慶応五(明治二)年六月十二日(1869年7月20日)
「何もせず、が最上の策かと存じます」
勝の進言は、徳川の棟梁たる慶喜にとって到底受け入れられなかった。
上野介が即座に反論する。
「安房守殿、正気か。公儀の威信を揺るがす暴挙を、ただ座して見過ごせと申すか」
その語気は鋭い。
幕府官僚として当然の反応であった。
目の前で自らの統治権が蹂躙されていくのを黙認するなど、あり得ない選択である。幕府の無力さを天下に公言するに等しいのだ。
「なれば、いかがなさる。兵をもって討ちますか。大村の海兵隊には、我が幕府陸軍が束になっても敵いませんぞ。鳥羽街道が友軍の骸で埋め尽くされても良いと仰せか」
勝は冷静に現実を突きつけた。
下手に手を出せば全面衝突は避けられない。そうなれば、江戸で不穏な動きを見せる薩長に利を与えるだけである。幕府が大村藩と潰し合えば、労せずして討幕の好機を得るのだ。
慶喜もその理屈は痛いほど理解している。
マキシム機関銃と皇紀26年式(Gew88)で武装している大村軍に、勝てるはずがないのだ。
慶喜は固く唇を結び、何も言わない。
「……左衛門佐は、いったい我らに、天下に何を示そうとしておるのだ」
慶喜は声を絞り出したが、怒りと無力感が渦巻いている。
勝の言葉は正論だが、認めてしまえば徳川の敗北を意味するのだ。
その心中を察して勝が静かに答える。
「中納言様、もしや幕府の勝ち負けが云々と、さような事をお考えではございますまいな」
勝の言葉に2人の表情がピクリと動き、上野介が憤然と声を上げる。
「安房守殿、戯言を。徳川への明らかなる挑戦にあらずして、何でありましょう」
勝は静かに首を振った。
「さに候わず(そうではありません)。上野介殿は左衛門佐殿が幕府と事を構えようとしておると、そう仰せか?」
「当たり前の事を。この所業、徳川への叛意なくして何とするか」
上野介は吐き捨てたが、勝はそれには答えずに慶喜に向き直る。
「左衛門佐殿が本気で幕府を潰すおつもりなら、今頃この二条城は燃え落ちておりましょう。これは戦ではございませぬ……」
「戦ではないと? ならば何なのだ?」
慶喜が問いただすが、勝は落ち着いてはっきりと告げる。
「戦ではございませぬ。左衛門佐殿からの『問い』にございます」
「問いだと……?」
「中納言様は自らが設けられた言論の場を、自らの手で塞がれました。加えて幕権を強める行い。いかに声高に日本のためと大義を唱えようとも、これを茶番と見るは大村藩だけではございませぬぞ」
貴族院の設立は次郎の考えでもあった。
慶喜に機先を制されたが、平民院の設立や憲法制定まで進めば、思い描いた民主主義の姿に近づいていくのである。
しかし、幕権の強化につながる慶喜の行いと朝廷の切り崩しは、次郎にとって許しがたいものだったのだ。
「左衛門佐殿は、現実を突きつけているのでございます。言葉ではなく、実(じつ)をもって。加えて大村藩の力なくして、真に異国と渡り合えるとお考えか、と」
慶喜は返す言葉もなかった。
勝の指摘は、まさに幕府が目を背けてきた核心部分を容赦なくえぐり出す。
上野介が何かを言い募ろうとした、その時であった――。
タタタタタタタタッ。
乾いた炸裂音が、二条城の静寂を突き破った。
「な、何の音だ!」
上野介が思わず叫んだ。
慶喜は顔色を変えて音のした方角をにらみつけるが、ただ一人、勝だけが落ち着いていた。
断続的に響くその音は、腹の底にまで響く、乾いた炸裂音の連続である。
「始まりましたな。左衛門佐殿の『問い』にございます」
外から響く轟音こそが、次郎の問いそのものであった。
徳川にそれに応える力はない。
唇を噛みしめ、屈辱に耐えるしかなかった。
上野介が歯ぎしりする。
「中納言様、このままでは……。せめて演習の中止を厳命なさってください」
「お待ちくだされ上総介殿、もし左衛門佐殿が無視すればいかがなさる。幕府の命には何の力もないと、天下に示すだけではありませぬか」
上野介と勝のやり取りに慶喜は入りこまずに黙り込んでいる。
どちらを選んでも徳川の権威は失われるのだ。
その間も、乾いた炸裂音は絶え間なく響き続ける。
「ふう……。さて、いかがすべきか。まともに命を下せば悪手となろう。さりとて……」
上野介と勝は慶喜の次の言葉を待っているが、慶喜はため息と同時に結論を告げた。
「何もせねば無為無策とそしりを受けよう。ならば命は下さず、検分のみいたそうではないか。あくまでも大村藩の演習は幕府の許しのもと行ったと……。あえて喧伝せずとも良い。ただ検分役を送り、その体でやり過ごすのだ。その後左衛門佐に問うといたそう」
一瞬の沈黙が流れた。
外では相変わらず炸裂音が鳴り響いている。
上野介の表情に変化が生まれた。
固く結ばれていた口元がわずかに緩み、慶喜の言葉の意味を考えながら目を伏せる。やがて顔を上げたとき、その表情からは理解の様子がうかがえた。
「……なるほど」
低くつぶやいた声には、苦悩の感情が表れていた。
演習を止めることはできない。
止めようとすれば、命令が無視された場合に幕府の無力さを露呈するだけだ。だが何もしなければ、それはそれで統治能力の欠如を示してしまう。
慶喜の策は、2つの地雷原の間を縫う危ういながらも唯一の道筋であった。
検分の名目で役人を送れば、演習を容認したのではなく、監督した体裁になる。
幕府は大村藩の行動を「許可」したのではなく「把握」していた。――その微妙な差異が、わずかながら徳川の面目を保つのである。
「中納言様……仰せのとおりに」
上野介の背中には、幕臣としての誇りと、現実を受け入れざるを得ない無念さとが、複雑に絡み合って見えた。
勝は何も言わない。
自らも幕臣であり、幕府の禄を食んできた身の上である。
本来なら幕府に忠誠を尽くし、幕府のために奉公するのが筋なのだ。
が、時代がそれを許さない。
幕権強化ではこの先立ち行かぬと、現実を見据えてただ静かにうなずくのみである。
彼は知っているのだ――力で劣る者が生き延びるには、時に膝を折り、時に頭を下げ、そして時を待つしかないことを。
その時が永遠に来なくても、今は折れなければならない。
「上総介、人選は任せる。されど……」
慶喜が付け加えた。
「年若い者を選べ。老練な者では、かえって事を荒立てる」
「……御意」
上野介が立ち上がり、足早に広間を出ていった。
演習が行われる洛中の広場は、相変わらず異様な熱気に包まれている。
事前に触れは出ていた。
だが民衆の多くは、それが単なる鉄砲の稽古だと思っていたのである。
ガガガガガッ……ダダダダダッ……。
マキシム機関銃が火を噴いた。
その音は人々の耳をつんざいて腹に響く。
「……なんや、あれ」
誰かがぼう然とつぶやいた。
「鉄砲が……鉄砲がああなるんか」
見物人たちは驚きのあまり言葉を失い、ただ呆然とその光景を見つめていた。
標的の藁人形が、一瞬で木っ端微塵になっていく――。
やがて――。
人波が割れた。
「来たか。いや、お越しになったと言うべきか」
次回予告 第484話 『検分と謁見』
京の洛中で始まった大村海兵隊による『演習』。圧倒的な轟音は二条城を揺るがし、徳川慶喜に苦渋の決断を迫る。
勝海舟は、戦ではなく「大村の力なくして異国と渡り合えるか」という次郎からの“問い”であると看破する。
力での対抗が不可能と悟った慶喜は、ただ静観して権威の失墜を待つのではなく、起死回生の一手を打つ。
それは、演習をあたかも徳川が事態を掌握しているかのような体裁で取り繕う、苦肉の策であった。
民衆が畏怖の念を持って見つめる中、次郎が待ち受ける演習の場に、ついに幕府からの使者が現れる。
馬上には17歳の若武者の姿があった。


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