第436話 『科学の目』

 慶応四年四月二五日(1868年5月17日)

 洛中同時多発火災から数日後、実行犯と見られる4名の男たちが捕縛された。

 幕府、薩摩、長州、公家の全勢力に恨みを持つ者たちが同時に事件を起こし、人々に深い困惑をもたらしたのである。

 この不気味な符合は、見えざる敵の存在を印象づけた。

 大村藩京屋敷では、次郎左衛門が薬瓶と硝子器具に満ちた即席の『研究室』で、技術者たちと共に目に見えない証拠の解析を続けていた。

「御家老様、抽出が完了しました」

 化学者の宇田川洋之助が、緊張した面持ちで声をかけた。

 彼の前ではごく微量の油状の液体が、小さな硝子瓶の中で揺れている。

 火元直下の土を特殊な溶媒に浸し、それを幾度も蒸留するという根気のいる作業の末に得られたものだ。

「ご苦労。して、結果は」

 次郎は液体が放つ臭気を確かめると、ある事実に気づいた。

「これはまさか……」

「は。煤から鉛の成分が検出されました。これは、間違いなく我らが開発した、内燃機関用のガソリンに含まれる特殊な添加物。市井に出回る灯油などとは、全くの別物にございます」

 その報告は、次郎の胸に重く突き刺さった。

 犯行に使われたのは、大村藩の内部でしか管理されていないはずの戦略物資だったのである。

 この事実は、事件の様相を根底から覆すものであった。

 外部の敵だけでなく、内部に、あるいは内部と通じた敵がいる。

「……然様か。分かった。皆、この件は他言無用。全ての資料を保管し、オレの沙汰があるまで控えていよ」

「ははっ」

 技術者たちを下がらせた後、次郎は一人、薄暗い研究室で考えを巡らせた。

 まじかよ。

 ガソリンの横流し?

 いや、横流しは言葉が悪いな。

 考えられるのは、金に困った者か、あるいは思想的に外部と通じた者。

 これは内部調査の必要があるな。

 早急に該当者を割り出して事情聴取をしなくちゃならない

 下手すりゃ大問題になりかねん。

 事実が事実じゃなくなるまで膨れ上がる可能性がある。

 その日の午後、次郎の元に、藩の監察方から一通の密書が届けられた。

 藩の資材管理を担うある勘定方の役人が、近頃、身分不相応な遊郭での大盤振る舞いを繰り返しているという。

 その役人の担当部署は、内燃機関の研究開発に関わる燃料の備蓄管理であった。

 点が、線として繋がった。

「真に情けない仕儀にございますが、斯くの如き次第にございます」

 次郎は、即座に純顕の元へ向かい、事の次第を全て報告した。

 純顕は静かに次郎の話を聞き終えると、しばらく目を閉じ、やがて重々しく口を開いた。

「……その者を、ここへ」

 一刻(2時間)後、連れてこられた勘定方の男は顔面を蒼白にさせ、ただ震えていた。

 彼は、大村藩がまだ貧しかった頃から仕える、実直なだけの男である。

 しかし、藩が豊かになるにつれ、増大する役職の重圧と、周囲の華やかな生活への羨望が、彼の心を少しずつ蝕んでいった。 

「……何に使われるか、存じませなんだ。ただ、詳しくは存じませぬが、破格の値で買うと申す故、出来心で……。藩の決まりで、売ってはならぬという法もございませんでした故……」

 遊郭での大盤振る舞いは出来心だったのかもしれない。

 年老いた両親と、生まれたばかりの子どもがいた。

 そのために手を出したのだという。

 男の言葉は、見苦しい言い訳であったが、同時に、大村藩が急激な発展の中で抱えた『綻び』そのものでもあった。

 明確なルールがないまま、あまりに強大になりすぎた力。それを管理する側の意識が、まだ追いついていなかったのだろう。

 純顕は、男にそれ以上何も問わなかった。

「次郎。この者の沙汰は、お主に任せる。家中のことは、我らで処断する。それが筋だ」

 純顕の言葉を受け、次郎は静かに男に告げた。

「お主の行いは、挙げ句(結局)京を騒がせ、我が家中を窮地に陥れた。その罪は万死に値する。されど、その責の一端は、明らかな法を定めなかった我らにもある。よって、命までは取らぬ。お役御免の上、謹慎いたせ」

 男は、声もなく泣き崩れた。

 内部の不始末は、自らの手で、厳しく、しかし公正に処断する。

 次郎と純顕は、まず組織の規律を正した。

 だが、問題はこれで終わりではない。むしろ、ここからが始まりであった。

「殿。事は、これで終わりませぬ。この仕儀(一件)は、必ずや幕府や諸藩の知るところとなりましょう。彼奴らはこれを好機と見、我らの管理不行き届きを厳しく問い詰めてくるは必定にございます」

「うむ。然すれば我らは言い訳の言葉も持たぬな」

 純顕の顔に苦渋の色が浮かぶ。

 このままでは大村藩は政治的に完全に孤立し、先日の会議でようやく掴みかけた主導権も、全て失うことになる。

「然に候わず。殿、策はございます」

 次郎は純顕の目をまっすぐに見据えた。

 彼の脳裏には、この絶体絶命の窮地を一気に反転させるための、一つの策が浮かんでいたのである。

 極めて危険な賭けであったが、他に道はなかった。

「我らもまた、責を負うのです。この不始末の監督責任者として」

「……次郎、お主、まさか」

「は。それがしと殿が、自ら蟄居いたすのです。全てのお役目を一時返上し、藩邸にて蟄居する。而してこの仕儀の一切の沙汰を、幕府と朝廷、両所にお委ねするのです」

 純顕は息をのんだ。

 自ら罰を待つ身となれば、武士として最大の屈辱にも繋がりかねない。しかし、純顕はすぐにその策の真意を理解した。

 これは、単なる謝罪ではない。

 本来、幕府が振り下ろしてくるはずの『罰』という剣を、自ら受け取り、その柄を、逆に幕府と朝廷に突きつける行為だ。

 裁く側に、その覚悟と公平性を問う、究極の踏み絵である。

「……面白い。実に、面白い策よの、次郎」

 純顕の口元に、苦笑とも、あるいは覚悟を決めた武士の笑みともとれる表情が浮かんだ。

「その策、乗ろうではないか。幕府と朝廷が、そしてこの国の大名たちが、我ら大村を、そして日本の未来をどう裁くのか。……とくと、見届けてやろうぞ」

 ■禁裏御守衛総督 屯所

 慶喜は机上に置かれた数枚の報告書から、しばらく顔を上げることができなかった。

 洛中を揺るがした同時多発火災である。

 その実行犯として捕縛された4名の男たちの素性が、彼の明晰な頭脳を、これまで経験したことのない深い混乱へと誘っていたのだ。

 ・一人目、根岸甚八。上野国の元豪農。幕府の殖産興業政策によって土地と財産を奪われ、幕府そのものを憎んでいた。

 ・二人目、安里良明。琉球王国の元役人。薩摩藩による苛烈な支配と搾取に絶望し、薩摩の覇権を阻止せんと動いた。

 ・三人目、湊屋惣右衛門。長州・赤間関の元廻船問屋。藩の権力によって商売を潰され、家族の命まで奪われ、長州の掲げる正義に復讐を誓った。

 ・四人目、久我伶司。京の元地下人楽師。越えられぬ身分の壁に才能を抑圧され、公家社会そのものに深い恨みを抱いていた。

 幕府、薩摩、長州、公家。見事に、この国を動かす全ての勢力に、それぞれ最も強い憎悪を抱く者たちが選ばれている。

 あまりに出来過ぎていた。

 出身も身分も、何の関連性も見いだせない。

「……分からぬ。全く分からぬ」

 慶喜は誰に言うでもなく呟いている。

 首謀者は誰だ?

 薩長か?

 琉球の元役人なら分かる。

 異国とはいえ薩摩の支配下のある琉球であるから、まったく関わりがないとは言えまい。

 然れどそうなる事は目に見えておる。

 そこまで愚かではあるまい。

 他の三人は如何だ?

 上州の生糸農家であろうか。

 恨みつらみもあるやもしれぬが、これすべて日本の将来のため。決して私利私欲ではない。

 廻船問屋に楽士にしても、ボヤをおこしたとて何になる?

 実行犯は正体不明の男からそそのかされ、莫大な金と引き換えに犯行に及んだのが判明している。

 この膠着した状況をどう打破すべきか。

 慶喜の頭脳はその一点に集中していたのである。

「申し上げます!」

 側近の永井尚志が慌ただしく部屋に入ってきた。

 その手には書状が握られている。

「何事だ、騒々しい」

「はっ。ただ今大村藩京屋敷より、書状が届きましてございます!」

 慶喜は、いぶかしげにその書状を受け取った。

 大村藩が、この状況で一体何を伝えてくるというのか。

 しかし、その紙面に記されていた内容は、慶喜のあらゆる予測を遥かに超えるものであった。

「なっ……何だと……! ?」

 慶喜の手がわなわなと震える。

 そこに書かれていたのは、謝罪でも、取引でもない。

 純顕と次郎が、今回の放火の一助となったガソリン横流し事件の監督不行き届きの全責任を負い、両名揃って全ての役職を辞し、京都藩邸にて謹慎蟄居に入る。

 身柄と大村藩の処遇に関する一切の沙汰を、幕府と朝廷、両所の公正なる判断に委ねる衝撃的な宣言であった。

「ガソリン? 横流し? ……いったい何を言っているのだ? あの男たち、何を考えている……」

 慶喜は書状を握りしめ、すばやく頭脳を回転させている。

 ――ただの放火ではなく、『ガソリン』という新たな油を用いていたこと……。

 そしてそれを隠蔽するのではなく公表し、すべてを委ねる豪胆さ……。

 大村藩からの謝罪を真正面から受け取ってはならない。

 対処を間違えれば、一気に幕府の威信を傷つけかねない衝撃的な内容であった。

 次回予告 第438話 (仮)『投げられた賽・朝廷と幕府』

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