第886話 『塩が消える日』

 慶長五年三月四日(西暦1600年4月17日) 尾張 清洲城下

 かつての織田家の拠点であり、今なお織田家にとって経済の中心地の一つであるこの町には、未だかつて無い乾いた緊張と焦燥に満ちた空気に包まれていた。

「おい、どけ! 俺が先だ!」

「ふざけるな! 昨日から並んでるんだぞ!」

 美濃路に面した大店、『尾張屋』の店先は、怒号と罵声が飛び交う戦場と化していた。

 店の前には数百の民が殺到し、戸板で固く閉ざされた店に掴みかからんばかりの勢いである。

 店の二階の格子窓から、主の善四郎がその光景を苦々しく見下ろしていた。

 齢五十を過ぎ、長年の商いで肥えた体躯も、この数日の心労ですっかり萎んでしまったように見える。

「旦那様、もう米蔵の米も底をつきそうです。このままでは……」

 番頭の治助が、蒼白な顔で報告してきた。

「分かっておるわ」

 善四郎は吐き捨てるように言った。

「障り(問題)は米ではない。塩だ。味噌だ。醤油だ。それらがなければ、米だけあっても人は生きていけぬ。冬に備えて仕込んだ漬物樽も、今年は空のままではないか」

 尾張屋は米問屋だが、商いの傍ら、肥前国の業者から安価な塩や醤油を大量に仕入れ、小分けにして売ることで多くの儲けを得ていた。

 それは尾張屋だけでなく、領内の他の商人たちも同じである。肥前国の品は、もはや空気や水のように、あって当たり前の存在だったのだ。

「肥前屋の連中が引き上げてから、まだ十日も経っておらんぞ。それなのに、この様は何だ……」

 善四郎の脳裏に、数日前の光景が蘇る。

 熱田の港に隣接していた肥前国の巨大な醸造蔵と塩の倉庫。

 煙突からはいつも黒い煙が立ち上り、活気に満ちていたその場所が、今はただの巨大な抜け殻と化していたのである。

 設備は運び出されるか、無残に破壊され、働いていた者たちは一人のこらず肥前国の船で去っていった。あまりに突然の、あまりに完璧な撤収だった。

 噂は瞬く間に町を駆け巡り、パニックが始まった。

 善四郎の店でも、蔵にあった塩と醤油は半日で売り切れた。値段を十倍に吊り上げても、人々は銭を掴んで殺到した。

 だが、もう売る品がない。

「旦那様、清洲の奉行所からお達しです。領内の蔵元に増産を命じたゆえ、騒ぎを起こさぬよう民に伝えよ、と」

「馬鹿を言え!」

 善四郎は思わず声を荒らげた。

「今さら何を。知多や常滑の塩屋なぞ、肥前塩に押されてとっくに火を消したか、細々と作っておるだけだ。第一、あの者どもはもう昔の塩の作り方など忘れとるわ!」

「と、仰せになりますのは?」

 治助が訝しげに問う。

「知多の塩屋のせがれが、数年前まで肥前の工場で働いておった。然れどあそこでの仕事は、奇妙なカラクリの針を眺めたり、てこの一つを上げ下げしたりするだけだったと」

 ため息交じりに諦めにも似た声で続ける。

「昔のように、塩田の砂をならし、潮を読み、己の勘で釜の火を操るような仕事は、もう誰も能わぬ。能う年寄りは、とうに死んだか、腰が曲がって動けんわ!」

 技術だけではない。根本的な力が違った。

「それに、話にならんのは焚き物(燃料)よ。奴らは薪ではなく、『石炭(いしずみ)』という黒い石を燃やす。筑前で山ほど掘れるとな。あれを使えば我らの薪では到底敵わん。この地にあの石は出ぬ。焚き物からして、我らは負けていたのだ」

 織田家のお膝元である尾張は、誰よりも早く、そして深く肥前国の経済圏に組み込まれていた。その利便性を享受してきたツケが、今、破滅的な形で跳ね返ってきている。

「治助、裏の蔵にある隠しの塩樽を、夜のうちに荷馬車に積め」

「旦那様、まさか……何処へ?」

 治助の問いに、善四郎は窓の外、東の方角を睨みつけるように見ながら、低い声で答えた。

「……甲斐だ」

「か、甲斐と仰せですか! 武田様の……いや、今は肥前様の息がかかった土地ではございませんか!」

「然様」

 善四郎は苦々しく肯定した。

「清洲はもう終いだ。織田様についていったとて、待つのは飢え死にだけではないか。然れど、武田領は肥前国の軍門に下った。ならば、彼の地では今も肥前の船が荷を運び、塩も味噌も、昔と同じ値で手に入るはずだ」

 彼の言葉はもはや商人としての損得勘定を超えていた。生き残るための、冷徹な計算である。

「わしの遠縁の者が、甲府で商いをしておる。この塩を手土産にすれば、厄介にはなるまい。……いいか治助、これは落ち延びるのではない。新しき商いの地へ、『移る』のだ。もはや織田様も徳川様もあるものか。我ら商人は、銭の匂いのする方へ、飯の食える方へ流れるまでよ」

 商人としての矜持も故郷への愛着も、どうでもいい。

 生き延びるという強い意志の前では些事なのである。

 この尾張の一商人は、織田家という沈みゆく船から肥前国という巨大な船へと、己の才覚と僅かな財産を元手に乗り移ろうとしていた。

 ■遠江 浜松 

「だから、ないものはないと申しておる!」

 代々続く味噌蔵『まるや』の当主、石川仁左衛門は、戸口に詰め寄る町人たちに怒鳴り返していた。

 背後には巨大な木桶がいくつも並んでいるが、その多くは空か、あるいは仕込みの途中で放置されている。

「仁左衛門さん、あんたのところは徳川様御用達だろう。味噌を隠してるんじゃないのか!」

「そうだ、そうだ! 俺たちには売れんというのか!」

 仁左衛門は、握りしめた拳がわなわなと震えるのを必死でこらえているが、隠しているのではない。

 作れないのである。

『まるや』の味噌は、伝統的な製法と三河・遠江産の大豆にこだわってきた。

 しかし、それは表向きの話。

 ここ十年、安価で質の良い肥前国製の大豆が市場に出回るようになってからは、コストを抑えるためにそちらを混ぜて使うのが常だった。

 そして、より大きな問題は、一般向けの安価な味噌を製造していた別棟の工場が、完全に肥前国の技術と原料、そしてエネルギーに依存していたことだ。

 その工場は、今やただの抜け殻だった。

 肥前国の職人たちが去った後には、仁左衛門には使い方の見当もつかない奇妙な機械がいくつも放置されている。

 おそらくは蒸気で大豆を大量に蒸すための装置だろう。

 空になった原料袋が散在してあり、熱源であった石炭ボイラーも同様に放置されている。

 領内の大豆問屋に駆け込んでも、彼らもまた肥前船が入港しなくなったことで、次の仕入れのあてがなく、首を横に振るばかりであった。

 薪問屋に増産を頼んでも、『山の木は限りがる。これ以上切れば禿げ山となる』と断られる始末。

「おやじ、もうやめよう。何を言っても無駄だ」

 息子の新太郎が仁左衛門の腕を引いた。全てを諦めた目をしている。

「然れど……」

「徳川のお殿様だって、何もしてくれやしないじゃないか。作れ増やせとのお達しは来たが、肝心の豆も塩も寄こさない。米がないのに飯を炊けと言ってるようなもんだ。土台、無理な話なんだよ!」

 その言葉は、仁左衛門の胸に突き刺さった。

 徳川家への忠誠心篤い地で、領主への不満が公然と口にされる。

 異常事態ではあるが、それが現実だった。

 民は日々の味噌汁をすすれなくなり、武士でさえ食卓の彩りを失っている。不満は、じわじわと、しかし確実に領主へと向かっていた。

 その時、群衆の中から一人の男が前に進み出た。

 身なりの良い、旅の商人風の男だ。

「皆の衆、まあ落ち着かれよ。味噌がないとお困りのようだ」

 男はにこやかに言うと、懐から小さな壺を取り出した。

 蓋を開けると、中には黒々とした味噌が詰められている。周囲に、濃厚な大豆の香りが広がった。

「こ、これは……」

 誰もがごくりと喉を鳴らす。

「これは、堺の港で手に入れた、正真正銘、肥前国の上等な味噌でござる。ほんの少しですがな、お困りの方にお分けしようかと」

 男の言葉に、人々は色めき立った。

「売ってくれるのか!」

「いくらだ!」

 男は値踏みするように群衆を見渡し、にやりと笑うと、小さな壺を掲げてみせた。

「この壺に一合ほど。これで銀五匁。いかがかな?」

 その言葉に群衆の熱気はさっと引いた。

 どよめきが起こる。

「銀五匁だと!?」

「一合でか! 昔なら、一升買ってもお釣りがくるわ!」

「足元を見やがって!」

 無理もなかい。

 男が提示した価格は、かつて一升が六十五文で買えた頃の、実に50倍以上というとんでもない値段だったのだ。

 普通の町人や足軽の、数日分の稼ぎが吹き飛んでしまう。

「おやおや、高いですかな? 然れど、もうこればかりはどこにもありませぬ故。今のうちに手に入れておかねば、いずれこの値でも買えなくなりますぞ」

 男はせせら笑うと、さも残念そうに壺を懐にしまおうとした。

「待て! それを売ってくれ!」

 声の主は、人垣の後ろにいた、身なりの良い武士だった。

 おそらく城勤めの、それなりの役付きの者だろう。

 彼は苦渋に満ちた顔で人波をかき分け、震える手で革袋から銀銭を五枚、男の前に差し出した。

「……頼む。子が生まれてから、女房の乳の出が悪い。せめて滋養のある味噌汁だけでも、と……」

 その悲痛な声に、周りの罵声が止んだ。

 誰もが、武士の気持ちも、そしてその懐の痛みも理解できたからである。男は満足げに銀銭を受け取ると、恭しく壺を武士に手渡した。

 その光景は人々の目に焼き付いて離れないだろう。

 かつては誰もが当たり前に口にできたものが、今や家族の健康を願う親が、なけなしの金をはたいてようやく手に入れるものになってしまった。

 買えた武士への嫉妬よりも、買えない自分たち、そしてこのような状況を放置している領主への、静かだが深い怒りが人々の間に広がっていく。

 仁左衛門は、その光景を呆然と見ていた。

(あれは……ただの商人ではないな)

 混乱に乗じて暴利を貪る闇商人はいるだろう。

 だが、男の目的は金儲けだけではない。

 あの男は、人々の目の前で、生活必需品が「贅沢品」へと変わる瞬間を見せつけたのだ。

 家族を思う気持ちすら、金がなければ叶えられない。その残酷な現実を突きつけ、人々の心を静かに折りに来たのだ。

 肥前国はただ資本を引き上げただけではない。

 人々の間に不満と分断を生み出し、領主への信頼を切り崩していったのである。

 ■相模 小田原城

 難攻不落と謳われた城の威容とは裏腹に、その城下町は静かな死の淵に立たされていた。

 他の地域のような激しい暴動こそ起きていないが、それは北条家の武士による厳しい統制の結果であり、人々の顔には諦めと無気力の色が濃く浮かんでいる。

 店の軒先には『塩、品切れ』『醤油、入荷未定』の札が虚しく揺れている。

 早川の河口近くにある漁師町では、網元である甚兵衛が途方に暮れていた。

 足元の桶の中でアジやイワシが銀色に輝いているが、彼の心は鉛のように重い。

「網元、どうするんでえ。この魚、このままじゃ明日には腐っちまう」

 若い漁師が困り果てた顔で尋ねる。

「……分かっている」

 甚兵衛は短く答えた。

 いつもならこの魚はすぐに塩を振られ、干物に加工される。

 小田原の特産品である『鯵の開き』は城下の食卓を潤し、箱根を越えて江戸やその先にも運ばれる、彼らの大事な収入源だった。

 しかし、その商売の根幹である塩がない。

 数日前、懇意にしている塩問屋に駆け込んだが、主人は泣きそうな顔で首を振るだけだった。

「肥前船が入らねば、もう一粒たりとも入ってきやせん」

 僅かに残っていた塩は、米と同じ重さの金でなければ売れないとまで言われた。魚一匹を干物にするために、米一俵分の銭を払える者などいやしない。

「仕方ねえ。城下の奴らに、タダ同然で配ってこい。腐らせるよりはマシだ」

 甚兵衛の言葉に、漁師たちは力なく頷いた。

 汗水たらして獲った魚が、二束三文の価値しか持たない。

 彼らの労働意欲は、日に日に削がれていった。

 その日の夕刻。

 甚兵衛は、小田原城の方角を見つめていた。お城からは、何の沙汰もない。領民がこれほど困窮しているというのに、北条のお殿様は一体何をしているのか。

「……親父」

 息子の正吉が、不安げな顔で隣に立った。

「このままだと、俺たち、干上がっちまうよ。漁に出るだけ無駄だ」

「……」

「なあ、親父。聞いたかい? 東の安房の港には、肥前国の船が出入りしてるって。そこじゃ、昔と同じ値で塩が買えるらしいぜ」

 甚兵衛は息子の顔を睨みつけた。

「馬鹿なことを言うな。里見は肥前方だ。我らが行けるわけがなかろう」

「でもよ! このままじゃ死ぬのを待つだけだ! 織田様だか何だか知らねえが、そのせいで俺たちがひもじい思いをするのはおかしいじゃねえか! 北条の殿様が、肥前国に頭を下げてくれりゃあ、それで済む話なんじゃねえのか!」

 正吉の叫びは、甚兵衛の胸の奥底にくすぶっていた思いそのものだった。

 そうだ。

 なぜ、我々が苦しまねばならない?

 武士の面目や、遠い京の近くにいる織田家の都合など、日々の糧を得るのに必死な我々には関係のないことだ。

 生きるために必要なものを、くれるという者がいるのなら、そちらにつくのが当たり前ではないか。

 北条家は一度は純正に敗れ、反旗を翻そうと北関東の大名と画策するも露見し、関八州の大大名から武蔵・相模・伊豆へ減封された。

 大名家が『武門の誉れ』よりも『生き残るための現実主義』を選んだのだ。

 今回の純正の沙汰では、その家中がなくなると氏直や重臣はもがいているが、領民にはその現実主義がが深く根を張っている。

 甚兵衛は、遠い海の向こうを見た。

 ■岐阜城下

「申し上げます! 領内の各都市にて、塩、醤油、味噌を求める民が殺到! 僅かな品を巡って暴動寸前の騒ぎとなっております!」

 生活必需品だけではない。

 ・砂糖(それらを原料とする食品)

 ・油

 ・香辛料

 ・魚介類

 ・肉類

 ・乳製品

 ・皮革

 ・酒類

 ・綿や羊毛や麻等の繊維や衣服

 ・医薬品

 ・ガラスや光学機器等の工業製品

 ・鉱物資源

 ・セメントやその原料

 ・木材や薪

 ・紙製品

 特に魚介類や肉類、乳製品等は、肥前国の冷蔵や冷凍機能を持った輸送会社撤退しているため、山間部や海岸から離れた地域では同じように跳ね上がった。

 保管ができないために、手に入らない事態となったのである。

 駆け込んできた近習の報告に、信秀は顔を蒼白にした。

「各地の蔵に備蓄はなかったのか!」

「はっ、州の蔵は開かれましたが、そのほとんどが肥前国より買い入れた品。民の求めを満たすにはあまりに少なく、一日もたずに底をつきました! 今や市中では、一升の塩が米一俵と同じ値で取引される始末にございます!」

 勝政が苦虫を噛み潰したような顔で補足する。

「殿、塩がなければ蔵に食を保てませぬ。漁に出た者らも、獲った魚を塩づけ能わず、多くを腐らせて捨てておるとのこと。このままでは、冬を前にして領内に飢える者があふれましょう」

「くっ……!」

 信秀は拳を強く握りしめた。

 軍備を整える。経済を自立させる。その計画が、あまりに絵空事であったことを痛感させられる。足元が、いや、民の腹の中が空になろうとしているのだ。

 その時、これまで沈黙を守っていた武井十左衛門が、静かに、しかし怒りを滲ませた声で言った。

「……これが奴らの狙いか」

 信秀と勝政の視線が、十左衛門に集まる。

「戦を仕掛けてこぬ、と申しましたな。とんでもない。戦はとうに始まっておりました。我らが気づかぬうちに、我らの喉元に刃を突きつけておったのです。肥前国は、戦を起こさずして、我らを内から崩す気でおりますぞ」

『こちらが仕掛けねば、あちらからは無きかと』

 数日前の己の言葉が、愚かしく響く。

 大義名分など、必要なかったのだ。

 人々が生きていくために不可欠なものを絶つ。それこそが、何よりも強力な『兵糧攻め』であり、最も効果的な『宣戦布告』だった。

「如何いたす……」

 信秀の口から、うめきのような声が漏れた。

「十左衛門、三左衛門、如何すればよいのだ! このままでは肥前国と戦うどころか、我が国がもたぬぞ!」

 圧倒的な軍事力に加え、経済という名の首輪をつけられていたという現実。織田家は、為す術もなく絶望的な状況に追い込まれていくのであった。

 次回予告 第887話 (仮)『白装束』

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