慶長四年十一月十六日（西暦1600年1月2日） 岐阜城
「馬鹿な！ 目通り叶わぬだと！ 貴様、わしが浅井備前守と知ってのことか！ 義兄の見舞いもできぬなど聞いたことがないわ！ 今一度とりつくのだ！」
浅井長政は、怒りを露わにした。しかし、城兵は冷静だった。
「御容赦くださいませ、备前守様。上様は病に臥せられており、今は誰も……」
「然様な事は貴様に言われずとも知っておる！ なればこそ先触れを出し、腕木にて重ねて知らせたのだ。この上目通り叶わぬなど、わしを愚弄しておるのか！」
長政は言葉を失った。
どうにも様子がおかしい。
義兄である信長の面会も出来ないとは。
それほどに悪いのか？
長政の脳裏に不安がよぎった。
「おや、これは备前守様、いかがなさいましたか？」
「おお、これは十左衛門殿ではないか、いやいや、何とかしてくれぬか。義兄上にお目通りならんと、この者は融通がきかずに難儀しておったのだ」
所用で通りかかった武井十左衛門に長政は声をかけた。
「これは……備前守様、誠に申し訳ございません。実は、上様は伏せたままでございまして、侍医によれば何人たりとも目通りは控えるようのとの事」
十左衛门は困ったような表情を見せたが、どこか決まりきった話しぶりで、立て板に水のように話している。
「目通りならぬと？ 然程に重いのか？」
長政は驚いた。
「はい。備前守様といえども、同様でございます。それに今は眠っておられまして……」
十左衛門は言葉を濁した。
「もし上様がお目覚めになり、病状を見て問題なければ、目通りも能うかと存じますが……」
「然様か……ならば致し方あるまい。それまで待たせてもらおう」
長政はしぶしぶであったが、納得するほかなかった。
しかし、その時――。
城内の廊下を歩いてくる人影が目に入った。
小佐々家の七つ割平四つ目の家紋をつけた医者らしき男だった。
「もし、お医者様」
長政は声をかけた。
「はい、何でございましょうか？」
振り返った男は、50過ぎと思われる落ち着いた風貌の医師である。
「それがしは浅井備前守と申す。貴殿は上様の侍医でいらっしゃるか？」
「ああ、これは備前守様、ご挨拶が遅れました、拙者は小佐々家中の医師、野間弦斎と申します。こたび、殿下の名を受け、上様の侍医となり申した」
弦斎は丁寧に頭を下げた。
「肥前州では戸塚雲海の同輩にて、諫早より参りました」
「戸塚殿の……それは心強い」
長政はホッと胸をなでおろした。
戸塚雲海は能登畠山氏の侍医として、その名を畿内にとどろかせていたのである。
「して、義兄上の病の様はいかがであろうか？」
「確かに重篤ではございますが……」
弦斎は慎重に言葉を選んだ。
「面会をお受けできないほどではございません。立会いのもとならば、入室も能うかと存じます」
「何と？」
十左衛门の説明と食い違っているではないか。
「弦斎殿、それでは義兄上との目通りを願えるか？」
「はい。拙者を立ち会わせていただければ、障り（問題）ございません」
弦斎は確信を持って答えた。
「然れど、あまり長くの目通りは避けていただきたく存じます」
「承知いたした。では、頼む」
長政は弦斎に案内され、信長の寝室へ向かった。
「城兵の者が面会謝絶と申しておったが……」
「それは恐らく、家中の方々がいらずらに案じて（過度に心配して）のことかと存じます」
弦斎は慎重に答えた。
自分はあくまで小佐々家家中の者。
他家である織田家中のことを、あれこれ詮索すべきではないと考えての事である。
「確かに重い病ではございますが、意識もはっきりしておられますし、短時間の面会であれば問題ございません」
信長の寝室は薄暗く、線香の香りが漂っていた。
床に臥せる信長の姿は、確かに痩せこけていたが、目に力があった。
「おお、備前守か……よくぞ来てくれた……」
四半刻（30分）ほど待った後に起き上がった信長の声は弱々しかったが、長政を認識していた。
「義兄上、お加減はいかがですか？」
長政は信長の枕元に座った。
「まだ……死ぬわけにはいかぬ……」
信長は苦しそうに答えた。
「信忠がいなくなって……織田家の行く末が心残りでならぬ……」
「お二人のご子息様は立派に成長されております。案ずるには及びません」
「然様か……それは良かった……」
信長は少し安心したようだった。
しばらくして、意を決したように長政に告げる。
「義弟よ……頼みがある……」
「何でございましょうか？」
「もし……もしワシに何かあったら……信秀と信則を頼む……」
信長は必死に言葉を絞り出した。
「まだ若い……家中をまとめるには……験が足りぬ……」
「義兄上、然様な弱気なことを……」
長政は慰めようとしたが、信長は続けた。
「備前守……平九郎の事をどう思う……？」
信長は突然、核心的な質問をした。
純正と二人きりのときしか『平九郎』と通称では呼ばないが、敢えて言ったのだろうか。
「殿下の事でございますか？」
「平九郎の政道……ワシは……受け入れると約した……然れど……」
信長の目には不安の色が浮かんでいる。
「家中には……反対する者も多い……」
「義兄上のお考えをお聞かせください」
「ワシは平九郎を信じておる……あやつの政策は……民のためになる……長政……お主はいかが致す？」
信長は長政を見詰めた。
「平九郎に従うか……それとも……」
「それがしは……義兄上のお考えに従います」
「そうか……ありがたい……」
信長は安堵の表情を見せた。
「頼む……織田家を……正しい道に導いてくれ……」
面会を終えて部屋を出た長政は、複雑な心境だった。
信長の真意は純正への支持だったが、家臣団には反対勢力も多いようだ。このままでは、織田家は分裂してしまうかもしれない。
一方、岐阜城の別室では、織田家の重臣たちが集まっていた。
「皆の者、集まってもらって済まぬ」
奥田三右衛門（直政）が口火を切った。
「ご承知の通り、中将様のお体が思わしくない。万が一の事があれば……」
「然様な縁起でもない事を仰せにならないでください」
「然れど、現の様を見て（現実的に）考えておかなければなるまい」
蒲生忠三郎（氏郷）が制すと、堀久太郎（秀政）が冷静に言った。
「もし上様に何かあれば、三郎（信秀・史実の織田秀信）様が織田家の当主として、家を引っ張っていかなければならない」
「然り」
久太郎が頷いた。
「信秀様はまだお若い。我々がしっかりと支えなければならない」
「然れど家中の考えがまとまっておらぬのは、このさき障りとなりましょう」
忠三郎が指摘した。
「十左衛門殿（武井）や三左衛門殿（柴田勝政・43歳）は、殿下の政策に反対している」
柴田勝政は勝家の養子で家督を継いでいる。
十左衛門が内政は外交（他州との折衝）を取り仕切り、勝政は治安維持や、いわゆる軍事面で権力を握っていた。
勝政は秀政らと同世代ではあったが、父親の勝家が存命なため、織田家中で随一の派閥だったのである。
堀秀政や奥田直政、蒲生氏郷らの肥前遊学組は各分野に分散して活躍しており、糾合すれば対応勢力となりえたが、不安要素は多い。
「一方で、我らは殿下の御政道を推し進めておる。上様の真意を殿へ伝えし、正しい判を下していただかねばならん」
「同じく」
久太郎（堀秀政）の提言に忠三郎（蒲生氏郷）と三右衛門（奥田直政）が同時に答えた。
「織田家を正しい道に導くために、我々も全力を尽くそう」
三人は決意を新たにした。
「おかしい。なにゆえだ……」
信長の寝所から居室に戻った弦斎は、診察の記録をみながら考え込んでいた。
次回予告 第883話 （仮）『寿命と病状と織田家中』
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