第443話 『公儀の影』

 慶応四年八月十三日(1868年9月28日) 京・大村藩邸

 小御所での嵐の朝議から二日が経過した。

 次郎が心血を注いで起草した『重要技術管理法案』は、帝の裁可を経て正式に布告される段取りとなり、その知らせは京の有力者たちの間に静かだが確実な波紋を広げつつある。

 藩邸の一室で、次郎は藩主・大村純顕すみあきと向き合っていた。

 前回の朝議で、次郎の論理が慶喜と久光を同時に沈黙させた光景は、純顕の脳裏に鮮明に焼き付いている。

「次郎、見事であった」

「は。恐れ入ります。これも全て、殿のご決断と、岩倉様や関白殿下の|思し召し《おぼしめし》があったからこそにございます」

 次郎は深く頭を下げた。

 言葉におごりはなく、自らの勝利が多くの要因の上に成り立つ、ギリギリの均衡の産物であると正確に理解していた。

「いや、お主の功は大きい」

 純顕は静かに首を振り、言葉を続けた。

「あの場で要ったのは理と公の心である。お主の言葉がそれを満天下に示した。我が大村家中が理を育み、公のために使う力がある事を示せたのは、主君として誇りに思う。然ればこそ我らは自らを律し、専横とみなされぬよう心得ねばならん」

 純顕の言葉には勝利への高揚感よりも、むしろこれから背負う重責への覚悟が色濃く表れていた。

 突出した力は必ず警戒と反発を生む。

 すでに大村藩の強大な軍事力と経済力は、誰もが知るところなのだ。

 次郎たちが目指すのは覇権ではない。

 あくまで日本のための礎の確立である。

 そのための公平性と中立性を、何よりも大事にしなければならない。

「殿のお言葉、肝に銘じます」

 次郎は、改めて純顕の人物的な器の大きさを感じながら深く頭を下げた。

 弟の純熈すみひろも有能だが、この主君だったからこそ、今の次郎と大村藩があるのは事実である。

「法案は通りました。然れどされどあくまで礎と道筋に過ぎませぬ。これから我らが臨むのは、その礎を元に、如何なるいかなる家を建てるのか。すなわち、『公議』の形と作法を巡る争いでございます」

「形と、作法か」

「は。例えば何処いずこで議を開き、誰が議長を務めるのか。加えて決した議を如何なる手順で帝に奏上し、裁可を賜るのかなど、様々な儀を定めねばなりませぬ」

 これら一つ一つの取決めが、今後の日本の権力が誰の手に帰するかを決定づけていく。極めて重要な意味を持つのだ。

 大村藩が公平を旨とするならば、その仕組み作りこそ公正明大でなければならない。

 次郎の視線はすでに一機関の主導権争いを越えている。国家運営の根幹をなすルールの設計自体に向けられていたのだ。


 ■二条城

 慶喜は、永井尚志なおゆきら側近を前に素早い決断を下していた。

 その表情には小御所での屈辱の感情はもはや見られない。あるのは敗北から学んで次なる一手を打つ、冷徹な政治家としての顔だけであった。

「先般の一件で、蔵人くろうど(次郎)が示した論理は、ある意味で見事である」

 慶喜は静かに切り出した。

 側近たちはその意外な言葉に驚き、黙って主君の顔を見つめる。

「奴は幕府か雄藩かの争いを逆手に取り、誰もが否めぬ高みである『帝の権』へ議論を持ち込んだ。舌戦では我らに勝ち筋はなかった。認めねばなるまい」

 慶喜は一度言葉を切り、書院の庭に目をやった。

「然れど奴の論理には穴がある。帝は、政(まつりごと)の争いから超越した存在であるべきだ。ならば帝の御前で我ら臣下が益体やくたいも無き(つまらない)論議を為すは、朝廷の権をかえって損なう事になる。そうは思わぬか」

「はっ……」

 永井が相づちを打った。


 慶喜が考えた対大村、対薩長さっちょうの方策は突飛ではない。

 前回の御前会議と同様に天皇の臨席のもとで会議をするのではなく、別に場所を設けて議論するのである。

 そして議決結果と内容を代表者が天皇に奏上して裁可を得るのだ。

『天皇の負担を軽減し、ひいてはそれが尊崇の念を高めるまことの尊王の道となる』が大義名分である。

 慶喜の言葉は理路整然としており、反論の余地がない。

 しかし、その真の狙いは別にあったのである。

「ついては、その議論の場として二条城の二の丸御殿を供したいと朝廷に申し出る」

 二条城は将軍上洛じょうらくの際の城であった。

 議場にふさわしい場所であるうえに、議決の奏上は禁裏御守衛総督たる慶喜が務めるのだ。

 側近たちの中にどよめきが起こる。その提案が持つ決定的な意味を誰もが理解したからだ。

 物理的な空間である議場を支配し、天皇への報告ルートを独占すれば、議会を徳川の管理下に置く行為と同義である。

 今後大村藩がどれだけ優れた法案を提出しても、慶喜の意に沿わなければ議論の段階で時間を空費させられるのだ。

 仮に可決されたとしても、奏上の段階で『些末さまつな儀』として後回しにされるか、適当な理由をつけて議論差戻しにされる危険性すらある。

 例えば典薬寮の権限を形骸化させる法案は優先的に審議され、即座に帝の元へ届くだろう。

 幕府に都合の悪い法案は逆だ。

 慶喜がやろうとしているのは、武力や権威によって相手をねじ伏せるものではない。

 議会運営の手続きを掌握し、合法的かつ恒久的に主導権を握ろうとしていたのだ。

 小御所での敗北から導き出した、恐ろしく巧妙な反撃である。

玄蕃頭げんばのかみ(永井尚志)、ただちにこの旨を関白殿下に伝えよ。これぞ朝廷への我らの揺るぎない忠誠だと念を押してな」

「ははっ!」


 ■同日夜 京・大村藩邸

 慶喜の動きは、間者を放っていた次郎の元へ即座に届けられた。

 報告を受けた次郎の顔色が変わる。

 傍らにいた弟の彦次郎がただならぬ雰囲気に息をのんだ。

「兄上、如何いかがなさいましたか」

「……一橋様が動いた」

 次郎は書状を強く握りしめ、すぐさま純顕の元へと急いだ。


「なんと……二条城を議場にだと? 加えて奏上も中納言様(慶喜)が自ら……」

 さすがの純顕も次郎の報告に絶句した。

「然に候。これは単に場をお貸しになる話ではござりませぬ。公儀を、実のところは徳川の差配に置くべくした、明らかなる魂胆にございます」

 次郎の声は、焦りを抑えながらもその危険性をはっきりと示していた。

「御一考くださいませ。この儀が通れば、如何あいなりましょうや。議を取り仕切るのは中納言様(慶喜)もしくは息のかかった者。我らの言など、あってなきが如きごときになりますぞ」

 次郎の懸念はそれだけではない。

 議事進行や議題の優先順位、すべてが慶喜の思いどおりとなり、大村藩提出の法案は審理すらされないかもしれない。

 逆に、典薬寮の権限を一つ、また一つと奪い取るための法案が可決される可能性があるのだ。

「加えて、その果(結果)のみが『公議の総意』として帝の元へ届けられる……。帝はそれが臣下の総意である以上、容易に否とは仰せになれませぬ」

 天皇の拒否権には『正当な理由』が必要となる。

 臣下たちの間で正式な手続きを経て決まった事柄に対し、帝が私情で覆せば、逆に帝の権威を損ないかねない。

 慶喜はその機微を完璧に突いてきている。

『正当な理由』を自由に作り出せるのだ。

「まさに、生殺与奪の権を握るに等しい……。小御所での我らの勝利が、全て無に帰してしまうではないか」

 純顕の額に冷や汗がにじんだ。

「然に候。ゆえに我らは断固としてこの案に反対し、対案を示さねばなりませぬ」

 次郎は一呼吸おいて続けた。

「まずは議場の場所。二条城の如き定めし権の(特定の権力の)印たる場所は、断じて認められませぬ」

 対案の概要は次のとおりである。


 ・東西本願寺の誰もが中立と認める場所を提案する。

 ・議長は選挙で公平に選出。

 ・奏上も議長が責任を持って行うべきである。

 ・以上は議会の公平性と透明性を担保するために必要である。


「然れど殿。我らの正論も、今のままでは通りませぬ。何ゆえかと申さば、我らには『数』が足りぬからにございます」

「数とは?」

「は。中納言様の案に、会津や桑名をはじめとする親幕府派の諸藩は諸手もろてを挙げて賛成なさるでしょう」

 次郎は冷静に情勢を分析した。

 親幕府派の数を合わせれば、大村藩の意見など簡単に押し切られてしまう。

 たとえ議場で正論を述べても数の前では無力であり、それが議会制民主主義の恐ろしい本質だった。

 純顕は次郎の次の言葉を待つ。

「ならば、我らもまた、数を束ねるしか道はございません」

 次郎が描く次なる戦の構想は明確だった。

 慶喜がおそらく集めるであろう『党』に対抗しうる『党』を結成し、理念に賛同する者たちを集めて1つの大きな声とする。

 次郎の民主主義の会議における戦い方だった。


 ■慶応四年八月十五日(1868年9月30日)京・薩摩藩邸

 重苦しい沈黙が薩摩藩邸の一室を支配していた。

 久光は、慶喜が二条城を議場に提供すると申し出た一件を家老から聞き、不機嫌を隠そうともしない。

「……言葉の遊びは、もう終わりじゃ」

 久光は吐き捨てるように低い声でつぶやいた。

「慶喜も、大村ん小僧も、好き勝手な事をぬかしおっ(おる)。議場がどうじゃ、作法がどうじゃと。然様さような小賢しか理屈で、こん国がようなっもんか(良くなるものか)」

 彼にとって慶喜と次郎が繰り広げる『議会のルール作り』の新たな政争は、あまりにまだるっこしく、性に合わない。

 そればかりか、自分たちが完全にその蚊帳の外に置かれている、耐え難い疎外感をもたらしていた。

「奴らが帝をないがしろにし、言葉ん遊びで利権を貪っちゅうなら、そい(それ)を力で正すとが、まことん勤王ん士ん役目じゃなかとか。……もはや、京におっ(いる)薩摩ん者だけでは足りん。国許から兵を呼び寄すっ(寄せる)支度を始めじゃ」

「! 然れど国父様、それは性急に過ぎまする……」

 帯刀たてわき(小松帯刀)が驚いていさめようとする。大久保も同じ気持ちであったが、西郷は黙って考え込んでいた。

「性急? ないが性急なんじゃ?」

「幕府と大村を敵に回して勝てましょうか? そいに(それに)大義名分もあいもはん。我らがここで如何いかに意気を上げようどん、大義とはなりもはん」

「そいなら如何にすっとじゃ?」


「和戦両様の構えにございます」

 帯刀の言葉が場の時間を一瞬止めた。




 次回予告 第444話 (仮)『公儀政体党』

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