慶長九年一月六日(1604年2月6日) 諫早城
「殿下、お見事でございました」
「世辞はよい。何も特別な事はしておらん。いずれが国益に適うか、彼の地の繁栄につながるかを考えたゆえじゃ」
かつての南海のけん騒がうそのように、諫早城内は静けさに包まれていた。
マラッカ海峡に新たな秩序を打ち立てて、さらに冊封下にある他の東南アジアの有力諸国を八紘一宇に完全に組み込んだ純正は、休む間もなく次の盤面へと駒を進めている。
謁見の間として使われた大広間とは別の、政務を執る一室の壁には巨大な大陸の地図が掲げられていた。
純正はその前で腕を組み、考え事をしている。
日本は数十年の間に何十倍もの国土になったのであるが、アジアの恒久的な安定のためには、どうしても大陸は一強なしの複数国家状態が必須であった。
「官兵衛、北からの報告を」
背後で控えていた官兵衛が、分厚い書状の束を手に一歩進み出た。
「はっ。女真国、モンゴル両勢よりの知らせにございます。彼の地における火山の冬の及ぼしたる果(結果)は、我らがあらかじめ立てた見通しを、さらに上回る由々しき有り様となっております」
官兵衛は手にした書状の一枚を広げて、淡々とした口調で報告し始めた。
南米ワイナプチナの噴火から4年。
報告内容は純正が思い描いたとおりの、あるいはそれ以上に悲惨であった。
「続けて申し上げます。両勢の営みの糧とも言うべき馬草の地が、ことごとく荒れ果てた様にございます。夏は日の光足らず、冷えにより作物育たず、冬は常ならぬ寒さと大雪に見舞われました。そのため、家畜を養うための馬草が、いたく足りぬ有り様」
「……さもありなん。して助け舟は出しておろうの」
「は、両勢ともに生活に足る分のみを送っております。それでは足らぬ今少しと欲しておりましたが、韃靼(蒙古諸部族)が弱れば女真が、女真が弱れば韃靼が勢いづきますれば、厳しく見定めて処しましてございます」
女真は国として成立しているからまだしも、韃靼は部族の集合体である。
国力が持ち直したとしても、返って来るとは思えない。
「うむ」
日本は三者とは同盟を結んでいない。
結んでいるのは通商協定のみで、軍事協力は臨機応変に行ってきた。
今回はあくまで人道的な支援であり、アジアの盟主としての責務だと考えていたのである。
「そのため、ただ今は両勢とも互いに争いは止めております。韃靼は氏族の一統……いえ、そもそも乱妨狼藉を常とする民ゆえ、他の氏族の村々を襲って一統を図り、リンダンはもっとも勢いがございます。女真は国内をまとめておる由」
「さようか。いずれにせよそのまま続けよ。寧夏はいかがじゃ?」
沿海州から遼東、オルドス全域を統一する国ができるのなら、それはどっちでもいい。
ヌルハチにしろリンダン・ハーンにしろ、能力がある方が勝つ。
もちろん、現状維持でもいいのだ。
「寧夏においては、他の二勢とは異なる有り様を呈しております。元来が交易の要衝にて、火山の冬による失はあるものの、女真や韃靼と比べると軽うございました。むしろ、二勢の乱れによって西域との交易路を独り占めしております」
「ふむ……不幸中の幸い、であるな」
もちろん、寧夏への支援も行っていた。
寧夏の場合は女真や韃靼と比べて広大な領土を有している。
西は河西回廊から陝西省の北部と山西省、オルドス地方の南部と北直隷、遼東を除く山東省が領土だ。
女真は松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲。
韃靼はモンゴル平原(統治部分)とオルドス北部である。
「つまるところ、明の領土をもっとも多く得たのは寧夏であるな。ゆえにこれよりさらに大きくなるは危ういのう。引き続き助力はいたすが、調べを怠るな。直茂、お主の考えはあるか?」
純正に名を呼ばれて直茂が静かに顔を上げた。
戦略会議室長、筆頭の眼光は年の衰えを感じさせない。
「はっ」
直茂は頭を下げ、それから地図へと視線を向けた。
「官兵衛の知らせのとおり、寧夏は火の山の災いを逆手に取り、国力を蓄えておるのでしょう。女真と韃靼が互いに弱まる中、漁夫の利を得ておると言っても過言ではございません。これは、かの国の王が持つ商才の賜物であり、侮るべきではありませぬ」
実際には寒冷化によって北部(モンゴル高原)経由と南部(チベット高原北縁)経由が滞ったに過ぎないが、結果は同じである。
直茂は寧夏の現状を客観的に評価することから始めた。
「されど、殿下が仰せの通り、これ以上かの国が大きくなるは、帝国の利とはなりませぬ。富は力を生み、力は野心を生みます。今は我らに従っても、いずれ大陸に冠たる大国を築く夢を抱かぬとも限りませぬ」
「うむ。して、いかがいたす」
「はっ。拙速に寧夏の力を削ぐは、かえって大陸の釣り合いを乱す元となりましょう。弱りたりとて女真と韃靼がある今、寧夏もまた、彼らを用心し備えねばならぬ有り様。我らがすべきは、その三すくみの事様を保ちて用うるのが良いかと」
直茂は地図上の寧夏、女真国、モンゴルの位置関係を指し示した。
「子細を述べれば、寧夏が得ておる交易の利を、さらに我らが吸い上げる仕組みを作るべきかと存じます。寧夏は西域との陸路の交易でさまねし(膨大な)富を得ておりますが、富で何を買うか。つまるところ我らが作る鉄の品々であり武具であり、綿織物でございます」
「ふむ」
「それらの品は、我らが完全に統べる海路によって大陸沿岸の港に運ばれますれば、寧夏の商人は我らの港まで足を運んでは、言い値で買わざるを得ぬのでございます」
武力で抑えつけるのではなく、経済で縛り上げる策であった。
寧夏が陸路で稼げば稼ぐほど、日本が海路で運ぶ製品への需要が高まり、結果として富が日本に還流する。日本なしでは国家の近代化も軍備の維持もできないように、経済構造を完全に作り変えてしまうのだ。
「なるほど。経済の見えぬ鎖で縛り上げるのだな」
純正が直茂の策の本質を的確に言い表した。
「滅相もございません。共に栄える道を示すのでございます。ただ、富が最後に流れ行き着く先は、我らがしかと管理させていただく、と。それだけでございます」
「ははははは! 同じではないか」
言い方は違っても中身は同じなのかもしれない。
純正の鋭い要約に対し、直茂はあくまで体裁の良い言葉で返したのだ。
「加えてもう一点。彼の者が我らの思惑通りに動くか否かは、巨大な餌、すなわち明の存在にかかっております」
直茂の視線が、地図の中央、広大な明の版図へと移る。
「明が緩やかに弱り続ける限り、広大な領土は、三勢にとって『いつか手に入るやもしれぬ褒美』として十分に働きまする。特に、明と直に国境を接する寧夏は、常に南に備えねばならず、女真や韃靼へ全てを向ける事能いませぬ。女真と韃靼にしても、寧夏が明を併合して強大になる事を恐れるゆえ、互いに抑えあい我らの介入を求めるでしょう」
純正は不敵な笑みを浮かべながら聞いている。
「……釣り合いこそが、我らの策の要にございます」
直茂は、三勢力が巨大な死に体である明を前にしてにらみ合っている構図を説明した。
「さりながら、もし明が我らの見当を超える速さで崩れたならば、話は変わってまいります。地勢の図、地の利をもって考えれば、その国土を得るは間違いなく寧夏にございます」
純正の顔が険しくなった。
方針の転換が必要なのか?
そう考えているのだ。
「寧夏が南の米の大産地にまで完全に手中に収めれば、国力は女真と韃靼を合わせてもなお、しのぐやもしれませぬ。さすれば、我らが築いた三すくみの釣り合いは完全に崩れまする。栄えて強くなりし寧夏を前に、女真と韃靼が、我らに無謀な助力を求めてくるか、あるいは一か八かの戦を寧夏に仕掛けるか。いずれにせよ、大陸は我らの手には負えぬ大乱に陥りましょう」
「左衛門督様の懸念、まさにその通りにございます」
これまで黙って聞いていた官兵衛が、再び口を開いた。
次回予告 第925話 『二者択一』
南海の新秩序を確立した皇帝純正は、次なる一手として大陸に目を向ける。
火山の冬で疲弊する女真・蒙古を管理下に置きつつ、最大の懸念である寧夏国の強大化をいかにして防ぐか。
重臣・鍋島直茂は寧夏を経済的に支配し、大陸の三すくみを維持する策を進言するが、同時に明の急な崩壊が均衡を崩す危険性も指摘する。
そのとき、官兵衛の元に急報が――。
帝国の国家戦略を左右する知らせとは?

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