第11話 横瀬浦の秘密 ~ 歴史改変と南蛮貿易の舞台~

 たった1年とはいえ、前世では戦国時代に南蛮貿易港としてにぎわった横瀬浦。

 確か史実では横瀬浦は大村領で、来年の永禄5年(1562年)、歴史のひのき舞台に姿を現す。現世ではそれさえもかなわないのか?

 横瀬が沢森領になったのは去年だけど、それまでは針尾氏の領地だった。このまま横瀬が開港しないと歴史に名を残さない。

 当然横瀬の焼き討ちも発生しない。

 ん? 待てよ。

 歴史書を紐解ひもとくと、永禄5年(1562年)の開港については書かれている。しかし、それまでの横瀬に関しては、どこを探してもない。

 古代の風土記に周辺のそれっぽい名前がでてくるが、それ以降の歴史にすっぽりと穴があいているのだ。

 戦国期の文献には当たり前のように、大村領だった・・・ていで書かれている。

 2つの仮説を考えた。

 1つは文献に載っていないだけで、以前から大村領であり、転生によって改変されてしまった説。

 もう1つは、本当の歴史でも沢森領であった説。これも文献はなし。

 なんらかの理由で・・・・・・・・、開港までに大村領になって、大村領内にある横瀬浦を開港した。

 1は科学的に証明できないが、2は文献に載っていないだけで、十分あり得る。俺の前世の記憶と文献に沢森家が出てこないのも納得できる……。

 何かが起こったんだ。やべえ、急にきな臭くなってきたぞ。

 俺の危機管理センサーがバリ3だ! (ふっる! わからない人はぐぐってね!)もう一度福田浦と長崎について考えてみた。

 横瀬浦焼き討ちのあと大村氏が選んだのは、小佐々領の西彼杵半島を南下して三重のよりも南にある福田浦。

 さらに南にある長崎にいたっては、大村氏から幕府に領有権が移ってしまったが、幕末まで貿易の窓口として栄えた。

 しかし共通するのは、どちらも外敵による襲撃を受けている、という点だ。

 福田浦は4年後の永禄八年(1565年)に、貿易航路の復活に失敗した松浦隆信から襲撃を受けている。

 そして長崎は、12年後の天正元年(1573年)に、70隻あまりの深堀水軍を率いる深堀純賢から襲撃を受けた。

 横瀬が襲撃を受けたのに、学習能力がないんだろうか? または対抗しうる勢力だったのだろうか? 

 小佐々氏家臣団がキリスト教に改宗するのは天正初期の1575年ごろだし、完全に家臣化するのは豊臣秀吉の海賊禁止令が発布される天正十六年(1588年)だ。

 だとすれば、航路の安全は自己責任、という感じになっていたとしても仕方がない。

 むしろ小佐々氏は独立勢力なのだから、南蛮船から金をとる側であれ、守る側ではない。

 うーん、これをうまく利用できないかな?

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