慶長三年十月三十日(西暦1598年11月28日) 海西地方 天津市
開封府で万暦帝との会見を終えた純正は、大陸三分の計が実現しようとしている今、海西地方の天津市で今後の対策を練っていた。
女真はモンゴルの侵攻を受けて防戦のために遼東へ撤退し、寧夏は十分得るべき物は得たとして、保定府を領土の南限としている。
明は寧夏との講和に同意はしたが、女真に奪われた登州を奪還するために反攻作戦を開始していた。
「直茂よ、こうもうまくいくとは思わなかったぞ」
「殿下の徳の成せる業にございます」
大河ドラマでよく耳にするフレーズである。
純正はニヤリと笑った。
「蒙古に種はまいておったが、こうも早く花が咲くとは思わなかったがな」
「仰せのとおりにございます」
明には明の、女真には女真の、寧夏には寧夏向けに間諜を送り込み、工作していたのである。
それはモンゴルに対しても同様であった。
寧夏国は、哱拝が明に反乱を起こした際、モンゴルのオルドス部の族長ジョリクトゥと同盟を結んでいた。そのため、哱承恩の代になっても家族ぐるみの付き合いが続いている。
純正は寧夏に対する造反を考慮しつつ、論功行賞に不満を抱く者たちの矛先を女真に向けようとしたのだ。
哱拝の乱の際、同盟相手はオルドス部だけであったが、明に割譲を要求するころには、分け前を得ようと他の五部族も加勢している。
哱拝の死と代替わりでカリスマ性が失われたのと同時に、オルドス部への行賞が過度に偏重しているとして、不満が噴出してきたのだ。
「まさに鶏が先か卵が先かでございますな」
「然り。此度は鶏である女真の山東侵攻よりも、卵のモンゴルの不満が先であったな。山東への侵攻がなくとも、寧夏への不満は積もっていたであろうからの」
オルドス部のジョリクトゥと哱承恩は顔見知りであり、家族同様の関係である。
哱拝と共に戦った息子の哱承恩や土文秀、劉東暘が存命である限り、オルドスと寧夏の対立は難しかったのだ。
しかし他の五部は違う。
表向きは寧夏からの離反を見せていないが、本心は分からない。
そこで女真の山東侵攻である。
特に女真と対立していたチャハル部のブイグ・ハーンは、ここぞとばかりにモンゴル部族を結集し、女真に攻撃を仕掛けたのだ。
そこでオルドス部は、直接的に寧夏に敵対するわけではないため、女真への侵攻に加担したのである。
「さて皆の衆、此度の戦、いかほど続くかの。オレとしては明が山東を取り戻すまでは続いてほしいが、いかがかの?」
直茂をはじめとした戦略会議室の面々は、それぞれが考え込んでいる。
「その判を下すのは難し事かと存じます」
「ほう」
直茂は腕を組んだ。
「女真軍は登州に守備兵を残したまま遼東へ退きました。然りながらモンゴル軍との戦いにめどが立てば、すぐにでも戻ってくるでしょう。一方の明軍は……」
「民が立ち上がっておるからの。義勇軍の数も増えておろう」
「はい。李化龍殿の報告では、すでに一万を超えたとか」
「ヌルハチもさぞ悔しがっておろう。遼東に攻め込まれ、せっかくの山東侵攻もこれからという時にじゃな……」
純正はニヤリと笑う。
「女真も明も、いずれ疲弊するであろう。そのときこそが、真の三国鼎立の始まりじゃ」
「然れど殿下、女真軍が早々に遼東での戦いを終え、明への反撃に出た場合は?」
「……ふふふ。これまでの戦いとは違うて、寧夏は動かぬ。彼らも保定府での休戦に満足しておる。今はまだ、女真とは手を結ぶまいよ。それこそオレの顔に泥を塗る行いじゃ。然様な悪手はまかり間違っても打たぬであろうよ」
純正は以前話した影響力の件を思い出した。
室町幕府や朝廷が、戦乱を収めるために自らの権威を利用したのと同様である。
(オレも同じなのか?)
「ふっ……」
「いかがなさいましたか? 殿下」
「いや、然しもなし(大したことはない)じゃ」
然様でございますか、と直茂が言うと、いつもの純正に戻った。
「申し上げます! 明軍、河間府から青州の防衛線を押し上げ、登州全域へ攻め入った由にございます!」
息をきらせて伝令が駆け込んできた。
「ほう、李如松にしても李化龍にしても、ひとかどの将であるな。民兵をまとめあげ、五軍の兵と共に戦うは、易しに非ずぞ」
「は、さすがにヌルハチの攻めを耐え抜いた李化龍に、軍をまとめ上げて無事に開封へ遷都を成し遂げた李如松の用兵は、一見の価値があるやもしれませぬ」
「おいおい、それは困るぞ、有能な将とは戦いとうはない」
ははははは、と笑いが起きた。
盤上の駒を動かすプレイヤーの視線で楽しんでいるのかもしれない。
いや、楽しむという表現は不謹慎だ。
図らずもその力を持ち、コマを動かせる地位にまで達したと言うべきだろう。
「では、官兵衛。明は登州を奪い返すのにいかほどの時を要するかの。女真と蒙古の戦もそうじゃ。簡単に終わってしまっては、返す刀でまた登州に戻ってくるやもしれんからの」
黒田官兵衛は純正の問いかけに、しばらく目を閉じて考え込んだ。
「登州の奪還には、早くとも三ヶ月はかかりましょう」
「ほう、それほどの時を要するか」
「はい。兵力においては寧夏との和議がなったゆえ、明軍が優位にございます。然れど女真が河間府を捨て、さきの李化龍と同じく登州の蓬莱で守りを固めれば、時がかかりましょう」
官兵衛は机上の地図を指差しながら、話を続ける。
「沙門島を拠点に補給線を築いておりますゆえ、兵糧矢弾が遼東より運び込まれれば、長戦となるかと」
「うむ」
「一方、遼東での戦いですが……」
「なんじゃ?」
「こちらは予断を許しません。蒙古連合軍は騎馬戦にたけており、女真軍も同様。互角の戦いになるでしょう」
純正はうなずきながらコーヒーカップを手に取った。
南蛮貿易でコーヒーを入手し、南方の領土で栽培し始めてからは、手放せない。
前世と同じくお茶を飲み、時に紅茶やウーロン茶、そしてコーヒーだ。
会議室のメンバーにも、好みの飲み物とお茶菓子がある。
それを飲み食いしながら会議をするのだ。
リラックスした状態の方が、より良いアイデアが出る。
「然様か。然れば、遼東での戦いが長引けば長引くほど、明にとっては好都合となるわけじゃな」
「はい。然れど……」
官兵衛は言葉を切ったが、何かを懸念しているようである。
「なんじゃ?」
「ヌルハチは策士。モンゴルとの和議を結び、すぐさま登州への反転も考えられます」
純正は不敵にほほ笑んだ。
「心配は無用じゃ。蒙古の各部族、とりわけチャハル部のブイグ・ハーンは、そう簡単には引き下がらぬであろう。自らが率先して軍を起こしたのじゃ。女真が蒙古の軍をことごとく打ち負かさぬ限り、退きはしまいよ」
「では、我らとしてはしばらくは様子見にございますね」
「|然《しか》り。……ああ、そういえば安南(ベトナム)の……何と言ったかの」
人間の脳にはやはりキャパシティがあるらしい。
興味の有無や必要性、緊急度に応じて、保存時間や再生までの時間が決まっているのだろうか。なかなか名前を思い出せない。
「後黎朝の鄧松にございますか」
「ああ、交易を求めて数年前に使者を遣わしてきておったろう? あれは如何あいなっておる?」
確か……。
そう言って発言したのは土井清良である。
「殿下より、国内が定まらぬうちは交易まかりならぬとの仰せでしたので、すぐには始めませんでした。然りながら簒奪の王朝たる莫朝を北へ追いやり、民心も安んじておりますので、公ではありませぬが、民同士の商いは許しております」
「ほう? では安南は完全に鄧松が統べておるのか?」
「いえ、莫朝は北へ逃れた後、明の助けをうけて高平(カオバン)に拠って、いまだに虎視眈々と狙っております」
「……うべな(なるほど)。では黎朝に使者を送り、正式に国交を開こうと伝えよ。阮朝は別だが、民の心を得ておらぬ簒奪の王朝を滅すのは、悪しき行いではあるまい」
「は」
明も今はそれどころではない。
宗主権を放棄した以上、援助をしても意味がなく、その余力もないのだ。
八紘一宇、なるであろうか。
次回予告 第858話 (仮)『鄧松と明黎国境・中原の争いやまず』

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