慶応四年四月十日(1868年5月2日) 京・大村藩邸
春の柔らかな日差しが、手入れの行き届いた庭の苔を照らしている。
だが、屋敷の奥の一室に満ちる空気は、春とは程遠い、張り詰めたものだった。
「――以上が、越前までのあらましの次第にございます」
次郎は純顕への報告を終えた。
北陸から戻り、京で合流して7日が経つ。彼がもたらした『日本海側諸藩の完全な支持』の情報は、2人に安堵と、次なる戦略への確信を与えていた。
「うむ、大儀であった、次郎。これで、我らの『貴族院』構想も、単なる絵空事ではなくなったの。仙台や盛岡は……難しか」
純顕の言葉に、次郎は頷いた。
仙台や盛岡といった奥羽の大藩は、地理的にも江戸に近い。
また伊達家や南部家といった家格の高さもあって、そう簡単に幕府に反旗を翻すような真似はしないだろうという現実的な判断がそこにはあった。
彼らが動くには、より決定的な理由が必要になる。
「然に候。然れど背く訳でもございません。この先の幕府の仕方(やり方)によって、大いに害ありと考えれば必ずや我らに与する事でしょう」
これは奥州諸藩に限ったことではない。
要するに幕府への恩顧をどれほど感じているか。
それが問題なのである。
恩があるために、ご恩と奉公の原理原則から外れないのだ。
しかし、ご恩とはなんだろうか?
幕府ができて260年。
もう、いいのではないだろうか。
今を生きる我々に、幕府は何か恩を与えているだろうか。
次郎はそう考えている。
他にも、多かれ少なかれ、そう感じている人はいるはずなのだ。
「然様か。まあ、お主がそう言うのであれば間違いなかろう」
純顕は笑い、次郎にも笑みがこぼれる。
「申し上げます!」
「何じゃ?」
和やかな雰囲気は近習の声で切り裂かれた。
「申し上げます! 一橋中納言様(慶喜)御上洛! 朝廷にて奏上なされ、将軍後見職辞任ならびに禁裏御守衛総督の任に就かれた由にございます!」
「 「何じゃと?」 」
全国に張り巡らされた電信網は、次郎たちのみならず、誰もがリアルタイムで情報を知り得たのである。
運用は大村電信公社がしていたものの、各藩は方言利用や定期更新の暗号表を用いて機密情報のやり取りをしていた。
職員の人選においては、公平性と機密性を保つために守秘義務契約が結ばれ、厳選された人員が充てられている。
また、次郎の江戸での情報収集にも抜かりはなかった。
「これは……」
「中納言様は相当慎重に事を運んだようですね」
次郎の口調は冷静だったが、その瞳の奥には、ある種の感嘆と強い警戒の色が浮かんでいた。
まじか。
まじで禁裏御守衛総督?
守護代は松平容保だし、所司代は松平定敬。
歴史どーりやん。
「然て、次郎。……では如何いたそうかの」
純顕の声は低く、抑えられてはいるが、内に秘めた驚きと怒りにも似た感情は明らかだった。次郎は一度ゆっくりと息を吐き、思考を巡らせながら話し始める。
「は、まずは敵を……いや、幕府は敵ではありませぬが……」
「申し上げます!」
「此度は何じゃ? 騒々しい」
違う近習が同じように襖の奥から声をかけてきた。
普段は温厚な純顕だが、慶喜の電撃上洛と総督就任がそう言わせたのである。
「一橋中納言様、お越しにございます!」
「何いぃ!」
「何だって?」
純顕と次郎はほぼ同時に声を上げ、顔も見合わせた。
「此度は一体……如何なる御用向きにございましょうか」
招き入れた慶喜を前に、機先を制された純顕と次郎は平伏して挨拶をした。
慶喜は先日の江戸城での会談とは打って変わって、どこか余裕と自信が満ちている。
「丹後守殿、蔵人、先日は失礼致した。我が物言いが、貴殿方を不快にせしめたこと、改めて謝罪する」
謝罪? 謝罪だと?
あり得ん。絶対にあり得ん。
あの慶喜が謝罪だと?
仮に本心でなくても、謝罪の言葉を発するなんて信じられない。
予想外の謝罪の言葉に、純顕と次郎は顔を見合わせた。慶喜がこのように低姿勢に出るのは珍しいどころか、誰も見た事がないだろう。
「いえ、中納言様にご不快な思いをさせてしまったのであれば、それはそれがしの不徳にございます」
純顕は形式的に答えたが、内心では警戒を強めていた。
慶喜がわざわざ京都まで来て謝罪するなど、ただごとではない。
「いやいや、非は私にある。合議制は公儀にとって不可欠であると、今更ながら痛感致した。諸大名の考えなくして、この国の未来を切り開くこと能わず。加えて国家の大事、電信や書状で伝えるだけでは済まないと考えたのだ」
慶喜はそう言って、純顕と次郎の顔を交互に見た。その言葉には、建前と本音が入り混じっているように見える。
それでも、あり得ないことであった。
「ついては、遺恨は水に流し、互いに胸襟を開いて話し合いたいのだ。貴殿の示された『貴族院』構想、これこそが我が国の新たな政体の礎となるであろうと確信致した」
純顕と次郎は、まだ慶喜の本音が見えない。
慶喜は自分たちの構想を受け入れるだけでなく、主導権を握ろうとしているのだろうか?
しかし、2人の動揺をよそに、慶喜からは驚くべき提案がなされたのであった。
■数日後 小松帯刀邸
小松邸の一室は、鉛のように重い空気に満たされていた。
「はあ……またしてん、二条様にはお会いできんやったか」
小松帯刀の問いに、西郷吉之助は巨体を揺らして無言で頷いた。
その眉間に刻まれた皺は、ここ数日の徒労と焦燥を物語っている。慶喜の電撃的な上洛と総督就任は、彼らの朝廷工作を完全に麻痺させていたのだ。
佐幕派の公家たちは勢いづき、中立派の者たちでさえ、慶喜の威光を恐れて距離を置き始めている。
「もはや、まともな周旋などできもはん。御所ん門ちゅう門は、会津と桑名ん兵で固められちょっ。我らが息んかかった公家衆は、参内すらままならん有り様じゃ」
西郷の言葉には、煮えたぎるような憤りが表れていた。
理想とする大政奉還は、慶喜が築いた物理的・政治的な壁の前に、為す術もなく頓挫しようとしている。
知恵を使い、大義を説くはずの土俵そのものが、力によって奪われてしまったのだ。
「こんままでは、慶喜ん思う壺じゃ。奴ん『公儀貴族院』が成立してしまえば、我らは逆賊ん汚名を着せられかねん。いっそ、こん兵力で……」
「待っちょい、吉之助さぁ、そやダメだ。まだ早か。今兵を起こせば、朝敵にないかねん」
これは一体、何の策謀か。
薩摩藩は、突如として盤面の外に弾き出されたかのような、深い混乱の渦に叩き込まれた。
■長州藩邸
「駄目だ……。三条様も中山様も、慶喜の動きを警戒してはくださるが、今、我らに与して事を構えるのは時期尚早と……。完全に動きを封じられておる」
周布は、苛立たしげに扇子で畳を叩いた。
彼らが掲げる純粋な尊皇の志も、慶喜という『帝の守護者』を前にしては、その輝きを失いつつある。
その『帝の守護者』が正しい物か否かは、問題ではない。
慶喜の行動は、彼らの大義名分そのものを奪い去ろうとしていたのだ。
「慶喜の狙いは、我らを挑発し、暴発させることにある。ここで焦って兵を動かせば、それこそ朝敵となるは必定。今は耐えるしかない……。だが、いつまで……」
久坂玄瑞と周布政之助が、行き詰まった現状に歯噛みしていた。
かくして薩長は慶喜によって手足をもがれることとなったのである。
次回予告 第433話 (仮)『御所ディベート』

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