第446話 『守護職弾劾』

 慶応四年九月二日(1868年10月17日)

「御用改めである! 神妙にいたせ!」

 けたたましい怒鳴り声と共に、旅籠の部屋の障子が無残に蹴破られた。

 月明かりを遮って現れたのは浅葱あさぎ色の羽織をまとった新選組の隊士たちである。抜き身の刀が行燈の光を鈍く反射する。

「な、何奴だ!」

 部屋の奥で寝床に就こうとしていた若い武士が、目を見開いて刀に手をかけた。長州なまりの声に、隊士の一人が下卑た笑みを浮かべる。

「いたぞ。長州の犬だ」

「な、無礼な! 我らは藩の許しを得て京に滞在している者だ! 乱暴狼藉ろうぜき、許されると思うなよ!」

「問答無用!」

 隊士の一人がえるや否や、複数人が一気になだれ込む。

 多勢に無勢。長州藩士はあっという間に組み伏せられた。床に叩きつけられ、腕を背後にねじ上げられる。

「ぐっ……!  離せ! 何の権あって斯様かような真似を!」

「権? 京都守護職様からの直々の命だ。火付けの件、洗いざらい吐いてもらうぞ。連れて行け!」

 若い武士の悲痛な叫びは、無慈悲な暴力によってかき消された。


 事の発端は数日前に起きた会津藩の兵糧倉庫での火事である。

 真相は不明のまま、京都守護職の松平容保は長州藩の仕業と断定した。怒りに満ちた命令一下、京の町は『長州狩り』の舞台と化したのである。

 この無法な弾圧を止めるべく、議会の場で次郎は慶喜と対峙たいじした。

「会津藩による一方的な弾圧を速やかに止めるよう、強く求めるものであります!」

 次郎の訴えに議場は静まり返ったが、静寂を破ったのは慶喜の冷笑である。

「然れば蔵人くろうど殿、如何いかがせよと仰せか。先の春に起きたボヤ騒ぎの如く、またも犯人不明のまま事件をうやむやにせよと? 構えて(慎重に)調べ(捜査)を進めた挙げ句、犯人を取り逃がし、京の民を不安に陥れたままなのですぞ。同じてつは守護職として踏むわけにはいかない」

 慶喜は、守護職が失態を演じた過去の事件を、逆に『だからこそ今回は強硬策をとる』と論理の盾にしたのである。

「そもそも、京の治安を守るは守護職の務め。ゆえに権なき大村藩の口入れ(介入)はおかしな仕儀(事の次第)にございましょう」

 慶喜の論理に次郎は言葉に詰まったが、簡単には引き下がらない。

「お待ちいただきたい! それがしただしたき儀は、調べの権の有無ではございません。調べの方法にございます」

 次郎は論点を変えた。

 捜査権がないのは最初から分かっているのである。

 捜査の部外者が口を出すなとの反論も、想定内であった。

「百歩譲って、捕縛が調べの一部であると認めましょう」

 次郎の声には怒りがこもっていた。

 捕らえられた者たちが拷問まがいの尋問を受けている噂が届いていたのだ。もし事実なら、断じて許容できない。

「そもそも裁きが下り、罪がしかと定まるまでは、いかなる者も罪人として扱ってはならない。推定無罪の原則です」

 次郎は拳を握りしめた。法の根幹が揺らげば秩序が崩壊してしまう。

 推定無罪の原則は古代バビロニアの時代から言われており、この時代の欧米でも一般的であった。

「これを無体とする(無視する)ならば、欧米列強に日本は野蛮国とのそしりを受けたとて、何も言い返せませんぞ。さらに申し上げれば、拷問によって得られた自白に、如何いかほどのあたい(価値)がありましょうか」

 次郎の表情は厳しさを増した。

 人は耐え難い苦痛から逃れるためであれば、心にもない嘘をつくのである。

「それは調べではなく、新たな罪をこの世に生み出すだけの愚行にございます!」

 これまでにない法概念の提示に議場は完全に静寂に包まれる。だが、その沈黙を破ったのも、やはり慶喜だった。

「蔵人殿。貴殿の理想は実に素晴らしい。まるで出来の良いおとぎ話を聞いているようだ。然れど、ここは現の政の場ですぞ」

 慶喜は、冷ややかに言い放った。

 当初より従三位権中納言が六位蔵人に対して『殿』や『仰せ』と言っているのは、慶喜が今後を考えて、敬意を払っていると示すためである。

 あくまで議論であり、敵対ではない。

「拷問なくして、頑なに口を閉ざす輩から、如何いかにして真の言を引き出せと仰せか」

 議論であり敵対ではないが、その声は明らかに苛立っていた。理想論を振りかざす次郎への反発が露わになっている。

「ならば伺うが、何か他に良き手立てでもあるのでござろうか」

 慶喜は次郎を見据えた。

 現実の厳しさを知らぬ者の戯言だと言わんばかりの表情である。

 理想だけでは京の治安も民の暮らしも守れない。泥をすすってでも現実の問題に対処しなければならないのだ。

「覚悟なき者の正論など、虚しいだけですな」

 2度にわたる次郎の抗議は、権威と常識の壁の前に、完膚なきまでに打ち砕かれた。

 議場が次郎の完全敗北で幕を閉じるかに思われた、その時である。


「中納言様、一つ、よろしいでしょうか」

 次郎の声は、もはや熱弁ではなく氷のように冷え切っている。

『この男、まだ諦めぬのか』

 議場があきれと苛立ちの空気に満たされる。慶喜は無言で次郎の発言を促した。

「これまでの儀は、然様……良しといたしましょう。拷問の是非も、調べの術も、今は問いません。然れどその前に、我らが議論すべきもっと根源の題目があるはずです」

 次郎はいったん言葉を区切り、視線を慶喜から、その隣に座る会津藩主・松平容保へと鋭く突き刺した。

「そもそも、何ゆえに放火が起きたのですか?」

 静かな問いだった。

 しかし、その一言で議場の空気が変わった。

「放火の場所は会津藩が管理する兵糧蔵。いわば、守護職の足元です。当然、見張りは立っていたのでしょうな? 定めしときの巡回は? 火の気のないよう、管理は極め尽くされて(徹底されて)いたのですかな?」

 次郎が畳みかけると、容保の顔がみるみる険しくなっていく。

 春の火災事件を引き合いに出し、警備体制の杜撰ずさんさを厳しく糾弾したのだ。

 兵糧蔵への放火を易々と許した責任は誰にあるのか? 守護職が無能だからではないのか? と問い詰めたのである。

「なっ……!」

 容保が思わず腰を浮かせた。

 慶喜が慌てて手で制すが、次郎の追及は止まらない。

 真の捜査とは拷問による自白強要ではなく、徹底した聞き込みと緻密な人間関係の洗い出しだと力説したのだ。

 動機や思想のすべてを解明し、何より現場に答えを求める『現場100回』の精神こそが重要であり、物的証拠こそが真実を語ると訴えたのである。

 次郎は、拳で強く机を叩いた。

「にもかかわらず、貴殿らがやっている事は何だ!」

 現場検証もそこそこに、長州への疑念だけで無関係な者まで捕らえて拷問にかける現状を、次郎は捜査ではなく怠慢だと断じた。

 己の無能さを弱者への暴力でごまかしているにすぎないと、痛烈に批判したのである。


 議場は、完全に静まり返っていた。

 嘲笑はどこにもない。

 誰もが、次郎の指摘の的確さに、その恐るべき舌鋒ぜっぽうに息をのんでいた。


 やがて次郎は最後の一撃を放つ。

「各々方、よくお聞きいただきたい。自らの兵糧蔵一つ守れぬ者たちに、この京の都の治安が、帝の御所の安寧が、本当に守れるとお思いか!」

 それは会津藩の、そして彼らを擁護した慶喜の権威を根底から揺るがす一撃だった。

 守護職の存在意義を問う、究極の弾劾。

 慶喜の顔から、余裕の色が完全に消え失せていた。

 唇を噛み、何も言い返せない。隣の容保は屈辱に顔を真っ赤にし、わなわなと震えている。

 次郎は凍りついた議場を見渡すと、静かに席に座った。


 では、どうするか?

 議会が次の一手をどう打つべきか、重い沈黙に支配される中、次郎は立ち上がって再びゆっくりと口を開いた。

 その声には弾劾の時の厳しさはなく、現実を見据えて落ち着いている。

「然りながら……然れど、然れど……」

 自らに言い聞かせながら、前置きの言葉をもらす。

「今この場で守護職を罷免したところで、たちまち京が混沌こんとんに陥るのは、火を見るより明らかです。後任を立てるにしても、すぐに代わりができる者などおりましょうか。我らは、理想のために京を無秩序に陥れるわけにはいかないのです」

 勝利したからこその、冷静な現実認識だった。誰もがその言葉の重みを理解し、静かにうなずく。

「つきましては、日本公論会として一つ提案がございます」

 次郎は、慶喜と容保に視線を据えたまま、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で続けた。

「守護職の任は、しばらくは今のままといたします。りながら三つの条件をお認めいただきたい。もちろんこれは命令ではなく、この議会の総意として要請していただきたい」

 次郎は指を順に立てながら話す。

「第一に、証拠なき強硬な捕縛、弾圧は、速やかに止める事。第二に、いかなる理由があろうとも、拷問は絶対に禁ずる事。第三に、この先の調べ(捜査)の進み具合は、些細な事であろうと、逐一この議会に報告する義務を負う事。よろしいですな?」

 それは事実上の『執行猶予』であり、会津藩の手足を完全に縛り上げて議会の監視下に置く。極めて屈辱的な条件だった。

 しかし慶喜と容保には、もはや拒否する選択肢は残されていなかった。拒めば次郎の弾劾が正しかったと自ら認めなければならず、議会で完全に孤立する。

 長い沈黙の後、慶喜が声を絞り出した。

「……よかろう。守護職・所司代にも、然様に申し伝える」

 次郎は深くうなずき、今度こそ完全に腰を下ろした。

 ひとまず、最悪の事態は避けられた。このままだと残された長州藩士が暴発しかねなかったからである。


 あまりに都合が良すぎる火事だ。

 長州の仕業なのか?

 それとも会津の自作自演か……?

 いや、それにしては手が込みすぎている。まるでオレと慶喜、薩摩と長州、すべてがどう動くかを見越しているかのようだ。

 ……まさか、内通者がいるのでは?

 オレはああは言ったが、守護代の警備は相当に厳しかったはずだ。新選組や見廻組が市内を巡回していたし、こんなに簡単に放火などできるのだろうか。


「あんさんも相当に志士はんらに金子を融通してはるそうやけど、ほんまに大丈夫どっしゃろか。わてかて念には念を入れてはおりますけど、捕まったりしまへんやろな。捕まりでもしたら死ぬまで拷問されて、白状したかて極刑にされてしまいますがな」

「桝屋はん、心配はいりまへんで。それにもし捕まったとしても、拷問はされまへんやろ」

「なんでそないな事が言えますのや?」

「そないな事をしたら幕府と長州は一触即発、いつ戦が起きてもおかしゅうおまへん。そないな有り様を、あのお方が放って置かはるはずがおまへんがな」

 強硬な弾圧に近い捜査と拷問を繰り返し、もし死者が出ようものなら、長州は暴発するだろう。それでなくても家中の雰囲気は幕府憎しなのだ。

 ほんの些細なことが引火点になりかねない。

 それに一度火がついてしまえば、消すのは容易ではないのだ。またたく間に怒りの炎は燃え上がり、やがて京の町は戦火に包まれるだろう。

「あのお方?」

「大村の家老、太田和次郎左衛門様でおますがな。あのお方はどこか、浮世離れしたお考えをしてはりますわ。戦を避けるために、絶対に拷問は許さはらへんでしょう。無罪放免は難しゅうても、構えた調べ(慎重な捜査)になるはずでおます」

 次郎の考えや性格をよく理解している。

 21世紀に生きていた人間が、拷問や不法捜査(仮に当時合法でも)を許せるはずがない。

 また、幕府と長州が争うなど、まるで史実における禁門の変ではないか。

 歴史を知る次郎は避けるはずだ。

 その事実をこの男は知るよしもないが、予想は当たっている。

「それならばよろしゅうおますが……私も一朝事あるときは覚悟を決めておりますが、今捕まってはかないませんわ」

「まあ、あと一、二度騒ぎがおましたら(お望み通り戦になる)分かりまへんが」

「……」


 議場から離れた場所で、密談が交わされていた。


 次回予告 第447話 (仮)『周布と久坂』

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