天保十三年一月二十五日(1842/3/6)
砂鉄と鉄鉱石をどう調達するのかに関しては協議を続けるとして、再度入念に領内を調査することとなった。
次郎が帰宅した際にお里が領内の他の候補地を教えてくれた事と、編纂途中の大村郷村記を再度見直すと、鉄鉱山に関する記述がみられたからである。
『延宝五年(1677)萱瀬山で鉄が採掘されたので、出雲より八郎右衛門という者を呼び、大村の池野平右衛門とともに筑前から砂鉄を取り寄せて鉄の精錬が行われた。しかし、利益を上げることができず、延宝七年に中止された』
<次郎>
採掘が中止されたのは、おそらく産出量が少なくて加工販売しても売り上げが追いつかなかったんだろう。でも今回のケースで採算ってなんだ?
そもそも鉄鉱石を大砲や銃なんかの鉄製武器にするための採掘だろ? この場合の採算って、他より先により多く、より良質の鉄を作る事なんじゃないのか?
これ自体は金にならない。
いや、潤沢に産出するなら他にも生活用品に加工して販売価値があるだろうが、そこは優先順位は低い。不採算事業として、他の事業で穴埋めするか。
・石けん
・椎茸
・捕鯨
・あ、あと塩だ! 塩を大規模に作れんかな?
他領から買うにしても、大量の鉄だぞ? それこそ幕府に目をつけられる。いや、アヘン戦争のさらなる経過が今年のオランダ風説書と別段風説書で2年分明らかになる。
そうなると、確か各藩に対して大砲の鋳造や軍備増強に対して規制が緩和されるから大丈夫か。
でもどっちにしても、年間の産出量が大砲1門分とかなら論外だな。採算以前の問題になる。
163年前の採掘方法で無理でも、今の方法なら? いや、待て待て待て。先生の蔵書からは主に製鉄と軍備中心の本ばっかり借りていたけど、鉱山の採掘技術は?
出雲から呼んだなら、おそらく日本古来(南蛮渡来だったかもしれないが)の技術だろう。お里は採掘技術も専門なんだろうか?
どっちにしても先生には、蔵書はなんでも借りて読んで良いって言われているから、長崎にいる門人に言って借りよう。
・萱瀬村
・上下波佐見村
・大串
・戸根
以上が候補地だ。
■二月十日(3/21) 玖島城
「こちらに書きましたように、鉄に関しましては領内にいくつか候補地がありますゆえ、調査と試掘の後に採掘に入ろうかと考えております。その際はオランダ式の技術を用いて……」
製鉄は藩の一大事業のため、次郎は産地に関する見解と今後の方向性の報告に登城をしていた。幸いにして、秋帆の蔵書の中に採掘術に関するものがあったので話は早かった。
「いかほど採れようか」
「は。それにつきましては確たる証はございませぬ。いずれにしても売買を目的にしてはおりませぬゆえ、この採掘事業に関する費用の一切は、他の事業からの利益を転用する他ありませぬ」
「あいわかった」
■二月十八日(3/29) 次郎邸
次郎は殖産方、いわゆる産業の総合監督のため、今でいう在宅ワークである。登城しなくていいという藩主純顕の厚意によって成り立っている。
次郎自身ものびのびやれるので楽と言えば楽であった。
お里と一之進も同じように自宅(自室)で仕事をしているのだが、一人信之介だけが、川棚と城下の自宅を行き来しているのだ。
精錬方の責任者なので仕方がない。
製鉄から大砲鋳造、ひいては造船などの科学(化学)技術研究の総合施設となっている、川棚川河口流域がその職場である。
もともと川棚浦は海運によって栄えていて、燃料となる石炭も海運によってすぐに製鉄所にまわせる事が、条件を満たしていたために選ばれたのだ。
「えーっと塩田は確か今、川棚・宮村・時津・長与・大串で、やり方は入浜式か。大村湾は干潟が多いから塩田には適しているからな。でも干満差が0.4mだから小規模にならざるを得ない、と。で、燃料としては石炭が古くから使われていたけど、大村藩はそこまで使ってないということか。うーん」
次郎は入浜式の代わりに流下式塩田を利用できないかと考えていたのだ。
海水をくみ上げるためのポンプは手押しポンプが使えるだろうし、風力などの動力も使えるかもしれない。
「精が出るな」
「そうなんだよ」
「何を考えているんだ?」
「塩田」
「? あの干潟での塩か」
「あのさあ! 塩田っつったらそれしかないやろ? 今集中してんだからさ!」
次郎は振り向きざまに叫んだが、仰天した。
「こ、これは殿! 失礼いたしました! このようなむさ苦しいところに一体何用でございますか?」
藩主の純顕はニコニコ笑いながら言う。
「なに、よくある見分よ。無論、ここだけではないぞ。然れど次郎。お主には毎度毎度驚かされるな。流下式とはなんじゃ?」
瞬間的に後ずさって平伏している次郎に質問する。
「は。されどなにぶん、まだそれがしの頭の中で考えているところにて、殿にお話しできる有り様ではございませぬ」
「ふふふ、さようか。まあよい。楽しみにしているぞ。塩の生産量が上がって質も良いとなれば、藩の益となるからの」
「ははあ」
その後次郎は使用人に命じてお茶と茶菓子を用意させた。
「このようなもてなししかできずに、申し訳ありませぬ」
「なに、構わぬよ」
純顕は本当に楽しそうである。
次郎の、また次郎の連れてきた信之介の性格や立ち居振る舞いが、珍しいのだろう。もちろん、能力も評価している。
「ぐはっ。ぐふ、ごほ、ごほ……」
「殿! いかがなされましたか?」
純顕が急にせき込んで苦しそうである。
「誰か……」
その時傍らにいた男が駆け寄り、処置をしたように見えたが、状況は改善しない。
「俊達殿、殿は、殿は……」
近習も気が気ではない。
「! ……一之進! 一之進! いないのか!」
次郎は急いで一之進の部屋へ行き、扉を開けて叫んだ。
「なんだなんだ。うるさい。外が何やら賑やかだとは思ったが、何事だ?」
「いたのか! 返事しろよ! 助けてくれ。殿が、殿が大変なんだ!」
そう言って次郎は一之進を引っ張って純顕のいる縁側まで連れて行く。
そこからは早かった。
一之進は状況を見極め、背部叩打法とハイムリック法を試した後、叫んだ。
「ダメだ。切開しないと死ぬぞ!」
「無礼者! 何を言うか!」
騒ぎたてる近習を次郎が怒鳴る。
「黙れ! この一之進は蘭方医じゃ。この男の言うとおりにすれば殿は助かる!」
二人は純顕を担いで一之進の部屋に連れて行く。
一之進の部屋はペニシリンの研究室と、万が一の事を考えてだろう。後から診察室のようなものを作っていたのだ。
「ただ今より、気管切開術を行う」
「な、何をするのじゃ」
この男、名を長与俊達という。大村藩が生んだ偉人であり、『衛生』という言葉を作った長与専斎の祖父である。
「何度も言わせないでください! それとも殿のこの有り様を元に戻す術をご存じなのか! ?」
「……」
こうして後からやってきたお里と三人で、純顕の手術をする事となったのだ。
次回 第50話 『医学方の設立と天保十三年のオランダ風説書』
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