による新たな政治体制を築こうとしているのです。これにより、国内の分裂を防ぎ、外国に対しても統一した対応ができるようになると」
純顕は深く考え込んだ。
「うべなるかな(なるほど)……。然れどそれでも武を以て行うは危うい事この上なし。しかと考え、協議をせねば答えはだせぬ。また、他の家中の事ゆえわしが言うべき事ではないが、薩摩守殿にも、十分に自重なさるよう、お伝えなされ」
「承知しております」
四郎はくい下がる。
「然れど我が殿は、斯様な危うきを冒してでも行わねば、日本の将来はないとお考えです。しかして丹後守様のような……」
交渉を続けようとする四郎を純顕は制した。
「この話は仕舞いじゃ。おって果を伝えるゆえ、しばらく待つが良い」
ここで四郎が粘ったところで、結論はでない。武力挙兵など、間違いなく次郎は反対するであろうし、大義名分としては弱すぎる。いや、逆に兵が京都市中に入る事で、公家や皇族を怖がらせる可能性もある。
「はは……」
市来四郎には心情的に同意はするが、行動をともにするかどうかの結論は、先延ばしとなった。
■京都 鷹司邸
「急な申し出にも拘わらず、謁見をお許しいただき、まことに有難うございます」
「なんの。そもじにも聞きたいことがあったゆえ、岩倉とともに使者を藩邸に遣ったところでありましゃる」
次郎は先の関白である鷹司政通に謁見し、幕府の現状と勅許の内容、そして神戸と大阪の件についての幕府の状況を説明した。
「つまりはよく知らせずに条約を結んだ事は誤りであり、然りとて破棄もできぬゆえ、神戸と大阪の件については再び交渉するのでありましゃるか?」
「は、然様にございます。上手く行けば大阪の開市の破棄と、神戸以外の港の開港となりましょうが、それがならずとも、五年ないし十年の猶予をもたせ、こちらは民心を安んずる時を得る事ができまする」
ふむう、と政通は考え込んでいる。岩倉具視は話に入ってきた。
「次郎さん、これは……もし同じような事が続けば、もはや公儀は信用ならずと、朝廷の気運もそちらに傾きかねませぬ。それゆえ慎重なる行いが要りましゃるぞ」
「心得ております」
実際、政通や岩倉の反対派となる現関白勢力も力をつけており、もし、島津斉彬の挙兵がなれば、一気に反幕府の勢力が力をつけることになる。
次郎の心境は複雑であり、歴史の教科書にはない、新たな世界観が構築されつつあったのだ。
次回 第225話 (仮)『反井伊直弼』
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