慶応三年五月十三日(1867年6月15日)フランス・ブローニュの森
朝露がまだ残るブローニュの森に、異様な熱気が漂っていた。
パリ市民の憩いの場であるこの広大な森林公園の一角に、特別な設備が整えられているのだ。
高台にある長い滑走路状の平たんな地面、その周囲に設けられた観客席、そして大きな幕が覆い隠す何かが、人々の好奇心を刺激している。
様子をうかがうために集まった人々は、日の出前から続々とブローニュの森へと足を運んでいた。
彼らの多くは、日本パビリオンでの電灯や自動車の実演に度肝を抜かれた者たちである。
今日、日本がさらに何を見せるのか、期待と不安が入り混じった好奇心で、胸を高鳴らせているのだ。
「兄上、かなりの人出ですね」
隼人が集まった観客を見回して言った。観客席はすでに八割方埋まっており、立ち見の人々も増え始めている。
「ああ、予想以上だな。フランス海軍の関係者や技術者も多いようだ」
次郎も観客の中に、ブレストで会ったデュピュイ・ド・ロームやベルタン、ブルジョワ、ブルンなどの面々を見つけた。
彼らの視線は、大きな幕にくぎ付けになっている。
「それに今日はまたとない天気だ」
次郎は隼人とお里に向かって言った。
晴れ渡った青空を見上げる。穏やかな向かい風がほおをなでるが、乱気流や予測不能な強風はない。
滑空距離を伸ばしつつも安全な操縦が可能な、グライダーの実演には理想的な条件だった。
「兄上、準備が整いました。風向きと風速も申し分ありません」
隼人は小型の風速計を手に持ち、真剣な表情で報告する。彼の隣では、廉之助が滑走路の最終確認をしていた。
「お里、招待客の状況は?」
「続々と到着しているみたいだよ。特別席には、もうナポレオン三世のおそば付きの方々が来てるみたい」
お里は手帳を見ながら答えた。
彼女は今日、日本の着物ではなく、欧州の貴婦人風の装いだ。国際的な場にふさわしい服装を選んだのだろう。
パリ万博から数日が過ぎた。
日本のパビリオンは連日大盛況であり、特に昨日の浮世絵と写真術の特別展示は予想を上回る反響を呼んだのである。
「昨日ん展示は素晴らしか成功でごわした(でした)」
五代友厚が次郎たちに近づいてきた。彼は昨日の浮世絵展示で多大な利益を得ている。
「才助か、おかげさまでな」
「とんでんなか(とんでもない)ことです。北斎や広重ん絵が、おいの(私の)想像をはるかに超ゆっ(超える)値で取引されもしたど(されました)。包み紙として持ってきた古か浮世絵までもが、即売会で飛ぶごつ(飛ぶように)売れもした(売れました)」
五代は満足そうにほほ笑んだ。
「フランスの画家たちが特に熱心だったよ」
お里も加わった。
「それからびっくり! モネがいたんだよ!『日本の浮世絵は我々の芸術に革命をもたらす』って興奮してた~」
そうかそうか、と次郎はうなずいた。
確かに昨日は文化面での大成功だった。しかし今日は、さらなる技術面での最大の挑戦が待っている。
「御家老様」
通訳官の森山が急いで駆け寄ってきた。
「ナポレオン三世と皇后陛下がお着きになりました」
「よし、案内してくれ」
次郎は深呼吸し、心を落ち着かせた。
日本の技術力を世界に示す重要な機会である。
空に挑戦する技術は、未来を左右する可能性を秘めているのだ。
観客席は徐々に人々で埋まっていく。
ナポレオン3世とウジェニー皇后が特別席に着くと、会場からは拍手がわき起こった。
その周囲には、フランス政府の要人たち、各国の外交官、そして招待された技術者や学者たちが集まっている。
観客席の一角には、2人の若い男性が熱心に実演を見守っていた。
金髪の19歳の青年オットー・リリエンタールと、1歳年下の弟グスタフ・リリエンタールである。
プロイセン王国(現在のドイツ)のアンクラムの出身で、パリ万博を見学するために兄弟で旅行に来ていたのだ。
「見えるか、グスタフ。何か大きなものが幕の下にある」
オットーは興奮した面持ちで弟に語りかけた。彼は幼い頃から鳥の飛行に魅了され、自分でも|凧《たこ》や簡単な翼の模型を作って実験を重ねていた青年だ。
「うん、あれがこれから飛ぶんだろ? 日本人たちの技術は本当に驚きだよ」
グスタフも兄に負けず劣らず熱心に会場を観察している。弟は兄の航空への情熱を共有し、機械工学にも強い関心を持っていたのだ。
そして、前列には両親と共に特別に招待されたジャンの姿もあった。少年の目は輝き、これから始まる実演への期待に胸を膨らませている。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
次郎は壇上に立ち、フランス語であいさつを始めた。通訳はつけずに自ら話すことで、教育水準の高さも示す。
しかし、長時間しゃべってはボロが出る。
適度にしゃべって、通訳を介した技術者からの説明に移った。
「本日は『空への挑戦』と題し、人類の夢である飛行の技術をご紹介します」
その言葉に、会場から期待に満ちたざわめきが起こった。
「では、ご覧ください!」
合図とともに大きな幕が取り払われ、現れたのは複葉式のグライダーである。
二段に重なった翼は均一で、約8メートルの翼幅を誇っていた。機体は主に木製のフレームで構成され、和紙と特殊な樹脂を組み合わせた素材で覆われている。
次郎はこの複葉構造を見つめながら、前世の知識と照らし合わせていた。
複葉式のグライダー(飛行機)なんて現代では見たことがない。
ライト兄弟や第一次大戦の飛行機のようだ。
おそらく、単葉式のほうが航空力学的にはいいんだろうが、技術的な制約で複葉式にならざるを得なかったんだろう。
さすがの信之介も、そこまで万能じゃない。
残念だが、どこかうれしくもあった。
信之介も……完璧ではないのだ。
複葉構造によって強度を確保しつつ、可能な限り空気抵抗を減らす設計——それが現状での最適解である。
観客席からは、その美しい機体を称賛する声が上がる。
「それでは、実演に入ります!」
隼人が通訳を介して、フランス語で告げた。
グライダーは高さ15メートルの発進台へとゆっくりと運ばれていく。
操縦者は、新設された大村海軍航空隊の士官である。陸軍にも航空隊が新設されたのだが、選抜で海軍士官が選ばれたのだ。
黒い飛行服に身を包んだ操縦者は、真剣な表情で機体に取り付けられた|操縦桿《そうじゅうかん》を握りしめている。
初めて目にする『空飛ぶ機械』に、観覧者の視線はくぎ付けだ。
ナポレオン三世夫妻もまた、興味深げに、そしてわずかな不安を隠しきれない様子で、グライダーを見つめている。
発進台の先端にグライダーが据え付けられた。
操縦士が機体の最終確認を行う。風向き、風速、そして機体のバランス。全てが問題ないと確認し、彼は深く呼吸をした。
「準備完了!」
隼人の合図が響く。
次郎は、自らの胸に手を当てた。
心臓の鼓動がドクドクと大きく鳴っているのが分かった。成功すれば、日本の技術力が世界に認められる。
失敗すれば、嘲笑の的となるのだ。この一瞬に全てがかかっている。
「離陸!」
隼人の声とともに、グライダーは発進台を滑り始めた。機体は勢いよく加速し、先端に達した瞬間、ふわりと宙に舞い上がった。
「おおっ!」
観客席から、感嘆の声と拍手がわき起こった。グライダーは、まるで鳥のように優雅に空を滑空していく。翼が風を捉え、機体は安定した飛行を見せた。
操縦士は巧みに操縦桿を操作し、機体の姿勢を制御する。
風の流れを読み、揚力を最大限に引き出すその動きは、厳しい訓練によって培われた、まさに職人技であった。
グライダーは約150メートルの距離を滑空し、森の中に設けられた着陸地点に見事に軟着陸した。
「ブラボー! ブラボー!」
割れんばかりの拍手と歓声が、ブローニュの森に響き渡った。人々は立ち上がり、興奮した様子で拍手を送り続ける。
ナポレオン三世も、満足げな表情で拍手を送っていた。皇后ウジェニーも、感動した様子で目を潤ませている。
次郎はその光景を見て、ホッとため息をついた。
大成功だ! 日本の技術がついに空に挑み、そして成功したのである。
隼人と廉之助は、感極まった様子で互いに肩をたたき合っている。お里も、涙ぐみながら次郎に抱きついてきた。
「ジロちゃん! やったわね! すごいわ!」
「見たか、グスタフ! 飛んだぞ! 人間が、あの大きな翼で飛んだんだ!」
オットーは興奮を抑えきれない様子で、弟の腕をつかんだ。
「うん、すごいよ兄さん。あの翼の形、そして二段になった翼……きっと、何か秘密があるんだ」
ジョージ・ケイリーが発案した鳥形グライダーとは違う、新しいグライダー。
彼らはこのグライダーの実演が、将来の航空技術に大きな影響を与えることを直感した。
そして、前列に座っていた少年、ジャン・フィリップ・デュポンもまた、その鮮烈な光景に心を奪われていたのである。
彼は、この日見た『空飛ぶ機械』の姿を、決して忘れることはないだろう。
実演は成功に終わり、観客たちは興奮冷めやらぬまま、日本パビリオンへと移動していった。彼らは、日本が持つ未知の技術の数々を、さらに詳しく見たいと思ったのだ。
パビリオンに到着した人々は、改めて日本の技術力に驚嘆する。
蓄音機から流れる音楽や鮮明な写真、そしてガソリン自動車。そのどれもが、これまでの常識を覆したのであった。
「皆、ご苦労であった。本日も展示は大盛況の上、無事終了した。これも皆の努力のたまものである。わしはこれから甲吉郎様に報告にあがるゆえ、羽目を外さぬ程度に、楽しんでくれ」
閉場後のあいさつをして、甲吉郎(純武・純顕の嫡男)のもとへ向かう次郎であった。
■慶応三年五月十五日(1867年6月17日)
「た、大変です! 大変です! 御家老様!」
次回予告 第403話 (仮)『通信革命』

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