第882話 『信長の病状』 

 慶長四年十一月十六日(西暦1600年1月2日) 岐阜城

「馬鹿な! 目通り叶わぬだと! 貴様、わしが浅井備前守と知っての事か! 義兄あにの見舞いも出来ぬなど聞いた事がない! 今一度とりつくのだ!」

 浅井長政は怒りを露わにしたが、城兵は冷静である。

「御容赦くださいませ、備前守様。上様は病にせられており、今は誰も……」

然様さよう(そんな)な事は貴様に言われずとも知っておる! なればこそ先触れを出し、腕木にて重ねて知らせたのだ。この上目通り叶わぬなど、ワシを愚弄しておるのか!」

 長政は怒りを表すが、とりつく島もない。

 どうにも様子がおかしいのだ。

 義兄である信長との面会もできないとは考えられない。

 それほど悪いのか?

 長政の脳裏に不安がよぎる。

「おや、これは備前守様、いかがなさいましたか?」

「おお、これは十左衛門殿ではないか、いやいや、何とかしてくれぬか。義兄上にお目通りならんと、この者は融通がきかずに難儀しておったのだ」

 所用で通りかかった武井十左衛門に長政は声をかけた。

「これは……備前守様、誠に申し訳ございません。実は、上様は臥せたままでございまして、侍医によれば何人たりとも目通りは控えるようにとの事」

 十左衛門は困った表情を見せたが、どこか決まりきった話しぶりで、淡々と話している。

「目通りならぬと? 然程さほど(そんな・それほど)に重いのか?」

 長政は驚いた。

「はい。備前守様といえども、同様でございます。それに今は眠っておられまして……」

 十左衛門は言葉を濁した。

「もし上様がお目覚めになり、病状を見て障りなければ、目通りもあたうかと存じますが……」

「然様か……ならば致し方あるまい。それまで待たせてもらおう」

 長政はしぶしぶであったが、納得するほかなかった。

 しかし、その時――。

 城内の廊下を歩いてくる人影が目に入った。

 小佐々家の七つ割平四つ目の家紋をつけた医者らしき男だった。

「もし、其処そこの方」

 長政は声をかけた。

「はい、何でございましょうか?」

 振り返った男は、50過ぎと思われる落ち着いた風貌の医師である。

「それがしは浅井備前守と申す。貴殿は上様の侍医でいらっしゃるか?」

「ああ、これは備前守様、ご挨拶が遅れました。拙者は小佐々家中の医師、野間弦斎と申します。こたび、殿下の命を受け、上様の侍医となり申した」

 弦斎は丁寧に頭を下げる。

「肥前州では戸塚雲海の同輩にて、諫早より参りました」

「戸塚殿の……それは心強い」

 長政はホッと胸をなでおろした。

 戸塚雲海は能登畠山氏の侍医として、その名を畿内にとどろかせていたのである。

「して、義兄上の病の様はいかがであろうか?」

「確かに重篤ではございますが……」

 弦斎は慎重に言葉を選んだ。

「面会をお受けできないほどではございません。立会いのもとならば、入室も能うかと存じます」

「何と?」

 十左衛門の説明と食い違っているではないか。

「弦斎殿、それでは義兄上との目通りを願えるか?」

「はい。拙者立会いならば、障り(問題)ございません」

 弦斎は確信を持って答えた。

「|然《さ》れど、あまり長くの目通りは避けていただきたく存じます」

「承知いたした。然らば、頼む」

 長政は弦斎に案内され、信長の寝室へ向かった。

「城兵の者が面会謝絶と申しておったが……」

「それは恐らく、家中の方々が案じ過ぎたるため(過度に心配して)かと存じます」

 弦斎は慎重に答えた。

 自分はあくまで小佐々家家中の者。

 他家である織田家中のことを、あれこれ詮索すべきではないと考えての事である。

「確かに重い病ではございますが、意識もはっきりしておられますし、短時間の面会であれば問題ございません」

 信長の寝室は薄暗く、線香の香りが漂っていた。

 床に臥せる信長の姿は、確かに痩せこけていたが、目に力があった。


「おお、新九郎(長政)か……よくぞ来てくれた……」

 四半刻(30分)ほど後に起き上がった信長の声は弱々しかったが、長政を認識していた。

「義兄上、お加減はいかがですか?」

 長政は信長の枕元に座った。

「まだ……死ぬわけにはいかぬ……」

 信長は苦しそうに答えた。

「上介がいなくなって、織田家の行く末が心残りでならぬ……」

「お二人のご子息様は立派に成長なさっております。案ずるには及びません」

「然様か。それは良かった……」

 信長は少し安心したようだった。

 しばらくして、意を決して長政に告げる。

「義弟よ……頼みがある……」

「何でございましょうか?」

「もし……もしワシに何かあったら……信秀と信則を頼む……」

 信長は必死に言葉を絞り出した。

「まだ若い……家中をまとめるには……験が足りぬ……」

「義兄上、然様な弱気な事を……」

 長政は慰めようとしたが、信長は続けた。

「新九郎……平九郎の事をどう思う?」

 信長は突然、核心的な質問をした。

 純正と二人きりのときしか『平九郎』と通称では呼ばない。

「殿下の事でございますか?」

「平九郎の政道……ワシは……受け入れると約した……然れど……」

 信長の目には不安の色が浮かんでいる。

「家中には……反対する者も多い……」

「義兄上のお考えをお聞かせください」

「ワシは平九郎を信じておる……あやつの政道は民のためになる……新九郎、お主はいかが致す?」

 信長は長政を見つめた。

「平九郎に従うか、それとも……」

「それがしは……義兄上のお考えに従います」

「そうか……ありがたい」

 信長の表情が穏やかになった。

「頼む……。織田家を。正しい道に導いてくれ……」


 面会を終えて部屋を出た長政は、複雑な心境だった。

 信長の真意は純正への支持だったが、家臣団には反対勢力も多いようだ。このままでは、織田家は分裂してしまうかもしれない。


 一方、岐阜城の別室では、織田家の重臣たちが集まっていた。

「皆の者、集まってもらって済まぬ」

 奥田三右衛門(直政)が口火を切った。

「ご承知の通り、中将様のお体が思わしくない。万が一の事があれば……」

「然様な縁起でもない事を仰せにならないでください」

「然れど、現の様を見て(現実的に)考えておかなければなるまい」

 蒲生忠三郎(氏郷)が制すると、堀久太郎(秀政)が冷静に言った。

「もし上様に何かあれば、三郎(信秀・史実の織田秀信)様が織田家の当主として、家を引っ張っていかなければならない」

「然り」

 久太郎がうなずいた。

「信秀様はまだお若い。我々がしっかりと支えなければならない」

「然れど家中の考えがまとまっておらぬのは、このさき障りとなりましょう」

 忠三郎が指摘した。

「十左衛門殿(武井)や三左衛門殿(柴田勝政・43歳)は、殿下の御政道に反対している」

 柴田勝政は勝家の養子で家督を継いでいる。

 十左衛門が内政や外交(他州との折衝)を取り仕切り、勝政は治安維持や、いわゆる軍事面で権力を握っていた。

 勝政は秀政らと同世代ではあったが、父親の勝家が存命なため、織田家中で随一の派閥だったのである。

 堀秀政や奥田直政、蒲生氏郷らの肥前遊学組は各分野に分散して活躍しており、糾合すれば対抗勢力となりえたが、不安要素は多い。

「一方で、我らは殿下の御政道を推し進めておる。上様の真意を殿へ伝えし、正しい判を下していただかねばならん」

「同じく」

 久太郎(堀秀政)の提言に忠三郎(蒲生氏郷)と三右衛門(奥田直政)が同時に答えた。

「織田家を正しい道に導くために、我々も全力を尽くそう」

 三人は決意を新たにした。


「おかしい。何ゆえだ……」

 信長の寝所から居室に戻った弦斎は、診察の記録をみながら考え込んでいた。


 次回予告 第883話 (仮)『寿命と病状と織田家中』

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