第442話 『典薬寮と権力闘争』

 慶応四年八月十一日(1868年9月26日) 

「ふう」

 次郎は、書き上げたばかりの『重要技術管理法案』の草案から顔を上げた。

 新暦に直すと9月末だが、それでも残暑が厳しい。

 洛中の連続ボヤ騒ぎに関する加賀藩からもたらされた情報は、犯行の黒幕が潤沢な資金を持つ何者かである事実を裏付けた。

 しかし確証はない。

「兄上、ようやく出来上がりましたね」

 隼人はそういって息を吐き、伸びをして腰を回した。

「ああ、オレ一人では無理であった。隼人、廉之助、ご苦労であった。本来ならお主ら二人は信之介と一緒に研究三昧やりたいんだろうが、許せ」

 次郎が労いの言葉をかけると、奥の席で資料を整理していた松林廉之助が、少しだけはにかんで顔を上げた。

「とんでもないことでございます、次郎様。我らにとって規格や特許の概念は、己の成果と権利を守るための盾そのもの。この法は日本の全ての技術者にとっての吉報となりましょう」

「廉之助の言う通りです、兄上」

 隼人の言葉には実感がこもっていた。

 手作業の『現物合わせ』しか知らない幕府の職人と、マイクロメートル単位の精度を求めるフランス人技術者との間で板挟みになった経験からである。

 技術の標準化なくして、近代国家は成り立たない。

「そうか。お主らがそう言ってくれると助かる。然れど真の戦はこれからだ。この法を成立させ、骨抜きにされることなく用いていく。そのためには、新たな戦の舞台に立たねばならん」

 次郎の視線は、これから始まるであろう政争の嵐を見据えていた。

 ■慶応四年九月二十六日(1868年11月10日) 小御所

 帝の臨御を仰ぐその場には、当代日本の枢要を担う者たちが顔を揃えていた。

 【主な出席者】

 朝廷方:
 国事御用掛(佐幕派):二条斉敬ら

 国事御用掛(勤王派):三条実美ら

 岩倉具視

 武家:
 幕府:徳川慶喜(禁裏御守衛総督)、永井尚志

 薩摩藩:島津忠義(藩主)、島津久光(国父)

 長州藩:毛利敬親(藩主)、周布政之助

 大村藩:大村純顕(藩主)、太田和次郎左衛門武秋

 張り詰めた静寂の中、各々の胸には異なる思惑が渦巻いていた。

 慶喜の内心には自らが主導しようとする自負が、久光の胸には慶喜の好きにはさせぬという敵意が燃え盛る。

 岩倉は両者を冷ややかに値踏みし、三条らは固唾をのんで事の成り行きを見守る。その全ての視線と思惑を静かに受け止めながら、次郎はただ時の至るのを待っていた。

 ■同日 京・三条のとある居酒屋

 御所での緊張とは無縁の世界が、そこにはあった。

 職人や商人たちが、昼間から酒を酌み交わしている。

「おい、聞いたか。今日は御所で偉いさんたちがまた集まってるらしいで」

「ああ、あの新選組の物々しい警備はそのせいなんやな。ほんま、あの火事から……物騒なことが起きなきゃええけどな」

「どうせオレらには関係あらへん話やし。誰が一番偉いかなんて、腹の足しにもならへんわ」

 一人が猪口の酒をあおり、やけ気味に言う。

「確かに。それより大村の殿様が作ったっちゅう鉄の船やわ。こないだの嵐でも、びくともしいひんかったって話や。あれがあったら、いろんな品物がもっと安う、早う手に入るんとちがうか?」

「おお、そらええ。ややこしい相談事より、わしらの暮らしが楽になる話をしてほしいもんやな」

 朝廷だろうが幕府だろうが薩長だろが、大村藩でさえ庶民の暮らしには関係がなかった。

 暮らしを楽に、世の中を平和にしてくれるなら誰でもいいのである。

 ■小御所

 岩倉具視が、場に満ちる緊張を破るように厳かに口上を述べた。

 それを受け、慶喜がすっと前に出る。

 その所作は洗練され、自信に満ちていた。

「帝の御前にて、奏上仕る。先般の洛中での一件を受け、当方より大村藩に作成を命じましたる『重要技術管理法案』。この儀につき、本日ここに、各々方と公明正大なる議論を尽くしたく存じまする」

 あくまでこの会議が幕府の発案であることを、慶喜はまず全員に知らしめた。自分が議論の主導者であると、無言のうちに宣言したのである。

 その言葉が終わるやいなや、久光が身じろぎもせず重々しい声を発した。

「一橋殿、お待ち願いたい」

 静かだが、有無を言わさぬ声だった。

「こん法ん趣旨そのものに、異を唱ゆっつもりは毛頭なか。然れど、こいを司っ(これを司る)『典薬寮』ん人事に、ないごて(なぜ)幕府が口を出す必要があっとでござろうか」

 久光は真っ直ぐに慶喜を見据えていた。

 次郎たちの思惑とは別に、慶喜は典薬寮を牛耳ろうとしていたのである。

「典薬寮は古来、帝に仕ゆっ(仕える)朝廷ん機関。そん人事に幕府が介入すっなど、帝をないがしろにすっもんと断じられてん、申し開きできんのではござらんか」

 痛烈な批判である。

 大村の法案ではなく、その背後にある幕府の意図を久光はいきなり抉り出したのだ。大村と幕府、どちらにも主導権を取られたくないのが大きな理由である。

 慶喜の涼やかな表情が、わずかにこわばった。

「薩摩殿、それはあまりに短絡的な見方というもの。そもそもこの法は、幕府が市中の安寧を預かる責任上、大村家中に命じたもの。その責任の所在を明らかにするためにも、幕府が人事に関わるのは当然の責務と心得まするが、如何に」

 慶喜も即座に反論して譲らない。

 だが、その『幕府の責任』という言葉が、久光にさらなる攻撃の口実を与えてしまう。

「ほう、責務とな。……つまり、典薬寮を幕府ん支配下に置き、日本中ん薬に劇物、新しき技ん全てを独占するごつも聞こえるどん、これ如何に?」

 久光の言葉に敏感に反応した慶喜が、即座に反論しようとした時である。

 黙って聞いていた毛利敬親が口を開いた。

「待たれよ。そもそも、事のはじめは大村の『がそりん』を取り締まるものにございましょう? それは百歩譲って危うき劇物、毒物薬物と通じるものもある。ゆえに典薬寮は解せまする。然れど……」

 敬親はすうっと息を吸い、政之助のチラッと見た後に続ける。

「何ゆえ度量衡をはじめ鉄の質に管の『規格』とやら、物事の物差しを含めた技術のすべてを、典薬寮で為さねばならぬのでございますか?」

 敬親が放った問いは明らかに次元が異なっていた。

 それは慶喜対久光の権力闘争ではなく、この法案が内包する本質的な意味に対する根源的な疑問である。

 慶喜と久光の応酬で熱を帯びていた議場の空気が、すっと冷や水を浴びせられたかのように静まり返った。

 公家たちの間からも、『うむ』『確かに』という、これまでの傍観者尾声が漏れ始める。

 なぜ医薬の府が工業を司るのか。

 その不自然さと不整合を、敬親は穏やかながらも決して引かぬ口調で問うたのだ。

 慶喜も久光も、思わず言葉を失う。

 敬親の問いは、何の為の法案なのか? その根幹に触れるものだったからだ。

 その沈黙を破ったのは、大村藩主・純顕に静かに目礼した次郎である。ゆっくりと前に進み出ると、まず敬親に深く一礼した。

「毛利様の問いにお答えします。何ゆえ典薬寮でなければならぬのか。それは、この制度を何処に置くかが、日本の新たな権を誰が握るかという重き障り(問題)に直に結びつくかにございます」

 次郎はそう切り出すと、あえて慶喜、そして久光へはっきりと視線を送った。

 その挑戦的とも取れる眼差しに、両者の眉がわずかに動く。

「仮に、この法を用いる新たな機関を、幕府の監督下に置けば如何なりますか。……薩摩様、長州様は、それを幕府による権力の独占と断じ、決して承服なさらぬでしょう」

 久光は不快げに顔を背けたが、反論はしない。事実だからだ。

「では、諸藩の合議による新たな機関を設ければ、如何なりますか。今度は一橋様が、幕府の権威を揺るがすものとして、断じてお認めにはなりますまい」

 慶喜は冷然と次郎を見つめ返す。これもまた、事実であった。

 次郎はこの議場に渦巻くどうしようもない対立構造そのものを、満座の前で言葉にして暴き出したのである。

「すなわち、新たな機関を作ろうとすれば、瞬く間にこの日の本は幕府と雄藩の間で二つに割れ、血で血を洗う内乱へと突き進むことになりましょう。……各々方、我らは然様な事態を望むのでございましょうか」

 議場は、水を打ったように静まり返った。

 それは脅しではない。

 そこにいる誰もが、心の底では理解している、避けようのない未来の姿であった。内乱。その言葉の持つ重みが、全ての者の喉を詰まらせる。

「ならば、道は一つしかございません」

 次郎の声が、沈黙を支配する。

「幕府でもなく、いずれかの藩でもない。古来この日の本で唯一、中立にして最高の権であらせられる、帝の御下(みもと)に、この機関を置くのです」

 その言葉に、公家たちが息を飲むのが分かった。

「加えて朝廷に数多ある官司の中で、『民の健康と安寧』を司ってきた典薬寮に、『新たな技術がもたらす益と害』を管理させる。これこそが、いたずらな争いを避け、日の本が一つにまとまるための、唯一の道ではございませぬか」

 職分の違いという敬親の問いに対し、次郎は『権力闘争の回避』という、それ以上の政治的合理性をもって答えたのだ。

「これは、誰が一番得をするかという話ではございません。誰もが損をせず、日の本全体が得をするための、唯一の策なのです」

 次郎はそこで一度言葉を切り、静かに、しかし強い意志を込めて続けた。

「もし、この策以外に、内乱を避け国を一つにまとめる妙案をお持ちの方がおいでであれば、是非ともこの場でお示しいただきたい」

 そう言って、次郎は深く頭を下げた。

 完璧な一撃だった。

 慶喜も久光も、これに反対すれば、『自らの野心のために、国の内乱も厭わない者』の烙印を帝の御前で自ら押すことになる。

 彼らの相互不信と対立構造そのものを逆手に取り、『朝廷の下に置く』という結論以外を、完全に封じ込めてみせたのだ。

 敬親は、静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。

 次郎の論理が、もはや技術論ではなく、この国の未来そのものを賭けた究極の政治論であることを、彼は正確に理解した。

 慶喜も久光も、顔には出さぬが、その腹の底は屈辱で煮えくり返っていた。

 のむしかない。

 だが、事実上の管理者が大村藩の者で占められるであろうことは、火を見るより明らかだ。

 その時、この貸しは必ず返してもらう。二人の胸には、次なる戦いへの、黒い闘志が同時に灯っていた。

 その全ての空気を感じ取った上で、これまで静観していた岩倉具視が、すっと立ち上がった。

「蔵人の言、まことに道理。日の本の未来を思うなれば、これ以上の良案はあらしゃいません」

 岩倉はまず次郎の案を肯定した。

 その後慶喜と久光に目を向け、最後に二条斉敬へ目を向けて発言を促したのである。 

「一橋卿、薩州殿。帝の御前であらしゃいます。これ以上の内輪揉めは、無粋というもの。お分かりでありましゃるな」

 関白・二条斉敬の一言が、全てを決した。

 その言葉は、事実上の最終判断である。

 やがて、帝の裁可が下り、法案は原案通り可決された。

 舌戦ではもはや勝てない。

 その痛烈な敗北感が、慶喜と久光を『議会での政党づくり』という、新たな戦場へと駆り立てる直接の動機となることを、この時の彼らはまだ知らなかった。

 次回予告 第443話 (仮)『政党の胎動』

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