慶長元年十一月十四日(1597/1/2)へトゥアラ
「なぜそこまで領土を広げる必要があったのですか? 日本だけでは足りなかったのですか? 倭寇は途絶えて久しいし、日本に攻め入る国もない。琉球や朝鮮と交易すればよかったのでは? 呂宋やアユタヤ、富春だけでも莫大な富になる」
肥前国の領土拡大の真の目的とは何だったのか。交易路の確保だけでは説明がつかない。
「確かにわが国の領土は広大です。だからといって、それは単なる野心からではありません」
純正は落ち着いて答えた。自らの歴史や肥前国がこれまで歩んできた道筋、その根拠を改めて確認し、少し間を置いてから続ける。
「我らが目指すのは、安定と繁栄です。明の圧力に苦しむ周辺国々を保護し、互いに協力し合える関係を築いて、この地域全体の平和を実現しようとしているのです」
「ですからなぜ平九郎殿――」
間髪を入れずにヌルハチは聞き返す。まるで純正の答えを予測していたかのようだ。
「あなたが……いや肥前国、さらに言えば肥前国と称する前からですが、それをする必要があったのですか? あなたは日本を統一する前、肥前国と称し大日本国を作るはるか前から南へ進出し、台湾島や呂宋に砦を築きました。さらに蝦夷地と呼ばれるサハリンの南の島まで手を伸ばし、いつの日かサハリンを領するまでになった。なぜですか?」
!
コイツはどこまでオレのことを、オレの歴史を調べているのだ?
純正はそう思った。
……しかし肥前国の拡大は、単なる野心からではない。
「おっしゃるとおり、我らは早くから海外進出を始めました。それは日本の安全と繁栄を守るためでした」
「ですから――」
ヌルハチはまたもすぐさま反論した。厳しくはない。ゆっくりと、だがはっきりと『ですから』と言ったのだ。
「なぜ平九郎殿が、それをする必要があったのですか? 日本の、とおっしゃいましたが、そのころは統一はおろか九州島も統べる前だと聞いています。さきほども言いましたが、肥前と呼ばれる一地方と筑前の一部を領有していたに過ぎないでしょう? 例えれば、余がスクスフ部を統一する前に朝鮮や琉球を心配し、そして明国を脅威に感じるのと同じことではありませんか。必要がない」
純正はかすかに寒気を感じ、深呼吸する。
ヌルハチの言葉は心の奥底を見透かすようだったが、馬鹿にするわけでもなく、大上段に構えてもいなかった。
「はい。当時の我らは小さな勢力に過ぎませんでした。大陸に住まうヌルハチ殿は知らないでしょうが、当時の大陸との交易は大きな変革の時代だったのです。明の海禁政策により正規の貿易が制限される一方で、倭寇と呼ばれる海賊たちが跋扈していました。この状況は、地域全体の安定を脅かしていたのです」
「なるほど……。そうであったのは同意します」
静かに同意したヌルハチだが、その表情からは純正の言葉を注意深く吟味しているのが伝わってくる。
「我らが台湾や呂宋、さらには蝦夷地へと進出したのは、この不安定な状況を打開するためでした。安全な貿易路を確立し、海賊行為を抑制して大陸沿岸から呂宋、九州沖までの安定を図ろうとしたのです」
「(ふっ……)」
声としては聞こえないが、ヌルハチは鼻で笑ったのか?
それすらも分からないほどのわずかな表情の変化であった。
「それは違うでしょう?」
今度はハッキリと断定した。
「蝦夷地は倭寇とまったく関係がありません。平戸にしても横瀬にしても、明の商人や満剌加(マラッカ)からの葡萄牙(ポルトガル)の商人と貿易をしたのでしょう? それに嘉靖の大倭寇を機に下火になっている。地域の安定ではなく、自らの権益を増やすためなのではありませんか?」
なんだコイツ! ?
それが純正の正直な感想であるが、もちろん表情には出さない。
ヌルハチは歴史上の偉人で史実では後金の初代ハーンであり、清の実質的な初代皇帝とされている。
その指摘は鋭く、的確だった。
巧妙に隠された女真国の密偵による肥前国の内情と歴史の調査が、国内外で幅広く行われていたのである。居酒屋でのたわいもない会話はもちろん、帰化して日本人の妻を持った女真族の密偵など、さまざまな経路から知らされていた。
その情報は商人経由で朝鮮をへてヌルハチのもとへ届き、再び新しい指令が肥前国へ送られる。
女真との交易はギオチャンガの時代からだが、情報収集は沿海州の割譲以降さらに顕著となった。
恐るべしヌルハチ。
純正は対外的な諜報活動に重きを置いていたが、女真の情報収集能力を甘く見ていたのかもしれない。情報省は国内・国外部門に分かれて業務を行っていたが、女真の密偵に関する情報は上がっていなかった。
いや、もしかすると関連する可能性のある情報は上がっていたのかもしれないが、些事として重要視しなかったのだろうか。
いずれにしても蝦夷地への進出や倭寇の衰退はごまかせない。肥前国の拡大には確かな理由があったはずだ。
純正は大きく息を吸い、話し始める。
「そうですね、蝦夷地と倭寇には直接的な関係はありません。しかし、我らの目的は単なる権益の拡大ではありませんでした」
「と言うと?」
笑顔の奥のヌルハチの鋭いまなざしが純正を捉えている。だが決して敵対的ではない。
「蝦夷地への進出はさらなる利をえるため。アイヌとの交易を通じて資金を増やし、それを元手に国を富ませてさらに強く、外敵に備えるためでした。南方への進出もそれにつきます」
ふむ、とヌルハチは短くうなずいた。
「外敵とは? 具体的には何を指すのですか?」
純正は考え込んだ。
じっくり、ヌルハチに揚げ足をとられないように、冷静に自分の過去を振り返ったのだ。
「外敵とは……はじめは松浦でした。次いで大村。そして龍造寺。次は大友に、その次は島津です。徐々に強大になっていく脅威にあらがうべく、こちらも強くならねばなりませんでした。それがために、さらなる交易による国力の増大を図ったのです。それには膨大な金が要ります。そこで交易によって得た金をさらに増やし、しかるべきところに金を投じ、さらに増やして領国を強くしていったのです」
「なるほど」
ヌルハチは静かにうなずきながら純正の言葉を聞いている。その表情からは、まだ何か考え込んでいる様子が伺えた。
ずいぶんと長い時間がたち、ようやくヌルハチは純正に問いかける。
「まあ……いずれにしても、それがいつのまにか膨れ上がり、これだけの広大な領土を治めるようになったと……。ではこれ以上、何を平九郎殿は望むのですか? 余があなたと同じ理由で自衛と繁栄のために豆満江沿岸に港と砦を築き、建州沿岸を治めても構わないでしょう? なんの不都合があるのですか?」
純正は即答できなかった。
次回予告 第835話 『建州沿岸と豆満江』

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