第469話 『採決の日』

 慶応五(明治二)年四月十日(1869年5月21日)

 本会議での採決を翌日に控えた夜、慶喜の居住する小浜藩邸の一室には、井伊直憲と加藤丹後守、そして小栗上野介と渋沢栄一が集っていた。

 部屋の空気は張り詰めているが、奇妙な落ち着きがある。

 出納帳については小栗と渋沢の意見により、そのまま提出する形になった。

 捏造したところでバレれば一巻の終わりである。

「……左衛門佐の論の運び、おそらく、我らが考えたとおりに進むであろう」

 慶喜が静かに言った。

 この十日間、彼らはただ手をこまねいていたわけではない。渋沢と小栗は、次郎が詮議方で見せた論理の組み立てから、本会議で仕掛けてくるであろう全ての攻撃を、完璧に予測していた。

「は。なればこそ、我らはこの十日、水面下にて諸藩への根回しに全力を尽くしてまいりました」

 井伊直憲が答えた。

 彼らのやり方は、単純かつ非情であった。

 日和見を決め込む中立派の藩には、『このまま大村藩の案が通れば、幕府の権威は地に落ち、|今《・》|の《・》|ま《・》|ま《・》|で《・》|は《・》なくなるぞ』と脅しをかけた。

 今のままでは、とは、不平不満はあっても、藩政は問題なく執り行われているだろう? との意味である。

 人は得るものより失うものに目がいく。

 財政に窮する小藩には、『この法案に反対してくれれば、貴藩への貸付金の返済を猶予しよう』と、実利をちらつかせた。

「票読みでは、公儀御料所の法案は、五分五分。あるいは、ごく僅かに我らが上回るかと」

 栄一が集計した結果を淡々と報告する。

「……さようか。ならば、それで良い」

 慶喜は、静かに目を閉じた。

 翌日、京に設けられた議事堂は、異様な熱気と緊張に包まれている。

 質疑応答は予想通りで、次郎と上野介の息をもつかせぬ攻防が始まった。

 ※財政の実態(次郎の先制攻撃)

 次郎は幕府の出納帳を提示し、歳入の4割以上が貨幣改鋳益に依存する財政破綻状態を指摘。

 →小栗の反論:事実を認めた上で、歳出の中身にこそ注目すべき。

 反論の柱: 歳出の多くは「船舶・武器費(約38万両)」や「上洛費(約67万両)」であり、これらは国防や朝幕関係の強化という未来への投資であるため、単なる赤字ではないと主張。

 ※支出の妥当性(次郎の深掘り)

 次郎は『未来への投資』という聖域の陰に、旧態依然とした無駄な支出が隠されていると批判。

 批判対象:

 下げ金: 特に朝廷への支出が20年で18倍(約3.2万両→約57万両)に激増しているのは、権威低下を恐れた政略的支出ではないか。

 修復費・儀礼費:日光や江戸城の修復に多額の費用をかけるのは、民が苦しむ中での権威維持のための浪費ではないか。

 →小栗の反論:次郎自身の行動との矛盾を突き、議論を相手の土俵に引きずり込む。

 反論の柱:

(下げ金に対して):大村藩も朝廷に献金している。それは政略ではないのか。

(修復費に対して):では、いくらなら良いのか。国家の象徴がみすぼらしくても良いと申すか。

 ※為政者の責務と国家観(次郎の再反論と理念の提示)

 次郎は小栗の反論に対し、その『始まり』と『仕組み』が根本的に違うと再反論。

 反論の柱:

(下げ金について): 我が藩の献金は、幕府が責務を怠り帝が困窮したのを見かねた『忠義』から始まった。幕府の今の支出は、我々が起こした公論に対する『恐怖』から始まっている。

(修復費について): 問題は金額ではなく、①喫緊度に応じた予算配分②費用対効果を最大化する新技術③維持費を歳入源とする発想という近代的な行政手法の欠如である。

 →小栗の反論:次郎の理念を『言葉遊び』と断じ、より現実的な統治の主体に論点を引き戻す。

 反論の柱:

(帝への支出について): 朝廷への費用が少なかったのは改めた。幕府が払って何が悪い。

(修繕費について): ではそうしよう。

 ※新しい国の統治構造(次郎の最終弁論)

 次郎はなぜ「幕府」ではダメで、「議会」でなければならないのか、その本質を説く。

 論点:

 現実として幕府は徳川家という家。議会は民の代表。帝が「家の庇護下」にあるべきか、「国民の忠誠の中心」にあるべきか。

 幕府の五局体制は素晴らしいが、任命権者が将軍個人である限り、それは「人の支配」に過ぎない。我々が目指すのは「法の支配」である。

 →小栗の反論:理念を認めつつ、実行段階における現実的な妥協案を提示し、次郎の覚悟を試す。

 反論の柱(妥協案):

 勘定奉行は議会が選出し、実務官僚は幕府から出す。これで良いではないか。

 →これに対する次郎の反論:妥協案を退け、具体的な制度設計を提示して、自らの構想が空論ではないことを証明する。

 反論の柱(妥協案について):

 頭と身体が違う組織は機能しない(サボタージュの危険性)。

 首だけでなく、手足となる官僚組織そのものを一から作る必要がある。

(選択方法について): 官吏登用試験を導入する。武士階級であれば誰でも受けられる公正な機会を保証する。

(面接の公正性について): 面接官は①議会が選んだ大臣、②幕府推薦の実務家、③くじ引きで選ばれた議員の三者牽制とし、縁故や派閥を完全に排除する。

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「小栗殿、貴殿が示された帳面では元治元年の歳入は約千七十六万両の内、実に四割以上、四百四十三万両が『貨幣改鋳益金』となっております。これは、幕府財政が実質的に破綻しておることを、自らお認めになったと理解してよろしいか」

 質疑応答の火蓋は次郎が切った。幕府が提出した出納帳を手に取って、議場全体に響き渡る声で糾弾したのである。

 次郎の先制攻撃に議場が息をのんだ。

 しかし小栗は少しも動じない。

 その事実をあっさりと認め、議論の焦点を歳出へと移したのだ。

「いかにも。数字は左衛門佐殿の仰せのとおり。なれどその金の使い道にこそ、我らの党是がある。例えば『船舶・武器費』おおよそ三十八万両。これは黒船から国を守るための大砲の費用。また『上洛費』おおよそ六十七万両。これは帝の御世の安寧を守るための費用。先の世へ資を投ずるものであり、国家百年の計に関わる費えでございます。これを、ただの赤字と断じるおつもりか」

 小栗の力強い反論に公議政体党の席から力強い声が上がった。

 しかし次郎は、想定内とばかりにメスを入れる。

「先へ資を投ずる、結構な心がけにございます。さりながらその陰で、いらぬ無駄が残されておる事実から、目をそらしてはなりませぬ。例えば『下げ金』。特に朝廷への費えが、この二十年で十八倍にも膨れ上がっておる。これは、幕府の権威の下がるるを恐れ、朝廷の歓心を金で買おうとしている、ただの政略にしか見えませぬ」

 痛烈な指摘に対し、小栗は笑っている。

 そうくるか、ど言わんばかりだ。

 すかさず次郎自身の矛盾を突いて反撃に出る。

「政略と仰せか。ならばお伺いいたそう。御家中が朝廷へ長年にわたり多額の献金を続けておる事実は、いかに説かれる。我らが費えを『政略』と断じるのであれば、御家中の行いもまた、同じ政略ではありますまいか」

 次郎も小栗も、先手先手を読んでの攻防である。

 誰もが次郎は言いよどむと思った。

 しかし、次郎の答えは、議場の空気を一変させる。

「我らの献金の始まりは、そもそも幕府が責務を怠り、天子様が日々の御暮らしにも事欠くほど困窮しておられた、その惨状を見かねたことに端を発します。幕府が果たさぬ忠義を、我らが代わって尽くしてきたに過ぎぬ。我らは天子様への忠心から金を出した。貴殿らは権力を失う恐怖から金を使っている。この二つを、同じ言葉で語ることはできましょうや」

 世が世なら、切腹ものの言動である。

 いや、議会設置からこの方、そればかりなのかもしれない。

 次郎はさらに、日光や江戸城の修復費を『権威維持のための浪費』と断じた。それに対し、小栗は現実的な問いを突きつける。

「では、いかほどなら良いのでろうか。朝廷への献金は非を認め、やらねばと思うたからこそ只今の費えではございませぬか。加えて国家の象徴がみすぼらしく朽ち果てて、誰が詣でましょう」

 その問いに次郎は具体的な行政改革案をもって答えた。

 問題は金額ではない。

 喫緊度に応じた予算配分、費用対効果を最大化する新技術の導入、そして文化財そのものを活用して維持費を賄う全く新しい発想を提示したのである。

 議論の主導権が再び次郎に傾きかけた時、小栗は話題を帝への支出に戻し、議論を核心へと引き寄せた。

「……さきほども申し上げたが、悔い改め務めを果たそうとしておるではないか。幕府が宮中費を支払って、一体何が悪い」

 小栗の現実的な理論に対して、次郎は国家の統治構造そのものを問う、最後の弁論を始めた。

 次郎の論旨は明快である。

 幕府とは徳川家という1つの「家」であり、その家が帝に金を渡す構図は、帝の権威を損なう。

 対して議会は「民の代表」であり、議会が支払うことで、帝は初めて「国民の忠誠の中心」となるのだと。

 さらに慶喜が進める五局体制さえも人の支配に過ぎないと断じた。任命権者が将軍個人である限り、その本質は何も変わらない。目指すべきは、法によって国を治める法治であると言うのである。

 全ての理念を語り尽くした次郎に対し、小栗は最後の妥協案を提示した。

「理屈は分かり申した。然らばこうしてはいかがか。御料所差配の長たる勘定奉行は、議会が選出する。加えてその下の組頭などの役人は、験の豊かな我が幕府から出す。これならば左衛門佐殿(次郎)の考えと、我らの考えが両立する。これ以上の妙案はございますまい」

 議場が大きくどよめいた。

 完璧な落としどころだと思ったのである。

 しかし次郎は、提案を静かに拒否した。

「小栗殿、その仕組みでは、いずれ、頭と身体がねじれた歪な化け物が生まれるだけでございます。長の理想が高くとも、それを行う手足にしがらみがあっては、いかなる改革も画餅に帰しまする。我らが求めているのは、首のすげ替えではございませぬ。その手足となる官僚の仕組みそのものを、一から作り上げることにございます」

 次郎は、その具体的な方法として「官吏登用試験」の導入を宣言した。

 身分や家柄を問わず、全ての武士に公正な機会を与えるその言葉は、議場の大多数を占める中小藩の議員たちの心を強く打った。

 面接の公正性を問われれば、『大臣』『幕府推薦の実務家』『くじ引きで選ばれた議員』の三者による面接という、誰もが予想しなかった具体的な制度設計を示したのである。

 これによって全ての反論を封じ込めたのだ。

 出納帳の内訳から幕府の財政管理能力を問い、天領を議会の管理下に置こうと考えた次郎であったが、慶喜はあくまで時間をおいての移行を貫いた。

 それが幕府内の役職である勘定奉行の議会からの選出である。

 その後も議論は白熱し、一進一退の攻防となった。

 やがて議長が静かに立ち上がる。

「これにて質疑を終結する。これより『公儀御料所管理法案』の採決に入る!」

 静寂が議場を支配した。

 議員たちが一人、また一人と席を立ち、演台の脇に置かれた2つの箱へ自らの意思を記した木札を投じていく。賛成を示す白票か、反対を示す黒票か。

 木札が箱に落ちる乾いた音だけが響き渡った。

 次郎もまた静かに席を立って白い木札を投じる。

 その表情に気負いはない。全てやるべきことはやった。あとは、天命を待つのみである。

 投票が終わり、開票が始まった。

 役人が2つの箱から木札を一枚ずつ取り出して読み上げていく。

「白票、一!」

「黒票、一!」

「白票、一!」

「黒票、一!」

 拮抗。

 白と黒の木札は、まるで示し合わせたかのようにほぼ同数で積み上がっていく。

 議員たちは、息をのんでその光景を見守っていた。

 やがて、白票の箱が空になり、黒票の箱に、まだ数枚の木札が残っているのが見えた。

「……以上、開票を終わる。結果を報告する!」

 役人の声が、わずかに震えていた。

「賛成、百二十二票! 反対、百二十九票! よって、本案は、否決!」

 その瞬間、公議政体党の席から、地鳴りのような歓声が上がった。

 井伊直憲や加藤丹後守は、固く抱き合い、勝利を喜んだ。

「ああ、これは大変失礼しました!」

「ごほん、いや構わぬ」

 丹後守は姿勢をただすが、直憲も別に怒りなどしない。

 わずか七票差。彼らのなりふり構わぬ多数派工作が、最後の最後で実を結んだのである。

 日本公論会の席は、重い沈黙に包まれた。次郎は、静かにその結果を聞いていた。表情は、変わらない。

「是非もなし」

 いやいやいや!

 ありえんだろ! ?

 しかし、混乱はこれで終わらなかった。

 歓声が鳴りやまぬうちに、直憲がすくと立ち上がった。

「議長! 否決は否決として、幕府は議会の声を真摯に受け止め、ここに、二つの改革案を付帯決議として提案いたす!」

 彼は懐から取り出した書状を朗々と読み上げた。

 一つ、勘定奉行の任命には、議会の承認を要するものとすること。

 一つ、幕府官僚の登用には、身分を問わぬ試験制度を導入すること。

 議場が、再びどよめいた。

 それは、次郎の案を大幅に後退させながらも、その核心部分を幕府が自ら受け入れる驚くべき提案であったからである。

 続けて、『幕府除目開放法案』の採決が行われた。これもまた、試験と面接、そして藩主の推薦を要するという修正案が幕府側から提出され、議論の末に可決された。

 仕方ねえな、今はまだこれでいいか。

 一方、慶喜は江戸城でこの報告を聞き、最大の危機を乗り越えたことに安堵した。

 御料所は守り抜いた。

 しかし、その心は晴れない。

 勘定奉行の人事にさえ議会の承認が必要になるのだ。

 もはや幕府は、かつてのような絶対的な権力者ではない。自らが作り出した議会が、これから徳川の権威を少しずつ蝕んでいくであろうことを予感していたのだ。

 次回予告 第470話 (仮)『次なる火種』

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