第856話 『大明皇帝朱翊鈞と肥前国王純正』

 慶長三年十月一日(西暦1598年10月30日) 開封府

「直茂よ、オレは初めて大陸に来たが、やはり北京の紫禁城を訪れてから開封府に来てよかったの。都なれば、その国のすべてが集まっておるであろう? ゆえにその国の力とそのゆえんの何たるかが分かるのだからな」

「は、仰せのとおりにございます」

 純正は明が遷都した開封府へ向かう前に、現在寧夏の占領下にあり、明の都であった北京の紫禁城を訪れ、見聞を広めてきたのだ。

「紫禁城は壮麗であった。あの巨大な城壁に幾重にも連なる殿舎。明の威光をこれほどまでに形にした建築は他にあるまい。然りとて……」

 純正は小さく息をつき、話を続けた。

「あくまで過去の、ではあるがな。今は明国人の官吏も衛兵もおらぬ。主が違うだけで、こうも趣が違うのか」

 寧夏が紫禁城を占拠し、北京が陥落してからわずか三ヶ月である。在りし日の栄華を物語ってはいるが、明の都としては死に絶えているのだ。

「は、おそらくは明は再びこの地は踏めぬでしょう。そうなるよう我らが計らわねばならぬのですが、殿下は何かお考えがあるのでしょうか」

 純正はふふふ、と笑い、直茂に答える。

「答えなぞない。然りとて三国が程よく競うよう、仕向けねばならぬであろうて」




 開封府――。

 北宋の『東京』として栄えた古都であり、三重の城壁に囲まれた複雑な路地と水路が特徴的である。

 北京の碁盤目状の街並みとは違い、ここには人々の営みが幾重にも重なり合っていた。

 避難民と物資を運ぶ荷車が行き交い、江南からの米や塩を積んだ船が運河沿いに並ぶ。

「さすがに遷都したばかりの様相は拭えぬな。明はいまだこの地に根を張りきれてはおらぬ」

 純正は開封府の街並みを眺めながら、考えている。

 ここで暮らす民も、諫早の民も、言葉や習慣が違うだけで、何ら変わりはないのだ。自らの意志に関わらず、人生を為政者によって左右される。

 現在でも、環境によって人は変わるのだ。

 ましてこの時代においては、なおさらである。

 生存権や幸福追求権などの概念すらない。

「殿下?」

「お、おう。如何いかがした?」

「会見の準備にかなり時がいるそうにございます」

然様さようか。まあ、いろいろと考えるところがあるのだろう。まあよい、開封を見物して時を過ごそうではないか」

「はっ」




「首輔よ、朕はどのようにして純正と会うべきか」

 万暦帝が未経験の謁見の方式について、内閣首輔の趙志高に尋ねている。

 しかし、趙志高にしても経験がないのだ。

 明朝の歴代皇帝は、朝貢国の使者と謁見はしても、対等の立場で会見などしなかったからである。

 明朝だけではない。

 大陸初の統一王朝の皇帝である始皇帝が始めたしん王朝から、1,800年以上対等の会見など存在しなかったのだ。

「陛下、申し訳ございません。臣は浅学にて、どの礼式にのっとって会うべきか存じません。しかし、ここで不用意に陛下の威を損じ、また逆に肥前国の威を損なえば、天朝の先が危ぶまれます。そこで、澳門の仏狼機フランキ(ポルトガル人)どもに話を聞きに行かせておりますので、相応の礼をもって迎えましょう」

「うむ、朕と天朝の威光を汚さず、相手を尊ぶ方法を見つけるのだ。供応のうたげを開き、時を稼げ」

「ははっ」

 純正が万暦帝に会見を申し込んだ際、すぐには実現しなかったのは時間がかかるためである。その理由がここにあった。




 会見場には明国皇室の象徴である龍紋旗りゅうもんきが掲げられ、一方で小佐々家の家紋である七つ割平四つ目の旗も掲げられている。

 上下の関係ではなく、横に並んでいるのだ。

 万暦帝は数段高い玉座に座るのではない。卓を設け、玉座から降りて立ち上がり、入室した純正を迎え入れたのだ。

「ようこそお越しくださいました。肥前国の王、小佐々平九郎殿、朕は大明皇帝の朱翊鈞よくきんです。こちらへどうぞ」

「お迎えいただき、ありがとうございます。肥前国の王、小佐々平九郎純正でございます」

 実際には、凋落ちょうらくが著しい大明帝国の皇帝である万暦帝と、世界に冠たる大帝国、肥前国の王である純正との会談である。

 純正は争いを起こしに来たのではなく、和平交渉の仲介をするために訪れたのだ。

 相手を威圧するのは最終手段であり、穏やかに物事が進むのであれば何の問題もない。

「では陛下、いろいろとお考えでしょうが、お互いが国を代表して話をするのです。互いを陛下と呼び合い、自らを余や朕と呼ぶのはいかがでしょうか」

 万暦帝の脇で、通訳官が真剣な顔で冷や汗をかきながら訳している。

 純正の一言一句を誤って訳してしまうと、極刑もあり得るからだ。

「通訳官の方も肩肘をはらずに、聞こえづらく、また訳しづらければ、遠慮なく言ってください」

 いんぎん無礼ではなく、普通の気遣いである。

 もちろん、純正サイドには通訳がいて、万暦帝の意図を正確に伝えるために数人で訳し合い、齟齬そごが生じないよう努めていた。

「では、そういたしましょう。……さっそく本題ですが、貴国との間に不幸な誤解が生じ、大きな戦いとなりました。わが国としては十分な補償をしつつ、今後の貴国との友誼ゆうぎを考えていたところです。それで、今回はどういったご用件なのでしょうか?」

 純正は静かにうなずいた。

 皇帝と直接言葉を交わすケースはめったにない。

 使者はもちろんだが、国王であっても朝貢国の国王は臣下として扱われていたのだ。

「ならば直接申し上げましょう。寧夏国の哱承恩ぼしょうおん王が、保定府より南への進軍を止めると同意しました。余からの提案で、保定府を南限とし、北の領土はそのまま寧夏国の統治下に置ければ、停戦に応じるとの了解を得ました」

 万暦帝は一瞬表情を硬くしたが、すぐに冷静さを取り戻した。

 海を越えて、あの、肥前国王がわざわざやってきたのだ。

 ただ事ではないとは感じていたが、やはり寧夏と女真との戦いに関することである。

「寧夏との和平、ですか」

「はい。満州国軍は遼東で蒙古連合軍と戦っています。これを好機として三国の境界を定めれば、互いに利があるかと」

「では、平九郎陛下は仲介者としてお越しになったと?」

 純正は万暦帝の言葉を受け、ゆっくりと続けた。

「そうです。寧夏国も貴国も、これ以上の戦いは望んでいないでしょう。今こそ、和を結ぶべき時。余はそう考えます」

 万暦帝は深いため息をついた。北京を失い、開封への遷都を余儀なくされた。それでも、ここで和を結べば明の存続は確実となる。

 が……。

「なるほど。御用向きはよく分かりました。しかし今、わが軍は民の士気も高く、失われた土地を取り戻そうと意気込んでおります。寧夏の軍を押し戻す時期が来たとも考えられますが?」

 しばらくの間、静寂が訪れた。




 純正は万暦帝の次の言葉を待ち、万暦帝は純正の反応を見ている。

「本当にそうお考えですか? 確かに満州国軍が備えを残して遼東に退いた今、寧夏に攻勢をかければあるいは、と考えられなくもありません。が、勝てますか?」

 再びの沈黙である。




「……いえ、忘れてください。確かに今が好機かもしれません。寧夏との和睦は重臣たちと協議し、結論を出しましょう」

 万暦帝は、別に純正にカマをかけたわけではない。

 自分の考え、可能性を第三者に聞いてみて、どう答えるかを見たのだ。

 理解してはいたが、防戦から反撃に転じたとしても、寧夏に勝てる保証はない。寧夏もまた、防衛線を築いているに違いないからだ。

 それに寧夏と和議を結んだとしても、女真とは結ぶわけにはいかない。なぜなら失われた土地を取り戻すために、登州の民が蜂起しているからである。

「……しかし、一つ問題があります」

「なんでしょう?」

「女真です。いや、今は満州国というのでしたね。その満州国に奪われた登州に関しては、このまま放置するわけにはいきません。民は土地を取り戻すために立ち上がっています。ここで取りやめれば臣民の怒りは収まらず、天朝への恨みとなります」

「進めていいのでは?」

「はい、え?」

 万暦帝は思わず聞き返してしまった。

 和議をあっせんに来た純正が、女真との抗戦を肯定したからだ。

「よろしいのでは、と言ったのです。もとより余の望みは、中華思想を持つ大国が現れないことです。貴国が寧夏と和議を結べば、その望みは半分成った。寧夏にとっても利があります。加えて満州国と貴国が戦っても、今のわが国にとって害にはなりません」

 この状態で明と女真が争っても大陸は二分されない。

 おそらく両者は膠着こうちゃく状態に陥り、いずれは休戦に至るだろう。

 純正が言っているのは、そういうことなのだ。

「なるほど。ではわが国が登州奪還に向けて動いたとしても、静観すると?」

「静観も何も、貴国内でのことです。わが国は口を挟めません」

 どの口が言っているのだ? と万暦帝は思ったが、間違っても口には出さない。

「なるほど、であれば、朕としても異論はありません。早急に結論を出しましょう」

「よろしくお願いします」

 かくして明・寧夏の戦争は休戦となり、明は女真との戦いを続けていくことになった。




 次回予告 第857話 (仮)『操られし戦乱――純正の手のひら』

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