第425話 『決別か否か』

 慶応四年(明治元年)二月二十八日(1868年3月21日) 江戸城

「はて、それがしは何も話す事はございませぬ。次郎、そうであろう」

「は、はは……」

 次郎は、ここは純顕に任せた方がよいと考えたのか、相づちをうったのみである。

「安藤殿、中納言様、我らと話す事が何かおありでしょうか?」

 純顕は笑みをたたえ、言い放つ。

「丹後守殿(純顕)、いかがなされたのだ。もしや先ほどの我らの物言いに、なんぞ腹を立てる事でもあったのであろうか。政道を正し、あるべき元の姿に帰すとは申したが、貴殿の家中、大村家中は別でござる」

 信正は冷静を装ってはいるが、心中穏やかでないのは明らかである。

 純顕の言葉は、幕府のこれまでの体制への挑戦であり、同時に大村藩が今後、幕府の意向に必ずしも従わない可能性を示唆していたからだ。

 他の老中たちも、その含みのある言葉に固唾かたずをのんでいる。

 特に、次郎の技術外交によって得られる富と国際的評価が、幕府ではなく大村藩に集中している現状を思えば、純顕の発言はただの脅しでは済まされない。

「別? はて、我が家中と他の御家中、いかなる違いがあるのでしょうか」

 純顕は首をかしげてみせた。

 ふうっとため息をつき、しばらく考えて座り直す。

「大村藩は、我が国の技術と外交の要にございます。他の諸藩とは異なり、公儀にとってなくてはならぬ存在。ゆえに格別に遇して……」

「格別に遇して? これは異な事を承る。我が家中を御公儀の走狗そうく(猟犬)か何かとお考えにござろうか。加えて、他の御家中は何事にかあらん(どうでもいい存在)と仰せなのでしょう」

 純顕の声に冷たいものが混じった。

『他の諸藩とは異なり』との発言を逆手にとっての、断定した反論である。

 安藤信正の顔から、余裕の笑みが消え失せた。

 他の老中たちも、一様に戸惑いの表情を浮かべている。

 純顕の言葉は、単なる感情的な反発ではない。大村藩が持つ圧倒的な技術力と国際的なつながりを背景にした、明確な意思表示だった。

「丹後守殿、それは……」

 信正が何かを言いかけて口を閉じた。

 慶喜は表情を変えず、じっと純顕を見つめている。その瞳の奥に、わずかな苛立ちと、同時に純顕の言葉の真意を見極めようとする鋭い光が見えた。

「我が家中は、公儀の走狗ではございませぬ。御公儀の意向に沿い、国事に奔走してまいりました。それは徳川宗家への忠義と、この国を外敵から守りたい一心ゆえ。れど、これではまるで、『狡兎こうと死して走狗らる』の故事のままではございませぬか」

 純顕は、一つ一つの言葉に力を込めて言い切った。

 声は静かだが、部屋全体に響き渡る。次郎は、純顕の隣で静かに座って無言のままだ。

 宗家への忠義など、よく言ったと内心思っていたが、おくびにも出さない。

「丹後守殿、貴殿の心得違いにございます。打ち捨てるなどと、|然様《さよう》な考えは毛頭……」

「それがしの心得違いですと? ますます異な事を。我らは、御公儀の合議制への参加を命じられ、この国の行く末を真に議論を重ねてまいりました。それが、勅書一つで反故ほごにされる。これを心得違いと仰せならば、何をもって真と説かれるのでしょうか」

 純顕の追及に、信正は言葉を詰まらせた。

 他の老中たちは誰も発言しない。

「丹後守殿、朝廷より大政委任の宣旨を賜った以上、幕府の政道を旧来の形に戻すのは当然の成り行き。勅命にございますれば、逆らう事あたわず」

 慶喜が静かに口を開いた。

 その声は、将軍後見職としての権威を帯びている。

「なるほど、中納言様(慶喜)の仰せの儀、至極ごもっともにて、勅書に抗うつもりはありませぬ。然りながら、旧来の形が間違っていたゆえ、我らを含む合議制となったのではございませぬか?」

 現在の合議制は、島津久光の働きかけで発足したが、久光にそうさせるほど、幕府の権威は弱まっており、頼りなく思われていたのは事実である。

「そもそも、文政のみぎり(時)に発した打払令など愚策も愚策。和蘭オランダより逐一外国の有り様は聞き及んでいたはずにございます。にもかかわらず無為無策」

 ピーンと空気が張り詰め、静まりかえった場内で、純顕の言葉だけが響いている。

 あからさまに幕府の政策を批判しているのだ。慶喜や信正はもちろん、同席している幕閣はぐっと堪えていたに違いない。

「中納言様に伺いたく存じます。もし、我が家中がこれまで、一切御公儀の御政道に関わらねば、いかなる仕儀にございました(どうなっていた)でしょうか。今一度お考えいただきたい」

 純顕の声には、幕府への問いかけと、わずかな諦めが混じっている。

 これ以上の舌戦を望んでいないようにも見えた。

 大村藩が幕府の近代化にどれほど貢献してきたか、そしてその貢献が正当に評価されていない現状を、静かに、しかし明確に突きつけている。

 慶喜はその問いに即答せず、純顕をじっと見つめた。

 純顕の言葉の裏に隠された意図を探っている。

 大村藩の離反は幕府にとって、想像を絶する痛手となる。

 技術力、財力、そして国際的なつながりを失えば、幕府の近代化は停滞し、列強との差は再び開くだろう。

 それどころではない。

 列強からは、統一政権であるとの認識と信頼を失い、幕府の権威は内外ともに失墜するのだ。

 安藤信正は額に汗をにじませながら、慶喜と純顕の顔を交互に見る。

「丹後守殿……それは、あまりにも極まりし(極端な)物言いではありませぬか」

 信正は、声を絞り出した。もはや懇願にも似た響きがある。

「……では丹後守殿、貴殿の望みは何であろうか。江戸に参府したは何か提言があったのであろう?」

 それまで黙って純顕の発言を聞いていた慶喜が口を開いた。


「二百七十余藩と朝廷の御用掛による貴族院の設立にございます」

「!」

 純顕は慶喜の問いかけに静かに答えた。

 その言葉は突飛なようでいて、しかしこの場の全員が感じ取っていた時代の流れを、1つの形として提示しているかのようである。

「貴族院とは……いかがなる仕組みにござるか?」

 信正が、戸惑いを隠せない様子で尋ねた。

 貴族院という聞き慣れない言葉、そして二百七十余藩と朝廷の名に、従来の幕府の体制がどう結びつくのか、混乱しているのがわかる。

「文字通りにございます。朝廷より国事御用掛の皆々様、そして二百七十余藩の藩主、もしくは名代をもって議院を設けます。そこで国事、とりわけ外交や軍事、この国の行く末に関わる重き事を諮るのです」

 純顕は、次郎と事前に練りに練った構想の一端を明かした。

 単なる思いつきではない、現実を見据えたうえでの提案である。

「つまり……公儀の政を、諸藩と朝廷が共に差配すると仰せか?」

 慶喜の声が、わずかに低くなった。

 鋭い視線が、純顕に注がれる。将軍後見職として、また徳川宗家の当主として、彼の胸中には複雑な思いが交錯しているに違いない。

 幕府の権威衰退への危機感、しかし同時に、もはや幕府単独ではこの国を治めきれない現実がある。

 従三位権中将が従四位下丹後守に配慮しているのだ。

 慶喜の純顕に対する言葉が『申すのか』ではなく、『仰せか』なのが、それを如実に表している。

「さようにございます」

 純顕は慶喜の視線から逃げず、まっすぐ答えた。

「然れど、それでは公儀の権を損ないましょう。大政委任の宣旨を賜ったばかりにございますぞ」

 信正が幕府の立場を慮るおもんぱかるように言った。

 幕臣としての忠誠心と、幕府体制の維持への強い思いが表れている。

「御公儀の権を損ないませぬ」

 純顕がきっぱりと答えた。

「徳川宗家は、依然として武家の棟梁とうりょうとして重きをなして尊ばれます。然れど、御政道は議会の議決により決めるべきにございます」

 慶喜が深く考え込んでいる様子を見て、純顕は続けた。

「中納言様(慶喜)、このたびのパリでの技術外交も、我が家中のみでは成し得ませんでした。御公儀の権と我が家中の技術力、そして諸藩の協力があってこその成果でございます」 

 ここで言う公儀は江戸幕府のことだが、本来公儀は公の儀で、それを執り行う政府のことである。

「中納言様、恐れながら申し上げます」

 次郎はこの瞬間まで沈黙を保っていたが、ついに口を開いた。

 慶喜が次郎に視線を向ける。

「フランスを筆頭とする諸外国は、我が日本を、まとまりし一つの国と見なしておりまする。彼らが望んでおりますのは、諸藩がてんでに事を構えるのではなく、公儀による、ただ一つの政府なのでござる」

「それは……」

 信正が言いかけたが、次郎は続けた。

「ただ今の技術協定も、我が国が統一政府である前提として締結しております。もし政治の乱れが生じれば、これらの協定も危うくなりかねません」

 慶喜の表情が険しくなった。

 確かに、諸外国からの信頼を失えば、苦労して築いた国際的地位も水泡に帰す。

 わかりきったことだ。

「もし、否とするならば?」


「何もいたしませぬ。先ほど申し上げたとおり、我が家中は今後一切政には口を出しませぬ」


 ――数時間後。

「殿、よろしかったのですか?」

「構わぬ。わしは建言したのみ。容れられずば、おとなしく大村を動かねばよいのだ。次郎、お主は松前に向かえ、家老の勘解由殿とは昵懇じっこんであろう?」

「は、それは確かに。まさか、殿……」

 わはははは! と純顕は笑った。

 決して心身壮健ではないが、こういうときの純顕は妙に豪胆に見える。

「なに、万が一の事を考えてじゃ。軽挙妄動はせん。わしはこれから尾州へ参る」

「! 大納言様(徳川慶勝)のもとにございますか?」

「うむ。横浜から藩営の……ああ、大浦屋へ払い下げたのであったな。連絡客船が出ていたであろう。あれに乗ってゆく。その後加賀、福井、大阪から土佐、宇和島、長州、佐賀、鹿児島と参ろうかの。頼むぞ」

「御意」


 次回予告 第426話 (仮)『幕閣と純顕と次郎、北へ南へ』

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