第885話 『抗えぬ国力差』

 慶長五年二月二十日(西暦1600年3月16日) 岐阜城

「何だと? 上様が?」

 武井十左衛門は家来からの報告を受け、苦々しい顔をしている。

 大日本国崩壊を受け、織田家は日ノ本大同盟以前の状態に戻り、純正から一切の干渉を受けなくなった。

 信長の病状を隠し、肥前国医師団の関与を断っていたのだが、思わぬ所から横やりが入ったのである。

 肥前国の医師の診察を受け、もっとも相応しい治療を受ける。

 まだ死ねない。

 病床にある信長の命により、野間弦斎とオットー・ヘウルニウスの治療が開始されたのである。

「ひとまずは東先生の見立て通り、我らが考えた食を差配いたそう。その上で様が良くなれば、飢餓療法を試そう」

 弦斎は傍らのオットーに確認する。

「この方法では悪ければ数か月、良くても数年命を延ばす事しか能わぬ。お主の言う『いんすりん』なる薬は、本当に出来るのか?」

 オットー・ヘウルニウスは、フレデリックに同行して肥前国にやってきた転生者である。

 医師団の団長で、22才でまだ若いが、オラニエアカデミーで最新の医学研究を牽引し、現在は特に糖尿病の研究に力を入れていた。

「インスリンというのは現在治験前の段階ですので、また薬剤として正式に使用されていません」

 ここでいうインスリンは現代人が治療の際に投与されるインスリンではない。厳密に言えばインスリンなのだが、科学的に製造されたものではないのだ。

 インスリンは初めはウシやブタの膵臓から抽出したものが使用されていた。

 しかし少量しかとれない上に高価で不純物も多く、副作用も多かったのである。

「それでは、中将様の容態が良くなるか否かは、その薬が使えるか否かであろうな」

「飢餓療法の前に、単にカロリー……いや、何をどの程度食べるかを考えてみよう。それで改善されれればしめたものだ」

「大叔父上(浅井長政)が仰せのようにはならなかったな」

 岐阜城の一室で、信秀は十左衛門と勝政と共に語った。

 重苦しい雰囲気の中で話し合っていた。

 長政は純正の対応を慈悲にも近い形で期待していたが、結局叶わず、従うか否かの二者択一を迫られたのである。

 信秀も同席していたのだから、純正の本気は理解していた。

「三左衛門(勝政)よ、今我が領で兵を募って、如何ほど集る?」

 信秀の問いに、勝政は口元を引き結んだ。

「殿、我が家中にて集めらるる兵は、おおよそ五万にござります」

「五万とな? その拠り所や如何に?」

 大日本国の各州は、差はあっても武装解除され、帰農もしくは官吏となって領地を捨てた者もいるのだ。

 完全に昔のようにはいかない。

「斯様な事もあろうかと、常より調べておりました」

 勝政は帳面を取りだし、紙をめくりながら答える。

「まずは州軍の兵が三万六千。すぐに陣触れ能います」

「三万六千! ? たったの三万六千か?」

「は、他には警察の職についている者が一万二千、他は帰農した者や商いや物作りを生業としておる者で、集めれば一万ないし二万にはなるかと存じます」

「それでも七万、七万しかおらぬのか……」

 織田領は摂津・紀伊・伊勢・伊賀・志摩・尾張・美濃・南近江・南丹波・敦賀以外の越前・和泉・河内・大和・西加賀。

 これだけの領土であれば、通常なら動員兵力は12万は下らない。

「帰農した者や町人となった者が、果たして戦えるであろうか?」

 傍らの信則が指摘した。

 最もな疑問だ。

「それが障りにございます」

 十左衛門が口を挟み、続ける。

「帰農した者の多くは、もはや武士の心構えを失っております。商人や工となった者も同じにございます」

「では、実に戦える兵は?」

「やはり警官職の者とあわせて五万といったところでしょうか」

 勝政の答えに、信秀は失望した。

「五万では、到底肥前国には抗えまい。十左衛門、三左衛門、お主らはこうなる事を分かった上で、わしに叛けと申したのか?」

「殿、それは……」

 十左衛門は言葉に詰まった。

 しかし、十左衛門も三左衛門も、信秀に叛けといった訳ではない。

 話がすり替わっている。

 純正のやり方に反対の意向と、もし強引に従わせようとするならば、どうするかと信秀に問い、戦う他ないとの答えを引き出したのだ。

 信秀のもそれはわかってはいた。

 わかっていても、言葉にして口に出さずにはいられなかったのである。

「確かに一力では難しにございます。されど、他家と善く携えれば……」

「善く携えれば、か。……戦が始まった訳ではないが、何処が味方で何処が敵となる? その勢はいかほどか。また肥前国の勢はいかほどか。三左衛門、すべて調べておるか?」

 父信忠が存命で、信長も健康であったなら、まだこの先十数年はしなくても良かった苦労を信秀はしていると感じている。

「は。まず我らに与するのは浅井、徳川両家にございましょう。北条は様子見かとは存じますが、先の事を考えれば必ずや味方となりまする」

「うむ、いかほどの勢じゃ?」

「徳川は約五千五百、北条は九千、浅井は七千ほどかと存じます」

 織田家同様に4割程度に兵力が減っている。

 平和な世に必要なのは治安維持目的の州兵と警察のみ。その政策が各州の軍事力を弱体化させていたのだ。

「やはり少ないの。合せても七万足らずか。では敵方は如何じゃ?」

 まだ戦争状態ではないが、仮想敵である。

「は、まずは畠山、上杉、武田、大宝寺、里見となりますが……」

 勝政は別の資料を確認した。

「そこを見て如何致す? 我らの他は肥前国となるのだぞ。肥前国として考えねばなるまい」

 客観的な考え方は重要である。

 敵味方ではなく俯瞰で見ることで、冷静に彼我の比較が可能となるのだ。

「……では、有り体に申し上げます。肥前国の兵力は三十万を下らず。これは日ノ本のみではなく各地に散らばってはおりますが、諫早だけで一万八千、阿波も同じく。加えて駿河に一万八千、奥州に一万二千の兵がおります。これだけで六万六千……」

 勝政は歯切れが悪い。

「これだけで? なんじゃ、他にも何か言いたげじゃな」

「は、彼の者らはすべて調練された定めし兵(正規兵)にございますれば、州兵の比ではございませぬ。加えて、我らと同じく州兵となった中国・四国・関東・奥州勢もおりますれば、その数は二倍ないし三倍はあると考えねばなりません」

 ……。

 ……。

 ……。

「では戦えば必ず負けるではないか。戦えば負けるが必定、然れど袂を分かたねばならんとは……。武門の誉れとは言ったが、万に一つも勝ち目はない」

 信勝は目を閉じ、息をすって顔をあげ、開くと共にゆっくりと吐いた。

「殿」

「何じゃ」

 十左衛門が提言する。

 秘策のようにも思えるが、この状況で秘策などあるのだろうか。

「殿下と、いや肥前国王と袂を分かちけりといえ、すぐさま戦とはなりますまい。元々戦を好まぬお方。こちらが仕掛けねば、あちらからは無きかと」

「つまり、戦を仕掛けられたら非は肥前国にあると?」

「然に候」

 戦における大義名分を言っているのだろうが、そんなものは勝者の論理である。

 確かに、大儀名分がなければ士気に関わるし、敵味方の勢力比の推移にも影響があるだろう。

 しかし忘れてはならないのが、朝廷は純正が牛耳っており、肥前国に都合の良い大義名分など、いくらでも作れるのだ。

 貸し倒れを防ぐために債権の強制執行であったり、邦人(肥前国民)保護のため、など、である。

「ゆえに、まずは戦の支度は疎かにせず、一力で国を立ちゆかせるべく計らうべきかと存じます」

 軍備拡張と肥前国に依存しない経済の確立である。

 ■若狭 小浜

「組屋さん、大変なことになりましたな」

「おお、越後屋さん。息を切らしてどうなされた。敦賀から駆けつけてこられたのか?」

 小浜港の倉庫にある休憩所。

 卓を挟んで向かい合うのは若狭の廻船問屋組屋源四郎と、越前敦賀の廻船問屋、越後屋兵太郎である。

 普通なら世間話に花が咲くところだが、今日ばかりは越後屋の顔は尋常ではない形相であった。

「駆けつけずにはいられませぬ! 我が敦賀の港は、もう地獄でござる!」

「地獄とは穏やかではない。一体何が?」

「塩でござるよ、塩! 肥前国の塩屋が引き上げるという噂が立った途端、民という民が店に殺到し、僅かな在庫は半日もたずに消え失せました! 値は昨日の十倍、いや二十倍にまで跳ね上がっても、品がない。蔵の前では『塩をよこせ』と怒声が飛び交うありさまで…とても商いどころではありませぬ!」

 越後屋の鬼気迫る報告に、組屋は眉をひそめた。

「やはり敦賀でもか……。実は小浜でも同じ噂が広まっております。肥前国が、越前若狭、丹後の全ての塩田の、釜や枝条架を取り壊しておるとな」

「なんと! では、あの噂は真だったのでございますか!」

 越後屋は膝を打った。

「それで合点がいきました。そんな事をすれば、塩の値が跳ね上がるどころではない! 私も小さき塩屋は抱えておりますが、畳むしかなくなります」

 越後屋の反応に組屋は渋い顔で首を横に振った。

「畳むどころの話ではありますまい。越後屋さん、肥前国の塩作りは我らのやり方とはまるで違う。少ない薪で大量の塩水から塩を作るのですぞ」

 組屋の顔は真剣そのものである。

「そもそも、彼の者らが作った枝条架なぞ、我らには使い方もよう分からん代物。あれが無ければ、今まで通りの値段と量で塩を作るなど、夢のまた夢でございましょう」

「然れど前のやり方に戻せば……」

「無理でしょう」

 組屋はきっぱりと言い切った。

「前のやり方に戻したとて、作れる量はせいぜい今の十分の一、いや、二十分の一やもしれません。その間に薪の値は上がり、人手もかかる。できた塩は、とんでもない値になるでしょうな。とても庶民が手を出せるものではなくなりますぞ」

 二人の間に重い沈黙が流れる。茶の湯気が虚しく立ち上っていた。やがて、越後屋が絞り出すように言った。

「ならば、塩だけではありますまい。醤油も味噌も、畿内で作られておった安い品は、みな肥前国の醸造蔵のものです。あれらも無くなるとなれば……」

「……考えただけでも恐ろしい。冬を越すための漬物も作れぬ。魚の塩漬けもできなくなる。そうなれば、我らも商売上がったりじゃ」

 組屋の言葉は、大日本国の消滅が単なる肥前国企業の撤退ではなく、日本の経済構造そのものを根底から揺るがす大事件であることを示していた。

 肥前国がもたらした安価で豊富な生活必需品は、もはや人々の生活に深く、そして不可欠なものとして食い込んでいたのである。

 次回予告 第886話 (仮)『商人連盟の悲鳴と各大名家』

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