第921話 『マラッカの波紋』

 慶長八年九月十二日(西暦1603年10月16日)

 16世紀の東南アジアでは、明朝の冊封体制から脱却し、朝鮮や琉球につづいて新たに日本の冊封下に入る国家が増加していた。

 ベトナムにおいては、北朝(莫朝)を滅ぼした鄭氏一族の東京国、阮氏広南国ともに日本からの冊封を受けている。

 ラオスにおいてはビルマ(タウングー朝)からの独立を果たしたラーンサーン朝が早々と冊封国となった。

 またタウングー朝もその再建のために冊封下に入り、対立するアユタヤは独立を維持しつつも、半冊封状態である。

 ジャワ島にあったマタラム王国は日本との交易によって富を得て、中部から東部へ勢力を伸長するも、結局日本の経済圏に組み込まれて冊封国となった。

 他の多くの王国も同様で、カリマンタン島のブルネイ王国しかり、スラウェシ島のゴワ王国しかりである。

 ■喜望峰

 日本領の港湾都市は、緊急の場合を除いて寄港地が定めされている。それは日本からの通信船の寄港地と純正の艦隊の寄港地を同じくするためであった。

 日本からの定時報告はその寄港地を経由していき、例えば今回の事例では、純正がポルトガルにいる(向かっている)ときはポルトガルに集約される。

 反対に復路の場合は、純正が寄港したらすぐに出航予定と到着予定を確認して次の寄港地に向かう。

 例えばマディラなら次はカーヴォヴェルデである。

 ポルトガル領内も同様にしていた。

 連絡船はその先の寄港地で、純正もしくは日本からの通信船が来るまで待機して、通信船に待機か出航してマディラまで向かうかの指示を出すのだ。

 明らかに間に合う場合を除いて、日本からの通信船は現場待機である。

 喜望峰のアフリカ総督府の一室は、紙の束が立てる乾いた音だけが響いていた。

 日本から1ヶ月ごとに高速通信船がもたらす報告書に、純正は静かに目を通している。

 傍らには純勝が控え、父の表情をうかがっていた。

 国内の『火山の冬』対策は順調に進んでいる。

 フレデリックの予想通りなら、今年、遅くとも来年には終わる。

 想定の範囲内の報告であった。

 だが、次の報告書に目を通した瞬間に純正の動きが完全に止まった。

 それまで規則正しくページをめくっていた指が、止まる。

「……平十郎」

「はっ」

「これを読め」

 純正は、指で押さえていた書類を静かに純勝へ渡した。

 純勝の顔色が変わる。

 一読して息をのんだのだ。

「ジョホール王国が……冊封と同時にマラッカ奪還の支援を……?」

 その一文が持つ意味の重さに、言葉が続かなかった。

 純正はゆっくりと顔を上げて純勝の目を見た。

「全員呼べ」

 総督室に会議室の面々が集まった。

 広げられた東南アジアの海図の中央、交易路の心臓とも言える場所にマラッカは位置している。

「馬鹿な。ポルトガルは我らと血をもって結んだ同盟国ぞ。その最大の拠点であるマラッカを攻める手助けを、我らに求めるとは」

 純勝が、怒りを隠せない声で言った。

「ジョホールの悲願は分からぬでもないが、あまりにも筋が通らぬ」

「殿下、お待ちください」

 直茂が静かに制した。

「この動き、おそらくは今に始まった話ではありますまい。マラッカ奪還は彼らの悲願でございますゆえ」

 ポルトガルは日本とオランダから技術供与を受けて、教育制度の改革にも取り組んでいるが、風待ちと補給を考えれば本国からの指令は1年はかかる。

 4年前に締結された肥前国ポルトガル王国相互防衛条約は、大日本帝国となっても継続されていたが、婚姻同盟やセバスティアン1世による枢機卿の粛清・改革は知らないのだ。

 そのために地方の総督の権限が強い。

 マラッカは本来、その名の通りマラッカ王国の領土であったが、97年前にポルトガルが制圧して根拠地としていた。

 何度も奪還を試みてきたが、結局なし得ていないのである。

 そのマラッカは過去に高い関税や貿易上のさまざまな制約を嫌悪されて、商人はバンテン王国のスンダ海峡を利用するようになり、衰退していったのだ。

 しかしポルトガルは日本と同盟をくむことで、バンテン王国の勢力が弱まるのと並行して関税を見直し、かつての栄光を取り戻している。

 アジアの商人は日本・ポルトガルの庇護下にあり、オスマン帝国のムスリム商人はインド洋交易から撤退していた。同じムスリムでもムガル帝国やヴィジャヤナガル王国の商人は別である。 

「なるほど……そうか」

 ジョホール王国は隣国のアチェ王国と共同してマラッカを奪還し、共同統治を考えているのである。

 アチェ王国はスマトラ島で日本が入植してない地域であり、海峡を両岸から支配しているために、辛うじて権益を保っていた。

 スンダ海峡の利用者は減ったが、ジャワ島からティモールの島々の間を抜けてインド洋に向かうのは危険も伴ったからである。

 これは、外交の駆け引きなどという悠長な話ではない。

 緊張が走った。

 大日本帝国(以下日本)が東南アジアの覇権を確立して以来、巧妙に維持してきた勢力均衡に異を唱える動きであった。アチェとジョホール、2つのイスラム国家が連携してマラッカ海峡を抑えようというのである。

「ジョホールだけではない。アチェまでが絡んでおるのか」

 純正の低い声が総督室に響くが、純勝は理解不能な様子で口を開いた。

「されど全く解せませぬ。父上。彼の国も、我らとポルトガルが同盟にあるのは知っておるはずにございます。その我らに同盟国を攻める手助けをしろと? 狂気の沙汰です。一体、何を考えているのです」

 当然の疑問に誰もがうなずいた。

 軍事的な脅しとしても、外交的な要請としても、あまりに現実味がない。

「殿下。それがしは……おそらく、彼らは本気で我らが軍を送るとは、考えておりません。そしてこれは、狂気の沙汰でもございません」

 沈黙を破ったのは、鍋島直茂である。

「……いかなる事だ?」

「これは、戦の求めにあらず」

 直茂は、海図上のマラッカを指でなぞりながら続けた。

「これは、裁定を求める訴状なのではないでしょうか。アチェはともかく、ジョホールは冊封をも申し出てきておりますゆえ」

 純正の目が鋭く光った。

「訴状か。……続けよ、直茂」

「はっ。かつてのバンテン王国がそうであったように、マラッカ海峡の沿岸には、マラッカ以外にも無数の交易港がございます。ジョホールもアチェも、そうした港からの上がりで国を成り立たせておりました」

「うむ」

「これは、戦の求めにあらず。裁定を求める、悲痛な訴状にございます。障りは軍事ではなく、|財持振業《たからもちふるわざ》(経済)にございます。我らとポルトガルは、マラッカ海峡における交易を安んじ栄えさするため、合力して参りました」

「しかり、さりとて我らがマラッカで贔屓にされて、なにゆえ他の港が立ち行かなくなるのだ。他の国の商人には常の税ゆえ、関係あるまい」

 純正の問いに、直茂は深くうなずいた。

「陛下の仰せのとおりにございます。されどポルトガルはさらに大きな絵を描いております。彼の者らはマラッカの帆別銭を、我らだけでなく全ての国の船に対して、他のどの港よりも低く設定しているのです」

「……何だと?」

「無論、我らはさらに遇されております。されど元となる分そのものが、ジョホールやアチェの港とは比べられぬほど低い。加えて我ら帝国海軍が、マラッカの安全を保証しておりますれば、 商人たちがマラッカに集まるのは道理にございます」

 純正は、何も言わなかった。

 帝国の基本方針は自由貿易だ。

 国益に反しなければポルトガルの政策に介入しても意味がない。

 ポルトガルはマラッカを一大拠点とするためにそうしたのだ。

 折しも日本の軍事的な保証が組み合わさった結果、市場の原理そのものがマラッカ以外の港を緩やかに絞め殺している。意図せざる、しかし必然の結果であった。

「つまり、彼の者らは追い詰められたのです」

 と直茂は結論づけた。

 このままでは国が滅びる。

 そう考えたアチェとジョホールの両国は、マラッカの領土と権益をジョホール、アチェは特権を条件に共同戦線をはることになった。

 そこで持ち出したのが、日本の大義である八紘一宇である。

 共存共栄の理念を逆手に取って、最も解決が困難な、そして最も象徴的な『マラッカの返還』という形で、日本に要望を出したのでだ。

「我らに、ポルトガルへ圧力をかけろ、と。そういうことか」

 純正の目に、決断の光が宿った。

「長政、直ちに官兵衛へ返書を。使節団は丁重にもてなし、彼らの窮状を『親身に』聴取せよ。彼らの訴えに『理解を示す』のだ。だが、回答はオレの帰国を待てと伝えよ」

「ははっ」

 南海に一波乱おきそうな予感であった。

 次回予告 第923話 (仮) 『ジョホール王国とアチェ王国』

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