慶応四年(明治元年)三月九日(1868年4月1日)
遡ること数日前――。
「斯くなる上は、殿御自らご尽力頂くより他ございません」
「ほう……」
居住まいを正して真剣な眼差しの上野介に対して、慶喜も表情を変えて相対する。
「一体、何を如何様にせよと申すのか」
「は」
上野介は一度深く息を吸い込み、覚悟を決めて口を開く。
「まず、殿には一つ耐え忍んで頂きたき儀がございます」
「……何?」
慶喜の表情が変わる。
思い当たる節があるのだ。
例のあれ、である。
「かの『田舎大名』との御発言。これを正式に取り消し、ご立腹の諸大名へ、真摯なるお詫びをなさいますようお願いいたします。すべての端緒はそこにございますれば」
「それは……正しくその通りではあるが、あちらが先に言い出したのじゃぞ」
「殿……」
上野介は慶喜の視線を真っ向から受け止めながら続けた。
「何れ(どちら)が先など取り合うものに非ずして(問題ではない)、些事にございましょう。何れも悪いのです。そもそも殿も今このご時世に、真に旧来の譜代のみにて政が立ち行くとお考えではございますまい?」
「……」
慶喜は無言だが答えはYesである。
「もはやそれは誰の目にも明らかでございます。大村の技術なくして富国はなく、諸藩の協力なくして強兵は成りませぬ」
慶喜は何も言わなかった。
いや、言えなかったのが正解だろう。
それは彼自身が誰よりも痛感している事実だったからだ。
「加えて『大政委任の宣旨』。これは我らにとって錦の御旗にございます。然れど、それは大政が元は朝廷の物であると自ら天下に示したも同然。権の源泉を我らの手から朝廷へと渡してしまったに等しいのです」
辛辣な物言いは、人によっては嫌悪感の対象であるが、慶喜は自分を見ている気がするのか言い返さない。
「薩長の輩がこれを逆手に取り『ならばその大政を天子様に返し申せ』と迫ってきた時、我らに返す言葉がございましょうか。まさしく諸刃の剣にございます」
上野介の言葉の一つ一つが慶喜の胸に突き刺さる。
聡明な慶喜はそのすべてを瞬時に理解した。そして、この有能な家臣がただの批判で終わるはずがないことも。
「……して、その剣を如何に捌けと申すのだ」
ニヤリと笑って慶喜が尋ねると、上野介の顔がぱっと明るくなった。
「はっ。然れば一度解散した合議を再び集め、これを広げまする。丹後守様(大村純顕)が仰せになった『貴族院』。これを我らの手で創るのです!」
「何だと?」
「国事御用掛の公卿衆に十名ほど。加えて二百七十余の全藩主、あるいはその名代を議員として江戸に大議院を設けまする」
「ほう、では論ずるのは前の大老院と同じ題目か?」
「は、常の(通常の)政は任された公儀が執り行い、朝廷に都度お伺いを立ては致しませぬ。それでは政が滞りますゆえ」
慶喜は『ふむふむ』とうなずいている。
先読みして理解し、発言しようとしているが、上野介も同類であった。
「然れど外交や国防、あるいは国体を揺るがすほどの重き事柄においては、実に執り行う前に朝廷に知らせまする。加えて公卿からの問には真摯にお答えする。決によって進めますが、これならば諸大名も得心なさいますでしょう」
慶喜は煙管を手に取って火をつけ、深く吸い込んで紫煙を天井に吐き出す。
上野介の策の骨子は、瞬時に飲み込めたのだ。
純顕の案を逆手に取り、幕府主導で実現することで諸藩の不満を吸収し、主導権を握り返す。巧妙な策だ。だが――。
「待て、上野介。その策は面白い。面白いが……それでは公儀すなわち徳川宗家が、数多いる大名の一人に成り下がるのではないか」
慶喜の疑問はもっともである。
幕府が幕府の体をなさない。
「政の権は何処にあるのだ? 徳川の二百六十余年の治世が、単なる多数による決に委ねられると申すか」
300名近い人間がバラバラに意見を述べれば決まるものも決まらない。
責任の所在もあいまいであり、誰が主導権を握っているかも不明なのだ。
「仰せの通りにございます。ただ議会を開けばそうなりまする。然れど、そこにこそ我らの勝機がござります」
身を乗り出した上野介の目は、新たな時代の政治の形を幻視しているかのように爛々と輝いていた。
「殿、我らはその貴族院の中で『徒党』を組むのです」
「……徒党?」
「然に候。さしずめ政の徒党ゆえ、政党とでも言いましょうか。我ら親藩、譜代、そして徳川恩顧の諸藩をまとめ上げ、一大『政党』と成すのです。これを仮に『公儀党』とでも呼びましょう」
上野介の言葉は熱を帯びる。
慶喜にもその熱が伝わったのか、顔が紅潮していた。
「大村や薩長、土佐も政党を組むかと存じまする。然りながら数では我らが圧しておるゆえ、貴族院の決は否が応でも我ら『公儀党』の考えとなりまする」
「ふふふ……面白いのう」
「決を定めしは我らの意。然れど諸大名は自ら決めた事ゆえ、不満の出しようもございませぬ。最後に決めるのは公方様にて、これぞ徳川が導く新しき『公儀』の姿にございます」
旧来の権威が失われてゆく中で、その権威を一度解体するのである。
その後全く新しいルールの上で再構築する。
敵の土俵に見せかけて、そこは自分たちが圧倒的有利な戦場。何と大胆で、何と巧妙な策であろうか。
「……上野介。お主はやはり面白い男よ。まあオレも考えてはいたがな!」
わはははは!
慶喜が笑うと上野介も笑みを浮かべた。
「申し上げます! 尾張大納言(徳川慶勝)様より急ぎ電信にございます」
「何?」
――発 尾張大納言 宛 一橋中納言
大老院解散の由聞き及びき候。
凡そ此度の挙は何たる浅慮か。その真意全く以て解し難し候。
近日中に参府致す故、今一度熟慮あるべしと願い候。
(大老院の件聞いたぞ。何にも考えてないのか? 理解不能! 近いうちに江戸に行くから、もーいっかい、ちゃんと考えろ……頼むぞ)
「ああ、これは……」
「やはりな」
■慶応四年(明治元年)三月九日(1868年4月1日) 伊予 宇和島城
「……嘆かわしい。実に嘆かわしい」
書斎で地球儀をゆっくりと回しながらつぶやく宗城の脳裏には、パリで目にした万国の文物と、活気に満ちた欧州の姿が焼き付いていた。
それに比べて今の日本の現状は何だ。
これが宗城の本音である。
藩の蒸気船が技術的問題を理由に渡欧を断念させられた一件。
責任は自分達にある。
それを踏まえたうえで、そもそもの原因は、幕府の排他的で諸藩の近代化を恐れる旧弊な体質にあったと考えているのだ。
次郎の尽力でようやく世界への扉が開かれ、新しい国づくりに舵を切っていくだろうと考えていた矢先のこの仕打ちである。
京都における諸侯会議での出来事を、宗城はさほど気にしてはいなかった。
それは個人的な非難であり、公ではないからである。
しかし大老院の解散は看過出来ない。
自分は参加していないとはいえ、今後の中央政界進出の芽が消えるのだ。それはすなわち、旧態依然とした幕府政治の復活に他ならない。
「さて、この先如何にすべきか」
幕府はもう終わりと見切りをつけるか。
それとも最後まで幕府を助け、新しい日本の礎となるか。
もう1つは、幕府などまったく関係なく藩政に力を注ぐかである。
■土佐 高知城
江戸での一件の報は、この藩の複雑な空気をさらにかき混ぜていた。
「けっ、酔った上の戯れ言にいちいち目くじらを立ておって。器の小さい事よ」
藩主・山内容堂は酒杯をあおりながら吐き捨てた。
慶喜の暴言を非難しつつも、どこか同情的な響きがあるのは、自らも酒を愛して酒席での放言が多いからだろう。
しかしその目の奥には、自らが『田舎大名』と一括りにされたことへの消しがたい屈辱が光っていた。
(土佐が田舎なら、水戸も田舎ではないか)
「されど殿、これは単なる酒席の失言では終わりませぬ」
冷静な声で諫めたのは、藩の参政並・後藤象二郎である。参政吉田東洋の補佐として頭角を現し、藩政の中枢にいた。
「これは、公儀が諸藩、とりわけ我ら外様を等しき相手と見なしていない、明らかなる志の表れにございます。大政委任の宣旨がその証。このままでは殿は再び一大名に戻りましょう」
象二郎の言葉には厳しい現実認識があったが、この事態を土佐が生き残るための試練と捉えているのだろう。
「うむ」
容堂はぐいっと飲み干す。
「殿。それがしに考えがございます。公儀が朝廷より『大政委任』の勅を得たのであれば、容易き話にございます」
「ほう、申してみよ」
「天子様が公儀に政を委任されたのであれば、その大政を『奉還』させるのです。政は朝廷の下、諸大名の会議によって執り行う。これならば公儀も面目を失わず、万事うまくまとまるかと存じます」
大政奉還。
考える事は誰もが同じであるが、要は誰が発起人で誰が実行に移すかである。
「象二郎、事はそう易きにあらずじゃ」
容堂と象二郎の会話を、横でじっくり聞いていた東洋が口を開いた。
「我が土佐山内家中は、藩祖一豊公が、関ヶ原の折に大権現様よりこの土佐を拝領して成っておるのだ。加えて我らは、ただ今に至るまで代々その禄を食んできたのだぞ。今我らが御公儀を見限るなど出来ようか」
場が静まりかえった。
容堂は黙って酒を飲み、象二郎は気まずいのか東洋の顔を直視できない。
「二百七十年の長きにわたって長宗我部の旧臣を敗者として、郷士として蔑んできた。ここで公儀を否とするならば、彼奴らを何とする。これまでの事を無かったかの様に振る舞えるのか?」
幕府を見限ることと、直接は関係ないのかもしれない。
しかし、これまで幕府の権威を笠に着て見下してきた郷士たちに、どう対処すればいいのかわからないのだ。
幕府の権威を否定すれば、その権威によって成り立っていた秩序も否定することになる。
下手をすれば秩序の見直し。極端に言えば暴動も起こりかねない。
「まあ、今すぐ事を起こす必要はなかろう。しばし、今しばし様子を見ようではないか」
土佐山内家が明確な立場をとれなかった理由がここにあった。
■京都御所
「従三位権中納言源朝臣徳川慶喜、恐れ多くも天顔を拝し、謹んで奏上仕りまする」
一呼吸置いて慶喜は言葉を続けた。
その言葉は、完璧な臣下としての忠誠心に満ちあふれている。
「先般、大政委任の宣旨を賜り、誠に以て恐悦至極に存じ奉りまする。この上は徳川家一同、粉骨砕身帝の聖慮を安んじ奉り、いや増して天下万民の安寧に尽くす所存にございます」
この一件は、幕府の統治権の正当性が天皇からの委任を根拠とすることを再確認させ、絶対的な服従の意志を表明する狙いを含んでいた。
「然りながら時勢は日々変転し、祖宗以来の政道を守りつつも広く天下の衆知を集め、公明なる政を執り行う事こそ、天朝への御奉公の道と心得ております」
ここで慶喜は巧みに次の一手を匂わせる。
それは単なる幕府独裁への回帰ではなく、諸藩との協調を模索している姿勢を朝廷に示す布石であった。
「つきましてはこの慶喜、天下の静謐を第一に新たな政の仕組みを整え、改めて帝に奏上仕りたく存じまする。伏して帝の御宇の弥栄を祈念し奉り、御前にてお誓い申し上げます」
慶喜は再び深々と頭を下げた。
その姿は自らの権威を誇示する者ではなく、ただひたすらに天皇の臣下として国の未来を憂う忠臣そのものである。
だが、その伏せられた顔の裏で、慶喜の唇には誰にも見えぬ笑みが浮かんでいた。
次回予告 第429話 (仮)『謝罪』

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