慶長八年七月四日(西暦1603年8月10日) イギリス ロンドン
エリザベス1世は1603年3月24日(69歳没)で、1603年4月28日に埋葬されていた。
葬儀にはイギリスの日本領事館から参列していたが、今回は純正と純勝、皇帝と皇太子の訪英である。
「父上、女王の治世は五十年近くに及びました。イングランドの民は、新しい王に期待と不安を抱いているはず。特に、スコットランド人であるジェームズ王に対し、イングランド貴族の感情は複雑でしょう」
純正は腕を組んで舷窓の外に広がる灰色の北海に目を向けた。
エリザベスという絶対的な君主を失ったイングランドは、大きな転換期にある。ジェームズ1世は、文化も法も異なる2つの国家を1つにまとめ、国内の基盤を固めなければならない。
その舵取りは決して容易ではないだろう。
「平十郎よ、正直なところ、あまりイングランドには関心がないのだ。今、我が国は彼の国と交易をしておるが、それだけじゃ。味方は多いに越したことはないが、恐れとは成り得ぬ。凋落著しいイスパニアの新大陸に、今後はイングランドとオランダ、そしてフランスが入植していくだろうが、大陸を西へ西へと進んで来ぬならばオランダに任せておけば良い」
日葡蘭の強力な同盟が結ばれた以上、イギリスもフランスも、敵対しないほうがいいのは理解しているはずだ。
日本としてはべったりしすぎず、普通に接していればいい。
そう純正は考えていた。
これ以上同盟国が増えれば、利害関係がややこしくなって同盟が意味をなさなくなる。
「では何ゆえ会いにいくのです?」
「アンリ4世と同じだ。敵にしろ味方にしろ、いかなる男かしっておいて損はなかろう。それにオレがここにいるのは主要国は誰もが知っているのだ。弔問しなければ礼を失する」
純正は、まずジェームズ1世に宮廷での正式な弔問を行い、その後にウェストミンスター寺院での個人的な祈りを捧げ、滞在先の地元の教会で祈りを捧げる予定を立てた。
異なる宗教ではあるが、偉大なるエリザベス1世の弔問をしたいと申し出たのである。
ここで拒否されればそれだけの国であり、別にそのまま帰国しても良かったが、イギリスはそうしなかった。すでに通商があって日本がどんな国なのかを理解していたからである。
ロンドンに到着した翌日、一行は弔問のために黒を基調とした厳かな礼装に身を包んだ。
華美な装飾は一切排し、故人への敬意を示す。
馬車がホワイトホール宮殿の門をくぐると、前回の会談とは明らかに異なる静かで重々しい空気が一行を迎えた。宮殿の衛兵たちも、腕に黒い布を巻いている。
謁見の間にはジェームズ1世をはじめソールズベリー侯爵ロバート・セシルや、イングランドの重臣たちが勢揃いしていた。彼らの表情もまた硬い。部屋の壁には、今は亡き女王への弔意を示す黒い布が掛け渡されていた。
純正は静かに歩みを進め、ジェームズ1世の前で恭しく一礼した。
「この度は、偉大なる女王エリザベス陛下の崩御に際し、大日本帝国を代表して、心より哀悼の意を表します。女王陛下の長きにわたる統治は今後のイングランドに繁栄をもたらし、その名は歴史に永く刻まれることでしょう」
純正は通訳を使わずに自ら弔事を述べた。
転生者である純正は英語が話せたがアメリカ英語である。
多少の違いは訛りとして許容範囲で通じたようだ。
ジェームズ一世は玉座から静かに純正を見つめていた。
「皇帝陛下の温かいお言葉に、心から感謝申し上げるます。母なる女王の死は、我々にとって大きな悲しみです。陛下の弔問は、我らイングランド国民への大きな慰めとなるでしょう」
彼の返答は儀礼に則った丁寧なものだった。
しかしその瞳の奥には、純正が何を考え、何を求めているのかを探る鋭い光が宿っている。
純正は続けた。
「女王陛下が築かれた平和と繁栄を、ジェームズ1世陛下が受け継がれました。イングランドが更なる発展を遂げることを確信しております。我が国は新しき時代のイングランドと、変わらぬ友好関係を築けることを願っております」
この言葉は弔意の表明であると同時に、新体制との国交継続を望む明確な意思表示でもあった。
ジェームズ1世はわずかにうなずいて、短い言葉で応じる。
「我が国もまた、貴国との友好を望んでおります」
「陛下」
傍らの国王秘書長官であるロバート・セシルがジェームズに耳打ちした。
「平九郎陛下、イングランドにはどのくらい滞在されるのですか?」
ジェームズは純正に聞いた。
巨大帝国である日本と親交を深めて、エリザベス1世の統治後期に黒字化した財政を、さらに安定させようとの目論見であった。
「そうですね、ウェストミンスター寺院にも伺おうかと思うので、数日は滞在したいと考えています」
純正の言葉にジェームズ1世の表情がわずかに緩んだが、その変化を隣に立つロバート・セシルは見逃さない。
「それは好都合です。滞在中、我が国の宮殿を自由にお使いください。歓迎の宴も設けたい」
その王の性急さをいさめるように、セシルが前に一歩進み出た。
「皇帝陛下、もしよろしければ、滞在中に両国の交易拡大について、実務者間での協議の場を設けてはいかがでしょうか。我が国の商人たちも、貴国との新たな商機を心待ちにしております」
彼の言葉は、王の漠然とした期待を具体的な国益へと繋げようとする現実的なものだった。
純正は、冷静にセシルを見返す。
「よろしいでしょう。こちらの担当者にも準備をさせます。有意義な話し合いを期待しましょう」
純正の返答は、申し出を快く受け入れたように聞こえる。
しかし、イギリスとどんな交渉をすれば、日本の国益に叶うだろうか?
純正は考えた。
アフリカ~インド~アジア交易は日本とポルトガルがほぼ独占しているし、そこにオランダが入ってwin-winの関係をすでに築こうとしている。
イギリスやフランスの入る余地はあるだろうか。
今後、イギリスは凋落著しいスペインのカリブ海・中米・北米への入植を加速させて、そこから富を獲得するしか方法がないのだ。
しかし、それはオランダやフランスも同様であるから、今以上に英仏蘭による島嶼争奪戦・植民地争奪戦が激化するだろう。
日本としてはまったく関与するつもりはない。
純正は内心で苦笑した。
イギリスの現状を冷静に分析すれば、互いに利益になる交易品は限られている。
「セシル卿、具体的にはどのような交易をお考えでしょうか?」
純正の問いに、セシルは準備していた資料を取り出した。
「我が国は羊毛製品、特に高品質な毛織物の生産に長けております。また、錫や鉛などの鉱物資源も豊富です。貴国からは香辛料や絹織物、陶磁器などをお求めいただければと」
純正は静かにうなずいた。予想通りの申し出である。
「なるほど。しかし、香辛料に関しては既にポルトガルとオランダが我が国の主要な取引相手となっております。絹織物や陶磁器についても、我が国は自給自足が可能です」
ポルトガルもインドと東南アジアに権益を確立していて、同じ香辛料でも産地によってそれぞれブランディングがすでになされていたのだ。
セシルの表情がわずかに曇る。
「では、新たな交易品目についてはいかがでしょうか。我が国の技術者による時計製造技術や、造船技術などは」
セシルほどの人物が知らないはずがない。
数年前にイギリスの商船が日本を訪問した際に、日本の技術力に驚愕し、伝わっているはずだ。
カマをかけているのだろうか。
「時計については我が国でも製造しておりますし、造船技術も十分に発達しております」
純正の冷静な返答に、ジェームズ1世が身を乗り出した。
「皇帝陛下、我が国は新大陸への進出も計画しております。そちらでの協力関係は築けないでしょうか?」
純正は首を横に振った。
「申し訳ございませんが、我が国は現在の領土運営で手一杯なのです。ゆえに新大陸への関与は控えさせていただいております。あの地域は貴国をはじめ、フランス、オランダ、そして衰退しつつあるスペインの競争の場となるでしょう。我々はそこに介入するつもりはありません」
本音を言えば北米大陸は内陸部へ進出してイギリスやフランスの西進を防ぎたいところであったが、ここであえて言ってしまえば険悪になる可能性がある。
そのためにあえて言わなかったのだ。
純正は少し間を置いてから続ける。
「しかし、1つ提案があります。我が国のアラスカや樺太・千島など北部沿岸で産出される毛皮類、特にラッコの毛皮については、販売できるでしょう。欧州の市場ではポルトガルやオランダと競合となるかもしれませんが、いまのところ両国の申し出はありませんので」
セシルの目が輝いた。ラッコの毛皮は欧州では極めて高価な商品である。
「それは素晴らしい提案です。数量や価格についてはいかがでしょうか?」
純正は担当官を呼んで確認する。
「年間でラッコ毛皮500枚程度が限度でしょう。これ以上は乱獲となります」
純正の言葉に、セシルは素早く計算を始めた。
ラッコの毛皮は欧州市場では1枚あたり20~30ポンドである。同時期の正規歩兵の年収が10ポンド前後だった事実からも、かなりの高級品であるのがうかがえる。
500枚であれば年間1万から1万5千ポンドの価値となるのだ。
「価格についてはいかがでしょうか?」
「1枚あたり15ポンドでいかがでしょう。ただし、銀貨での支払いを希望します」
セシルの表情が微妙に変わった。
15ポンドは市場価格と比べて決して高くないが、利益が5ポンドしかない。
それに銀貨での支払いとなると話は別である。
イギリスの銀貨準備高を考えれば、年間7,500ポンド分の銀貨流出は決して軽い負担ではない。それに加えてロンドンの年間税収に匹敵する金額なのだ。
「銀貨での支払いですか……」
「はい。我が国では銀の需要が高く、特に貨幣として使用しております。金貨でも構いませんが、その場合は為替レートの変動を考慮して価格調整が必要になるでしょう」
純正は淡々と条件を述べた。
実際のところ、日本は既に世界最大級の銀産出国であり、銀貨の需要はそれほど高くない。しかし、イギリスから何かを得るとすれば、銀貨が最も実用的だった。
ジェームズ1世が口を挟んでくる。
「他に何か交易できる品目はございませんでしょうか? 我が国の書籍や学術書などは」
純正は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、我が国では既に印刷技術が発達しており、書籍の需要は国内で賄えております。学術についても、我が国の学者たちが独自の研究を進めております。仮に学術交流が盛んになったとして、交易品としては適さないでしょう」
日本は蒸気船を実用化し、世界一周航海を成し遂げるほどの技術力を持っている。天文学や航海術においてもヨーロッパを凌駕していてイギリスの学術書から学ぶべきものは少ない。
セシルは最後の提案を試みた。
「では、我が国の鉛はいかがでしょうか? 鉛は様々な用途に使用できる有用な金属です」
純正は少し考える素振りを見せたが、同じである。
日本国内でも鉛は産出されていて、特に必要としているわけではない。
しかし完全に拒絶してしまえば交渉が決裂してしまう。
「鉛については、確かに用途の広い金属ですね。我が国でも一定の需要はあります」
純正は慎重に言葉を選んだ。
正確な数値や産出地、相場などはわからないが、概要は把握している。
「年間50トン程度であれば取引可能でしょう。価格は1トンあたり8ポンドでいかがですか?」
セシルの表情が一瞬曇った。
オランダ市場では鉛1トンが16.5ポンドで取引されているのに、日本への売値が8ポンドとは大幅な損失である。
しかし、国王からの強い要請もあった。
日本との関係を維持する政治的重要性を考えれば、短期的な経済的損失は甘受せざるを得ない。
「承知いたしました。年間50トン、1トンあたり8ポンドで」
セシルは苦渋の決断を下した。
日本との外交関係維持のためには必要な投資と考えるしかない。
純正はオランダに行った際に市場調査をしていたのだ。売買価格から原価を算出して、赤字にはなるが、年間50トン程度であればイギリスの持ちこたえるだろうと考えたのである。
20年前であれば、純正は黒鉛を輸入していた。
しかしマダガスカル島産の黒鉛を発見してからは、積極的に鉛筆の製造を奨励していたのである。
詳細は担当官同士での協議となった。
「陛下、この条件は……」
セシルが言いかけた時、ジェームズ1世が制した。
「セシル卿、何も未来永劫続ける訳ではない。確かに銀の流出は厳しいところだが、欧州市場で利益を得れば、莫大ではなくとも赤字にはならんだろう」
王の決断に、セシルは深くため息をついた。
イギリスにとっては日本と関係を継続するためだけの、利益にはならない貿易である。
それでもジェームスは日本との友好を最優先に考えたのだ。
「承知しました、陛下」
純正は2人のやり取りを見ていたが、内心で苦笑した。
明らかに日本が圧倒的に有利でなのである。
図らずも圧倒的な優位性を示し、イギリスの将来的な脅威の芽を未然に摘む形となったのだ。
同時に、完全に関係を断絶するのではなく、最低限の交易を維持することで情報収集の窓口も確保する。
「それでは、詳細な契約書の作成は実務者に任せましょう。今回の交渉が両国の友好関係の礎となることを願っております」
純正と純勝一行は宮殿を後にした。
あとは帰国するだけである。
次回予告 第920話 (仮)『帰路』

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