慶長五年四月十日(西暦1600年5月22日) 深夜 岐阜城
半月の夜だった。
岐阜城はまるで巨大な獣が寝息を殺しているかのように、深い静寂に包まれている。
だが、その静寂は張り詰めた弦にも似て、いつ切れてもおかしくない緊張をはらんでいた。
出撃の日がいよいよ迫っていたのである。
「刻限にございます、左衛門(信則)様」
幽閉された部屋は薄暗い。
ロウソクの火を点し、じっと本を読んでいた信則の耳に、蒲生氏郷の忍び声が届いた。
「参りましょう」
「うむ」
氏郷が先頭に立ち、二人は闇に紛れて部屋を出た。廊下は静まり返っている。
足音を殺し、気配を消しながら進む。
幽閉されてはいたが、監視の役人を買収したのだ。そもそも主君の弟君である。そこに家老の姿があり、謀反とは言いがかりだと説得されれば断れない。
また塩や味噌などの貴重品と金を渡したのだ。
城内の警備は厳重を極めていたが、氏郷の手配により、この時間帯は警備が手薄になる道を選んでいた。
夜陰に溶け込むように、氏郷の同僚である堀秀政、奥田直政、そして他の留学組の家臣数名が合流した。
全員が顔を隠す頭巾を被っている。
「左衛門様、ご無事で」
堀秀政が信則に頭を下げた。
「久太郎、三右衛門殿、それに皆も。世話をかける」
信則は短く答えた。
心臓は高鳴っていたが、不思議と冷静である。
裏口から城の外に出ると、待たせていた馬に跨った。馬の足元には布が巻かれ、蹄の音を極力抑えている。
「行くぞ」
氏郷の短い号令と共に、一行は馬を駆けさせた。
城下町の裏道を、風のように抜けていく。
どこかの家で犬がけたたましく吠え、窓の隙間から漏れる灯りが一瞬、顔を照らしては消えた。眠りにつく人々の日常が、すぐそこにある。
兄上、お待ちください。この信則が、必ずや織田家を……民を救う道を切り開いてみせまする。
胸中で信秀に語りかけ、ぐっと手綱を握りしめる。もはや信則に迷いはない。岐阜城下の喧騒を完全に背にした時、氏郷が振り返り、力強く告げた。
「目指すは近江、浅井長政殿の元!急ぐぞ!」
一行は東へ、夜の闇へとその姿を溶け込ませていった。
その頃、琵琶湖を望む近江・小谷城では、一人の男が夜明け前の薄闇の中、静かな覚悟を決めていた。
浅井長政である。
目の前には早馬がもたらした二通の書状が置かれていた。
一つは、織田軍の出陣を告げるもの。もう一つは、織田の同盟国であったはずの北条家が、肥前国側への恭順を表明したという凶報だった。
「……もはや、これまでか」
長政の呟きは静かに広間に余韻を残した。
経済制裁に喘ぐ民を救うために最後まで和平の道を探ってきたが、信秀の出陣と北条の離反は、その最後の望みすら無慈悲に断ち切ったのである。
「殿! 早まってはなりませぬ!」
駆け込んできた家臣が、長政のまとう絶望的な空気を察して声を上げる。
しかし、長政は静かに立ち上がると、迷いのない足取りで奥の間へと向かった。
家臣が後を追った先で見たのは、白装束に袖を通し、髪を水引で束ねた主君の姿だった。
「殿、おやめくだされ! まだ打つ手はありましょう!我ら家臣一同、最後まで殿と共におりますれば!」
家臣は、藁にもすがる思いで進言したが、長政は静かに首を振る。
「左衛門(信則)も三郎(信秀)を諫めた末に幽閉されていると聞く。もはや、時はないのだ。わしの命一つで民が救われるのであれば、安いものよ。わしは大阪へ行き、殿下に今一度直訴致す」
主君が自らの命を賭して、この絶望的な状況を打開しようとしている。
その事実に、家臣の胸は熱くたぎった。
「殿!」
家臣は長政の足元にひざまずいた。
「この命、お殿様にお預けします! どうか、我らもお供させてください!」
他の家臣たちも次々とひざまずき、長政に同行を願い出る。長政は彼らの顔を見渡し、その覚悟に静かに頷いた。
「……皆の心遣い、忝い。されど、これはわし一人で為すべき事。お主らはここに残り、民を守るのだ」
「然れど殿!」
家臣たちの悲痛な叫び声が響く。
長政は表情を変えず、その声には確固たる決意が宿っていた。
「もし、わしの命で事が成れば、必ずや民は救われよう。その時、この近江若狭の地を、輝政(長政嫡男)と共に支えてくれ。もし、成らなければ……」
長政は一瞬言葉を詰まらせたが、その先は言わなかった。
最後の命令であり、そして別れでもある。
家臣たちは主君の言葉に涙をこらえ、ただ深く頭を下げることしかできなかった。
家臣たちの嗚咽を背に受けながら、長政はただ一人、夜明け前の小谷城を後にする。その足取りに、もはや一切の迷いはなかった。
■岐阜城
夜が明け、朝霧が晴れ始めた岐阜城は、出陣を前にした異様な熱気に満ちていた。
そんな中、一人の家臣が血相を変えて信秀の許へ駆けつける。
「申し上げます! 左衛門様が……昨夜よりお姿が見えませぬ! 部屋はもぬけの殻に!」
「何じゃと! 守り目(番人)は如何したのじゃ?」
「そ、それが影も形もございませぬ」
出陣の鎧を身に着けていた信秀は、その報告を聞いても眉一つ動かさず、むしろ愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「フン、臆病風に吹かれて逃げ出したか。好都合よ。戦の前に、足手まといが自ら消えてくれたわ」
周囲の家臣たちの間に走った動揺を一笑に付し、信秀は城門の上に立った。眼下には、朝日に武具を輝かせた数千の兵が、大地を埋めている。
岐阜を出陣後、道中で兵が集結していく予定であった。
数日前――。
「何じゃと! ? 五万の兵が集らぬと?」
柴田勝政は、信則の御前で十左衛門ら重臣との評定の最中であった。
「何ゆえ、何ゆえ集らぬのじゃ?」
勝政が近習を叱責すると、言いずらそうに答える。
「それが、その……折からの塩や味噌不足で、それどころではないのです。出陣の下知を伝えようにも、誰もおらぬ有り様の屯所もございまして」
「そ、それは逃げたというのか?」
「は、恐らくは」
信則は目をつむり、十左衛門は苛立ちを隠せない。
「よい、いずれにせよ最後の戦じゃ。蔵を開き、兵に与えよ。大阪の塩も味噌も取り放題だと伝えるのだ」
「聞けぃ、我が兵(つわもの)ども!」
信秀の声は、城門の上から兵士たち一人ひとりに届くかのように、力強く響いた。
「我らの行く手を阻むは京に巣食う欲深き商人どもよ! 奴らに、日ノ本を統べるべき真の武士の力、織田の武威を見せつけてやれ!」
天に突き上げた拳が、力強く振り下ろされる。
「出陣じゃあッ! !」
その号令を合図に、地を揺るがす鬨の声が上がった。
「 「 「オオオオオオオオオオッッ!!!!」 」 」
織田軍は動き出し、その進軍は京への街道を埋め尽くした。
琵琶湖の静かな湖面を、1隻の船が京へと向かっていた。
船上には、白装束を纏った浅井長政が固く目を閉じている。
時を同じくして、美濃と近江の国境を越える山道を、数騎の馬が駆けていた。
馬上には、焦燥と希望をない交ぜにした表情で前を見据える信則の姿があったのである。
■大阪 政庁
「甚右衛門、各地方の食料の備えは如何だ?」
「は、それにつきましてはこちらの表の通りにございます」
純正は1600年、まさに今年であるが、南米での大噴火を知っている。そのために気候不順となり、1~2年寒冷な気候が続くのである。
「うむ、不足分に関しては他の総督府より余剰分を移送するようにな。それと……」
せわしなく指示を出している純正のもとに、近習が来訪者を告げた。
越後屋兵太郎(へいたろう)は越前の国敦賀の商人。蝦夷国との交易を主としている。鉄砲も商う。
組屋源四郎は若狭国小浜の商人。小浜湊の廻船問屋の筆頭。米買いからルソンとの交易も行う。
大脇(塩屋)伝内は美濃国稲葉山の商人。屋号の通り塩の売買で巨利を得ている。
玉越(たまき)三十郎は尾張国清洲の具足商人だが、信長の怒りをかって追放。京に本拠を移した。
楠見善左衛門尉(くすみぜんざえもんのじょう)は三河の廻船問屋筆頭。
角屋元秀は伊勢国松阪の廻船問屋。大湊発祥で、駿河国清水湊を本拠とした廻船業者。
田中清六は近江国の鷹商人。鷹商として奥羽に往来し、中央政権と奥羽諸大名との取次人として活動。
上林竹庵(かんばやしたけあん)は山城国宇治の茶商、製茶業に携わる。官途は越前守。通称又市。
末吉利方(すえよしとしかた)摂津国平野の商人。「平野屋」。廻船業。
蘇我理右衛門(そがりえもん)河内国五條の商人。銅精錬、銅細工。「南蛮吹き」を完成。
「おお、越後屋に組屋ではないか。他にも……。何人かは見知らぬが、代替わりでもしたか? 懐かしいのう。如何した?」
嘆願書を携えた十名の商人であった。
次回予告 第890話 (仮)『戦端』

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