第438話 『顛末とこれから』

 慶応四年五月三日(1868年6月22日)

「申し上げます。禁裏御守衛総督屯所より、上使がお越しになりました」

 張り詰めた声が、部屋の静寂を鋭く切り裂いた。純顕が短く応じる。

「お通しせよ」

 初夏の陽光が障子を通して柔らかく差し込む中、大村藩邸の奥座敷には純顕と次郎が碁を指していた。

「禁裏御守衛総督よりの達しである。大村丹後守、太田和蔵人、表を上げよ」

 現れたのは慶喜の側近であった。

 一礼の後、懐から取り出した奉書紙を恭しく広げて読み上げたのである。

 命に従い、二人はゆっくりと顔を上げる。

「洛中火災の儀、その遠因が御家中の管理不行き届きにあったことは明白である。然れども事を隠蔽せず、潔く事実を申し出、その身を公儀に委ねた忠義の心、並びにその姿勢、総督はこれを深く評価されていらっしゃる」

 言葉は淡々としていたが、その内容は明確だった。

 まず評価すべき点を認め、相手の面子を立てる。

 慶喜一流の交渉術の気配を次郎は感じ取っていた。

 障子の裏で固唾を飲んでいた藩士たちの間に、押さえ殺したような安堵の空気が流れる。

「よって、これ以上の謹慎の用無し」

 まず告げられたのは赦免だったが、幕府が処罰したわけではない。

 そのため、これ以上は必要ないと通知したのだ。

 しかし次郎の表情は変わらない。

 本題はこの後にあること理解していたからである。

「されど、管理不行き届きは天下を揺るがす重大事。これを不問に付すことはできぬゆえ、厳に重く戒めるものである」

 室内の空気が再び引き締まった。

 罰ではないが明確な叱責であり、慶喜の本当の狙いが最後の言葉で明かされる。

「この儀を教訓とし、二度と斯様な事態を招かぬため、再び起こるを防ぐ策を講じるは当然の責務。よって御家中に対し、蒸気機関並びに電信、加えて『ガソリン』の如き重き技術の管理に関する法を作りて出す事を命ず」

 いわゆる『重要技術管理法案』とでも言おうか。

 その提出を求めてきたのだ。

 罰ではなく、責務。

 罰金でもなければ、領地削減でもない。

 未来への宿題として極めて政治的な形での決着である。

 純顕はその深意を測りかねて息をのんだが、ニヤリを笑った次郎の所作を見て即座に理解した。

 罰を科せば薩長や朝廷の一部が反発する。

 かといって無罪放免にすれば、幕府の威信が失墜するのだ。

 その両方を避け、なおかつ大村藩が独占する技術の管理に幕府が深く関与する道筋を作る。

 大村藩の技術を、法という新たな枷で幕府の管理下に置こうとする深謀遠慮の一手であった。

「謹んで、お受けいたします。総督の御高配、誠に痛み入ります」

 さて、オレたちはやるべきことをやった。

 お前らはどうする?

 ■御所

 香の匂いと冷たい静寂に満ちている内裏の広間で、慶喜は容保と定敬を伴って帝の御前に進みいでていた。

 大村藩への沙汰を伝えたのと時を同じくして、自らの監督責任を認め、帝に直接、事件の顛末を報告するためである。

 この迅速な行動こそが、政敵からの追及を封じ込める最善手だと、慶喜は判断していた。

「此度の洛中火災、その後の混乱につきまして、帝、並びに朝廷の皆様には、多大なるご心労をおかけいたしましたこと、誠に申し訳なく、臣ら三名、深くお詫び申し上げます」

 これは単なる謝罪ではない。

 幕府が、京の治安維持に対する全責任を改めて負うという宣言であり、薩長など幕府を揺さぶろうとする勢力への強い釘刺しであった。

「この先は洛中の警備の仕組みを大いに見直し、二度と帝のご宸襟を悩まし奉る事のなきよう、万全を期すことをここに固くお誓い申し上げます」

 慶喜の声は静かだが、御所の隅々までよく通った。

 まず自らの非を認め、謝罪する。その上で、大村藩の対応とそれに対する幕府の処置について、事実をありのままに告げたのである。

 大村藩に対しては正直に申し出た忠義を評価し、罰ではなく再発防止策の策定という未来に向けた責務を課したこと。

 それは幕府の寛大さを示すと同時に、これ以上事を荒立てようとする勢力への強い牽制でもあった。

「面を上げられよ。中将殿の迅速かつ誠実な対応、帝もご満足であらしゃいます。大村藩への処置も、寛大にして的確なものと拝察いたしましゃる」

 岩倉は冷静に場を収めた。

 同時に慶喜の巧妙な政治手腕への評価と、その裏にある底知れぬ野心への警戒が、その心に生じていたのである。

「幕府の責も重しとの考えを示した上は、朝廷としてこれ以上何を望もうか。重しは未来である。京の安寧のため、一層の尽力をお願いいたしましゃる」

 この言葉は、表面上は慶喜の対応を是とするものだった。

 その裏には、これ以上の無用な争いを避けて国力を疲弊させず、朝廷が主導する形で日本の未来への布石を打ちたいという岩倉の強い意志が込められていた。

 慶喜、容保、定敬の3人は、帝に深々と頭を下げ、静かに御所を辞した。

 その足音が遠ざかるにつれ、広間に満ちていた張り詰めた空気は、徐々に緩んでいく。

 中川宮は、不満げな顔で岩倉を振り返った。

「岩倉よ、あれでよいのか? 大村が幕府を差し置き朝廷に沙汰を委ねるなど、不届き千万にありましゃる。それを斯様に軽く扱うとは、幕府はむろん朝廷の権も軽んじられるのではあらしゃいませんか」

 激昂、ではない。

 彼もまた親大村藩ではあるが、いわゆる佐幕派であるために、その行為に違和感を感じたのだ。

 大村藩の行いは幕府の司法権を無視する行為であり、朝廷がそれを安易に容認すれば、幕府と朝廷の権威も共に揺らぐと考えたのである。

 しかし、岩倉は動じなかった。

 静かに中川宮を見据え、深遠な眼差しで答える。

「宮様。今ここで大村を不当に断ずれば、幕府との間に無用な亀裂を生じさせましゃる。慶喜は自らの非を認め、その上で大村に責を課しました。さらなる科罰を求めれば、ただ混乱を招き、ひいては異国の口入れ(介入)を招きかねません。それは、我らが最も避けねばならぬ有り様ではないでしょうか」

 岩倉は静かに語る。

 佐幕派も勤王派もここぞとばかりに相手を攻撃したいのだが、大村藩が当事者であるために迂闊に動けないのであった。

 ■加賀 金沢

「五兵衛よ、息災であるか」

「はい、お陰様を持ちまして、祖父の代とまではいきませぬが、ようやく食うに困らなくはなりました」

 金沢城内の一室で、御用商人となった銭屋五兵衛は藩主前田慶寧と会談していた。

「祖父が下した命とはいえ、先代の五兵衛には酷なことをした。家族も罪に問われて露頭に迷い、泥水をすする思いであったろう」

「いえ、とんでもない事でございます。斯様にお引き立てをきただき、祖父も父も、叔父上も、草葉の陰で喜んでいるでしょう」

 銭屋五兵衛。

 加賀の銭屋か銭屋の加賀か、とまで言われた豪商である。

 しかし、無実の罪で財産を没収され、一家離散の憂き目にあっていたのだ。

 長男の喜八郎は自殺し、三男の佐八郎は鎖国破りの罪で磔刑に処されている。

 今の五兵衛は喜八郎の息子であり、当主となって五兵衛を名乗っているのであった。

「琉球との取引はうまくいっておるのか?」

「はい、もう世の中は変わりましたゆえ、抜荷だなんだはございません。前のように薩摩の役人が間には入りますが、随分とやりやすくはなってきました」

「それは良かった。今後も藩のためにつくしてくれよ。アイヌや山丹交易にしても、今後は横浜や函館以外にも港が開かれていくだろうから、お主のような者が重きをなしてくるのだ」

「はは」

 五兵衛は居住まいを正して平伏した。

「ところで……」

「何じゃ?」

「あくまで風聞なのですが、気になる事を聞きました」

「ほう?」

「琉球の役人が、薩摩人ではない者と何やら親しげに話をしていた、と聞き及びます」

「何?」

 次回予告 第439話 (仮)『事件は迷宮へ、されど疑心暗鬼は深まり時は過ぎる』

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