第463話 『慶喜の奇策』

 慶応五(明治二)年二月十五日(1869年3月27日)




 ――議会が認めたなら、それで構わぬ。




 江戸から戻った慶喜の答えは、次郎の予想に反してとても単純であった。

 天領の議会管理も、幕閣の門戸を大いに開く提案も、議会の承認があれば認めるらしい。

 場所は二条城の一室である。

 純顕と次郎は慶喜を前に座っていた。

 慶喜の顔には疲労の色がなく、むしろ鋭い眼光が宿っている。それは、長旅の疲れを打ち消すほどの、強烈な自信の表れであった。
 
「六衛督殿、左衛門佐。上様はこう仰せられた」

 慶喜の声が張り詰めた部屋に響く。

「徳川家は二百五十年の長きにわたり、日本を治めてきた。それは、私利私欲のためではない。常に公のために尽くしてきたからである。さらばお主の言う『公の議会』が真に日本の進むべき道だと認めるならば、徳川もその議定(議決)に従おう、と」

 慶喜は、家茂の言葉を伝える体で次郎と純顕に圧力をかけてきた。

 徳川は公のために立ち、その証として次郎の提案を議会に委ねる――。

 もし否決されたならば、それは徳川の支配が公然と認められた証拠となるのだ。

 次郎は静かに慶喜の言葉を聞いている。やはり慶喜の狙いは交渉の継続ではなく、次郎が作り上げた土俵での決着であった。

 これで次郎が敗北すれば、大義名分が完全になくなるに等しい。

「ゆえに、左衛門佐。そなたの提じた二つの議案、貴族院に正式な議題として上程する。名付けて『公儀御料所管理法案』と『幕府除目じもく(人事)開放法案』である。……議長、無論異論はなかろうな」

 慶喜は次郎の顔をじっと見つめている。

「お主は公の場である議会を重んじてきた。ならばこの案を拒むは、自らの信念を否とする行いとなろう?」

 慶喜の言葉には、次郎の動きを完全に封じる意図があった。

 次郎がここで拒否すれば、議会制をただの駆け引きの道具として使おうとしたと見なされる。諸|藩《はん》からの信頼は地に落ちるだろう。

 純顕は内心、慶喜の計算の高さに驚いていた。

 この2つの議案は、現状の貴族院では否決される公算が大きい。徳川に追随する公議政体党の勢力に加え、急進的な変化を恐れる中小藩が反対に回る可能性が高いからだ。

「中納言様、それは……」

 純顕が口を開きかけたが、次郎がそれを制した。

 次郎はゆっくりと呼吸を整える。

「中納言様のありがたきお言葉。これ以上の公正は望むべくもございません」

 次郎は落ち着いた声で答えた。

「確かに、そのとおりにございます。この国のあるべき姿を決めるのは、特定の家や特定の人物ではない。全ての藩の合議、すなわち議会に他なりませぬ。我らの案を、公の議題としてお取り上げくださる事、心より感謝申し上げます」
 
 次郎の言葉に慶喜はわずかに目を見開いた。

 次郎がこれほどあっさり受け入れるとは思っていなかったのだろう。

「即座に議会の招集を進めよう」

 慶喜は続けたが、このままでは次郎にとっては極めて厳しい戦いになる。貴族院における多数派工作が、日本の未来を決定づけるからだ。

 大村藩を中心とする日本公論会は、薩摩や長州の議会離脱により、徳川の公議政体党より若干少ない。

 しかし議案が議会に上程されれば、いずれにしても、中立を保っていた諸藩は明確な態度を示さなければならなくなるのだ。

「中納言様。一つ、お願いがございます」

 次郎は静かに慶喜に切り出した。

「かかる国家の根を揺るがす議案は、本会議での採決の前にしかるべき場を設け、そこで詳細な審議を尽くすべきと存じます。つきましては『公儀御料所詮議方』および『幕府除目詮議方』を設け、財政を司る勝手方の者、政務を司る家老職の者など、それぞれの実務に通じたる者を交え、利害得失を明らかにしたく存じます」

 次郎は慶喜が掲げた大義名分、『公正な議論』を逆手に取った。

 幕府の評定機関を思わせる詮議方の名称を用いれば、慶喜もその正当性を正面から拒否はできない。

 次郎はさらに続ける。

「その備えのため、少なくとも一月は猶予をいただきたく存じます」

 次郎は時間を稼ごうとした。

 多数派工作のためだけではない。

 詮議方、すなわち委員会形式の場で改革案の合理性をデータと共に説き、諸藩を説得する時間が必要であった。

 慶喜の眉がわずかに動く。

 審議の場で徹底的に戦うために時間と場所を要求する――。

 次郎のその狙いを慶喜は正確に理解した。ここで詮議方の設置を拒否すれば、徳川が議論を恐れていると見なされかねない。

「……良いだろう。詮議方の設けを認めよう。されど、議論の紛糾を由として決をいたずらに先延ばしにしてはならぬ。詮議方の審議も、始めてから一月以内とする。その後、速やかに本会議で採決する。それでよいな」

 慶喜は審議に期限を設け、次郎が意図する時間稼ぎに歯止めをかけた。

 こうして、採決に至るまでの審議の進め方自体が、両者による最初の攻防となったのである。

「は。ご高配痛み入ります」

 次郎が静かに頭を下げると、慶喜は冷ややかな笑みを浮かべた。

「その期間に藩論をまとめるのは、そなただけではない。徳川もまた、全力をもって議会に臨む。左衛門佐、お主の理想と、徳川が築いてきた秩序。どちらが、この国に真に必要か、議会の場で天下に知らしめてやろう」

 慶喜は立ち上がらんばかりの勢いで次郎に言い放った。

 その目には交渉を打ち切り、次郎の力を公然とそぐ強い意志が宿っている。

「六衛督殿、左衛門佐殿。お引取り願おう。これより、一月後の議会再開と、両議案を議題とする旨の布告を、全藩に通達する手筈てはずを整える」

「 「はは」 」




 次郎と純顕は二条城を後にした。




「次郎。あの条件は、あまりに苛烈すぎる。多くの藩が反対に回るであろう。中納言様もそう考えているはずだ。いかがする?」

 純顕の言葉は切実であった。

 武力衝突を避けるための最後のとりでである議会で、もし徳川に決定的な勝利を許せば、目指す議会制民主主義が遠のいてしまう。

「こたびは徳川との言による戦となります。中納言様の狙いは我らの改革案を公的に否とし、徳川の威光を再び取り戻す事にございます。そのために、全ての力を注いでくるでしょう」

「されど勝ち筋はあるのか」

「たやすくはございません。さりながら、むざむざ負けはしませぬ。兵は詭道きどうなり。その無備を攻め、その不意に出づ、と申します」

「ほほう? その顔から察するに、策があるとみえる」

「いずれにしましても、全力を尽くしまする」




 次郎は目を開き、前を見据えた。




 一方、幕府の対立勢力である薩長さっちょうの武力倒幕の動機は、4つの要因が複合した『権力闘争』に変化していた。




 ・大村藩への対抗心
 技術力(蒸気船、電信など)と政治力(議会主導)の両面で圧倒的な大村藩に対し、強い危機感と焦りがある。

 ・幕府への不信感
 徳川幕府が時代に対応できるとは考えておらず、平和的な改革案も徳川家の延命策に過ぎないと疑っている。

 ・主導権争い
 このままでは新しい政治体制で大村藩に従属すると考え、武力によって主導権を確保しようとしている。

 ・時間的な焦り
 議会制度が本格化すれば、武力蜂起の正当性も機会も失われてしまうとの強い恐怖感がある。




 これらの理由から、仮に平和的な解決の道が見えていても、武力討幕を目指す藩論となっていたのだ。




 次回予告 第464話 (仮)『一票の行方』

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