第869話 『守りなき竜』

 慶長四年四月十二日(西暦1599年6月4日) アスト部領域との境 チャハル部臨時宿営地

 春の嵐が過ぎ去った草原に、朝の光が差し込む。

 ゲルが20ほど円を描くように並び、その外側には馬の柵、さらにその外には見張りの塚が置かれていた。

 中央の大きなゲルの中、リンダンは幹部たちと共に会議を続けている。

 祖父ブヤン・セチェン・ハーンの死から2週間が過ぎ、生き残った部族民はようやくここに落ち着いたのだ。

「我らの損失は甚大だ。戦士の半数以上を失い、老人と子供を合わせても、かつての3分の1ほどしか残っていない」

 軍師のオルジェイが報告した。

 彼の顔には長い傷が走り、その目には疲労の色が濃い。

「女真は我らを追って来ぬのか?」

 リンダンは静かに尋ねた。

「いいえ。斥候の報告では、ヌルハチはハルハ部に目を向けているようです。西への追撃はしていません」

「ふむ」

 リンダンは黙って地図を見つめた。

 チャハル部の旧領土は既に女真に奪われ、今や彼らはアスト部の好意でこの地に留まっている。これは屈辱だった。

「ヌルハチは我らを恐れている」

 リンダンは突然言った。周囲が驚いた表情で彼を見る。

「恐れている?我らはほぼ全てを失ったというのに?」

 オルジェイは眉を寄せた。

「そうだ。ヤツらは我らを恐れているからこそ、追撃しなかったのだ」

 リンダンは立ち上がり、歩き始めた。ゲルの中に集まった重臣達は、固唾をのんでリンダンの次の言葉を待っている。

「ヌルハチは賢い。彼は我らを追えば、力が分散し、時間がかかることを知っている。それよりも先にハルハ部を叩き、我らが団結する前に各部族を個別に倒そうとしているのだ」

 リンダンの声は若さにもかかわらず、威厳に満ちていた。

 確かに、チャハル部のリンダンの背後にはアスト部がある。今ヌルハチが追撃をしたならば、次は我が身、アスト部も協力して必死の抵抗を見せるだろう。

「ヌルハチは効率を優先した。だが、その選択が彼の命取りとなる」

「何を?」

「我らに再建と復讐の時間をくれたのだ」

 リンダンは地図の上に短剣を置いた。その先端はチャハル部の旧領土を指していた。

「私は祖父の遺志を継ぎ、ここに誓う。チャハル部を再建し、ヌルハチに復讐する。そして北元の正統なるハーンとして、全モンゴルを統一する」

 テント内に静寂が流れた。

 若きリンダンの目には、祖父をも超える野心の炎が燃えている。彼の言葉には、単なる復讐を超えた、壮大な展望が含まれていた。

「どのように?」

 長老の一人が尋ねた。

「我らには今、十分な戦力も、資源もない」

 リンダンは微笑んだが、それは冷たく、計算高い微笑だった。

「ヌルハチが我らを恐れる理由がある。我らの強さの源泉をヤツは知っているのだ。だからこそ追わず、ハルハ部へ向かった」

 彼は地図のモンゴル高原全体を指さした。

「我らは正統なる大ハーンの系譜。他のモンゴル諸部族から一目置かれる存在だ。ヌルハチが恐れるのは、我らが他部族と団結することだ。だから、我らはまさにそれをする」

「具体的に、まず何をいたしますか?」

「即位する」

 その言葉に、ゲルの中の全員が息を呑んだ。

 リンダンはわずか9歳。

 その子供がモンゴルの大ハーンを名乗るつもりなのか。

 それは、あまりにも重すぎる称号だった。

 オルジェイが、震える声で尋ねる。

「殿下…それは…あまりにも早計では…」

「早計ではない」

 リンダンはオルジェイの言葉を遮った。彼の瞳は、祖父の死と女真族への憎悪、そしてモンゴル再興への強い意志で燃え上がっていた。
「今こそ、我らが一つになるべき時だ。ヌルハチは我らがバラバラであると侮っている。だが、我らが大ハーンのもとに集結すれば、ヤツらに恐れを抱かせることができる。それに……」

 それに……。

 場が静まりかえり、全員の視線がリンダンに突き刺さる。

「いま、この時、この苦しいときに即位をしてこそ、誰が敵で誰が味方かわかるのだ」

 リンダンの言葉は、幼いとは思えないほどの重みを持っていた。

 苦境の中でこそ、真の忠誠が見抜ける。

 そして、モンゴル再興という大義を掲げれば、ヌルハチによって故郷を追われた者、明に反感を抱く者、そして何よりも、モンゴルの誇りを取り戻したいと願う者たちが、自然と集まってくるはずだ。

「わかりました」

 オルジェイは、震える声で答えた。リンダンの瞳に宿る揺るぎない決意は、彼の迷いを打ち砕いたのだ。

「直ちに、大ハーン即位の儀の準備に取りかかります。規模は小さくとも、モンゴルの伝統に則り、盛大に行いましょう」

「アスト部への使者は?」

 リンダンはオルジェイを見つめた。

「さっそく手配いたしましょう。アスト部のノムダラ・フルチ・ノヤンは先々代のトゥメン・ジャサクト・ハーンの執政でした。我らの境遇に同情しておられます。きっと協力を惜しまないでしょう」

「よし、他の部族にも使者を送れ。トゥメト、オルドス、ヨンシエブ、ハルハ、ウリャンカイ……全てのモンゴル部族に、私が大ハーンとして即位することを伝えよ。そして、ヌルハチという共通の敵を前に、今こそ一つになるべき時だと訴えるのだ」

 リンダンの声が、ゲルの天井に響き渡る。その言葉には、モンゴル全土を揺るがすほどの力強さが宿っていた。

「特に、オルドス部には丁重な使者を送れ。彼らは寧夏と同盟を結んでいる。寧夏との関係は、今後の我らの戦略において重要となるだろう」

「御意」

 オルジェイは深々と頭を下げた。

 リンダンの言葉は、彼らの未来を照らす光となったのである。失意の底にあった彼らに、新たな希望が生まれた瞬間だった。

「即位の儀は、来月の満月の夜に行う。それまでに、できる限りの準備を整えよ」

 リンダンの命令に、重臣たちは一斉に立ち上がり、各自の任務へと向かっていった。ゲルの中には、リンダンとオルジェイだけが残された。

「オルジェイ、我らの道は険しい。ヌルハチは強大だ。そして、モンゴル諸部族はバラバラだ。だが……」

 リンダンは、小さく拳を握りしめた。

「我らには、大義がある。祖父上の遺志を継ぎ、モンゴルの栄光を取り戻すという大義が。オレはなる。名ばかりの大ハーンではなく、モンゴル全土を統べる大ハーンとなるのだ」

 オルジェイは、リンダンの小さな肩にそっと手を置いた。

「大ハーン。私が、この命に変えても、貴方を支えましょう」

 その夜、アスト部との境に位置する小さな宿営地では、新たな時代の幕開けに向けた密かな準備が進められた。

 リンダンという名の幼きハーンが、散り散りになったモンゴルの民を結集させ、再び広大な草原にモンゴルの旗を掲げる日を夢見て。

 次回予告 第870話 (仮)『大ハーン、リンダン・フトゥクト・ハーン』

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