第863話 『開封府にて。諫早にて』

 慶長四年正月十日(西暦1599年2月5日) 開封府

李化龍りかりゅうよ、それに李如松。余が貴公らと約束したのは、二ヶ月の後に女真に奪われた土地を全て取り戻すことである。それがなぜ、追いやるどころか、蓬莱ほうらいを残して和睦となったのだ?」

 万暦帝は怒ってはいない。

 冷静に二人に対して状況を確認しているのだ。

「陛下」

 李化龍は恭しく頭を下げながら、丁寧に説明し始めた。

「わが軍の士気は高く、民も立ち上がっておりました。このまま戦い続ければ、間違いなく勝てたでしょう」

「ふむ」

「しかし、状況が変わりました。モンゴルとの戦いに苦戦していると思われていた女真の本隊が、散々に敵を打ち破り敗走させたのです。こうなれば、女真は全力をもってわが軍と戦えます。その場合、確実に勝てる保証はございません」

「……勝てぬ、か」

 万暦帝は静かにうなずいた。

 二ヶ月の期限を切ったのは李化龍と李如松であるが、言わせたのは万暦帝である。

「民兵は故郷を取り戻す大義のもとで戦っておりました。しかしそれが達成された今、さらなる戦いを望んでいるとは思えません」

 李如松は黙ってうなずいている。総兵都督である李化龍の言葉に対して異論はない。

「さらに、女真は五年間の休戦を申し出てきました。それならば、と、当方は肥前国を立会人とするならば応じようと伝え、同意を得たのです」

 その言葉に、万暦帝の目がわずかに動いた。

「肥前国を立会人に? なぜだ?」

「はい。女真が和議を破棄しないようにするためでございます」

 万暦帝は深いため息をついた。

 自らを省みて親政を続けてはいるものの、ため息が出ない日はない。

 確かに、肥前国の関与は大きな意味を持つ。女真が休戦協定を破れば、それは肥前国との約束も破ることになるからだ。

 本来ならば、自分がその立場にあったはず。

 万暦帝はそう思ったが、今となってはどうにもできない。

「なるほど。ならば和議もやむを得んか」

「はい。逆に考えれば、女真が和議を破る前提で備えておれば、万が一攻め込まれても、対応できます」

「うむ。わが天朝も、いずれ力を取り戻さねばならぬからな。五年の猶予を得たと考えるべきか。よかろう。だが、この先五年間、徹底的に国力を蓄えよ。二度と蛮族に頭を下げてはならんぞ」

「ははっ」

 李化龍と李如松はホッと胸をなで下ろし、深々と頭を下げた。

 彼らもそれが最善の選択だと確信していたのである。




 ■慶長四年正月十五日(西暦1599年2月10日) 肥前国諫早城

「何? 明と女真の休戦に立ち会ってほしいと?」

 純正は藤原千方ちかたの報告に深い関心を示した。

「は。李化龍から女真の全権ホホリへそう申し出があったようで、天津市を経て知らせが参りました。和睦の条件は大きく二つ。蓬莱は女真領とし、沙門島しゃもんとうは明に返すこと。二つ目は先に五年の休戦を設けることにございます」

「うべな(なるほど)。五年の休戦は分かるが、島を明領とするのは蓬莱の女真を封ずるためであろう。ふふふ、やはり李化龍とやら、ただでは転ばぬの。ヌルハチも、大を得るためには小を捨てざるを得んのだろう」

 それを聞いて千方は首をかしげる。

「殿下、その大とはなんでしょうか? それがしは、モンゴルとの戦に勝ったのなら、そのまま登州に兵をつぎ込めばよいと思うのですが」

「そこよ」

 純正は持っていた扇子で千方を指した。

「女真蒙古もうこのチャハル部とは反目しあっておったが、他の部族とはそうでもなかったはずじゃ。それが、われらがあおったせいで一つにまとまり、女真を攻めた。つまるところ、女真にとっては蒙古も滅ぼさねばならぬ敵なのじゃ」

然様さようでしたか。では女真は……」

「うむ。蒙古との戦いに全力を注ぐ必要がある。いや、女真を一統したときと同じく、蒙古も一統し、己が勢力としたいのであろう。今、負け戦で蒙古の諸部族はばらばらで、統制が取れておらん。だからこそ、今のうちに叩いておこうと考えたのじゃ」

「しかし、各部族が一つになって戦えば、女真も苦戦するのでは?」

「ふふふ」

 純正は笑いながら千方の意見に反論した。

「蒙古の諸部族は一つにまとまれん。チンギス・ハーンの如き偉大なハーンが現れれば別だが、こたびと同じく、いっときは結束できても、長くは続かぬのだ。ゆえに女真としては、一つずつ潰していく。そのためには明との戦いは避けねばならぬ」

「なるほど……」

 千方は深くうなずいた。

 情報収集が専門ではあるが、純正は時折彼に助言を求める。

 それは客観的な情報からみた、率直な意見を聞くためだ。

「五年の休戦か。ヌルハチめ、巧みよのう。蒙古攻めだけではない。後顧の憂いがなくなれば、寧夏ねいかの助けがなくとも一力(単独)で明に攻め入れよう」

 純正は苦笑した。

 ヌルハチは恒久的な平和を願って和議を申し出たのではない。あくまで次の戦争のための、準備期間としての五年間なのだ。

「では、この先五年は、様子見と?」

 純正と千方のやりとりを聞いていた直茂が、話に入ってきた。

「然り。我らとしては別段何もせずともよい。ただ、情報だけは集めておけよ。いかなる有り様にも処せるようにじゃ」

「御意。では、立会人はいかに?」

「ふむ……まあ、誰でもよいが……。よし、オレの名代として、柳川調信しげのぶを遣わそう。アジア・太平洋局次長の調信であれば、女真も明も、軽んじられたとは思うまい」

「ははっ」

 八紘一宇はっこういちうのスローガンでやってきてはいるが、簡単にはいかない。




 ■遼東 三萬衛さんまんえい

「ハーン、よろしかったのですか? なぜ沙門島を譲ったのです?」

 明からの譲歩案に対して了承したのは、ホホリの独断ではない。

 最初から明がそう言うであろうと、ヌルハチはホホリに指示していたのだ。

「我らの真の目的は何だ?」

 ヌルハチは穏やかに問い返した。

「明を討ち滅ぼすことです」

「うむ。そのためには力がいるのだ。残念ながら、弱ったとはいえ、今の我らだけでは明を倒せぬ。ゆえに寧夏と共同で攻めたのだ。しかし、寧夏は明と和議を結んだ。詰まるところ、他力本願では我らの願いはかなわぬ。今回の件でよく分かった」

「は」

 ホホリは深くうなずいた。

「独力で明と対抗する力を得るには、後ろのモンゴルは邪魔なのだ。これも滅ぼさねばならん。蓬莱でもどこでもよいのだ。時間を稼ぐための建前でしかない」

 肥前国の介入がなく、モンゴルを滅ぼした後ならば、何の心配もなく全力で再び登州に侵攻できる。

 ヌルハチの頭の中に、次の和議などはない。

「では、肥前国の立会いも読まれていたのですか?」

「たまたまだ。しかし、明がわれらの条約破りを恐れているのは確かであろう。そのために純正を引き合いに出してくる可能性はあった。なに、肥前国が立会いに入ったとしても何の問題もない。攻め込む大義名分など、作ればよいのだ」

 ヌルハチの和議は、純正の予想どおり、再侵攻を見据えてのものだった。




 次回予告 第864話 (仮)『つかの間の平穏と技術の発展』

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