第467話 『逆転の一手』

 慶応五(明治二)年四月一日(1869年5月12日)

「それがしの不徳の致すところ。誠に申し訳ございませぬ」

 詮議が終わって半刻ほど過ぎた頃であった。

 京都に構える大村藩邸の一室で、根岸主馬が畳に額を擦り付けんばかりに頭を下げている。

 その声は悔しさと責任感で震えていた。日中の詮議方で、幕府側の緻密な実務論の前に有効な反論ができなかったからである。

 その無力感が、彼の全身を苛んでいた。

「面を上げよ、主馬。そなた一人の責ではない」

 部屋には次郎と純顕、他にも数名の大村藩重臣が集まっている。しかし、主馬を責める者は誰もいなかった。全員が今日の議論の厳しさを理解していたからである。

 重苦しい沈黙が室内を支配した。

「あれは、我々の落ち度だ。相手の力と策を、いささか見くびっておった」

 次郎が静かに声をかけた。

 脳裏には今日の詮議の光景が鮮明に焼き付いている。

 井伊直憲の落ち着いた物言いと加藤丹後守が淡々と読み上げる数字の羅列は、一部の隙もなかった。そして、末席で静かに控えていた渋沢栄一の姿。

「中納言様は戦のやり方を変えてきた。我らの大義を否とするのではない。認めたうえで時期尚早としたのだ。されどこれは大きな一歩である」

「と、仰せになりますのは?」

 主馬が次郎に聞き返した。

 慶喜が当初掲げた『徳川の安寧こそ日本の安寧』の理屈は、正直なところ時代錯誤である。

 ペリー来航より15年。

 日本の外交だけでなく、内政においても大村藩の存在感は誰もが知るところなのだ。

 現実が見えない守旧派の戯言と切り捨てられる危険をはらんでいたが、時期尚早と主張を変えれば反論の矛を収められる。その上主導権は幕府が握ったままだ。

 しかし、徳川こそ公儀であるとの考えの牙城を崩したのは大きい。

「二百五十年の功は確かにあろうが、すでに有名無実になってはおらぬだろうか。つぶさに答えれば良かったのであろうが、備えが足りなかった。考えても見よ、木曽の御用林や佐渡の金山、細かな差配は帳面に記して齟齬のないよういたせばよし。各藩の利が絡むのであれば不正を防ぐための法を設ければ良い」

「しかり」

 次郎の言葉に、純顕が深くうなずいた。

「彼の者らは差配の煩わしさを盾に取りおった。長年の慣習と文書にならぬ約束事。いかにも難しげに聞こえるが、要は仕組みが古すぎるのだ。我が家中のごとく全てを文書に起こして誰もが検分できる形にすれば済む。そうであろう、次郎よ」

「はは」

 純顕の言葉が部屋の重い空気を少しだけ払った。

 藩主自らが明確な意思を示したのであるから、臣下にとって何よりの力となった。

「されど理屈だけでは人は動きませぬゆえ、こちらも公儀党に負けぬ数の根拠を示さねばならぬ」

 次郎は冷静に続けた。

「主馬、只今幕府の御料所の歳入がいかほどで、費えがいかほどかつかんでおるか」

「……面目次第もございませぬ。公表されておる大まかな数字はつかんでおります。されどその内訳となりますと……。幕府の帳面はことに煩わしゅうございます。差配に携わる者でなければ、全てを掴むは難しかと」

「うむ、助三郎、これへ。殿もご覧ください」

 次郎は部屋の外に控えていた助三郎を室内に呼び込むと、何やら書面を受け取って内容を読む。

「やはり……」

「御家老様、いかがなさいましたか?」

「これで、勝てる」

 次郎の確信に満ちた声に、部屋にいた全員の視線が彼の手元にある一枚の書面に注がれた。

「次郎、その書面は一体……? 『やはり』とは、何が書かれておるのだ」

 純顕が問いかけた。

 主馬も固唾をのんで次郎の次の言葉を待っている。

「は。助三郎ほか隠密方が、我らのために命懸けで手に入れてくれたもの。幕府勘定方の帳簿の写し、その要点でございます」

 !

 万座がざわついた。

 次郎は書面を純顕と主馬の前に広げる。

 そこに記されていたのは、簡潔だが衝撃的な数字の羅列であった。

 幕府財政覚書(元治元年)

 歳入総額:10,760,681両

 内、貨幣改鋳益:7,143,717両

 歳出総額:11.120,692両

 内、改鋳経費:4,894,650両

「こ、これは……」

 数字の意味を理解した瞬間、主馬の顔から血の気が引いた。勘定奉行として、この帳面の異常さは一目で分かったのである。

「馬鹿な……。歳入の実に三分の二が、貨幣改鋳による益にございますか! いささか古い三年前の覚書ではありますが、最後の改鋳は八年前の万延の砌。それよりは改鋳はございませぬが、これではただのその場しのぎではございませぬか」

 幕府の改鋳は、外国とのレート問題ではなく、単純に幕府の財政再建のための改鋳の意味合いが強かった。

「然り。加えて歳出を見よ」

 次郎が指し示した先には、さらに信じがたい事実が記されていた。

「その場しのぎの益を得るために、歳出の四割以上もの大金が費やされておる。主馬、差引はいくらになる」

 次郎に問われて主馬は指を折り、あるいは頭の中で瞬時に算盤を弾いて震える声で答えた。

「歳出総額、千百十二万六百九十二両。対し、歳入総額、千七十六万六百八十一両。……差し引き、三十六万十一両の、赤字にございます……!」

 36万10両。

 そのあまりに具体的で絶望的な数字が、部屋の空気を凍りつかせた。

 井伊直憲や加藤丹後守が語った長年の経験と複雑な実務という言葉が、この絶対的な事実の前ではあまりにも空虚に響いた。

 どんなに言葉を飾っても、結果が伴っていないのである。

「加えて、改鋳を除いても百二十七万両の赤字である。これがすべてを物語っておる」

 ■数日後、詮議方

「各々方、ここ数日考えを通わし、大いに論議してまいりましたが、大きな落とし穴がございました」

「ほう、いかなる落とし穴にございましょうや」

 次郎の発言に井伊直憲と加藤丹後守が敏感に反応した。

「先日お話いただいた木曽の御用林や佐渡の金山などなど、御料所の子細なる差配云々は得心いたしました。さりながら一つ、大きな題目を忘れておりました」

「題目とはいかなる……」

 次郎は2人を含めた政体党全員を見回して、ゆっくり話す。

「それはその幕府の御料所のただいまの差配にて、いかほどの益を得て、いかほどの費えとなっておるのか。国家の大事ゆえ、いずれは議会に移すとのお考えは真に正しきものなれど、歳入より歳出が多いようでは、これは速やかに移さねばならぬ儀かと存じます」

「そ、それは幕府から出納帳を出せと仰せか?」

「然に候。正しき数を知らねば、可決も否決もございませぬ」

「……」

 場が静まり返り、閉会となった。

 次回予告 第468話 (仮)『委員会から本会議へ』

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