慶応五(明治二)年六月十一日(1869年7月19日) 大阪湾沖
大村第一艦隊旗艦『知行』の艦橋は静寂に包まれていたが、一際大きな小舟が艦隊へとゆっくりと接近してきた。
幕府の紋を掲げた舟には大阪城代の使者が乗っている。
次郎は双眼鏡を下ろし、緩く首を縦に振った。
「使者を迎え入れよ。艦長室へご案内いたせ」
江頭隼之助は、表情を引き締めて返事をする。
知行には純顕も乗艦していたが、相手が使者ならお出ましはない。
「承知いたしました」
隼之助はすぐさま艦長に指示を出し、航海科員から甲板要員に指令が伝わる。
艦内に緊張が走った。
『知行』の舷側に接舷した小舟から、慎重な面持ちの幕府の役人が恐る恐る艦内へと足を踏み入れていく。
次郎は艦長室で静かに使者を待った。
数分後、使者が入ってきたのだが、明らかに緊張しているのが分かる。
「太田和左衛門佐殿におかれましては、ご機嫌麗しく……」
使者が口上を述べようとするのを、次郎は片手を挙げて制した。
「口上は不要にござる。それがしも貴殿のご用件は存じておりますし、貴殿も答えが知りたいでしょう」
意表をつかれた使者ではあったが、内心はホッとしていた。
自分の仕事は交渉ではない。
次郎の意図の確認である。
「は、はは。仰せの通りにございます。大阪城代牧野越中守様(貞直・現貞利)より、貴艦隊がこの地において演習の由、いかなるご存念がおありなのか、確かめてまいれとの命にございました」
次郎は静かにうなずく。
「それがしの意趣は明らか。中納言様(慶喜)が公議輿論を旨として設けた議会、実のところは益なきものとなり果てておりまする。賛否両論が飛び交い、是々非々で論ずるのが議会の本質。決まらぬのはそれだけ重き議題に他なりませぬ」
使者は次郎の言葉に耳を傾けているが、その本意がくみ取れない。
「さらば、その儀がなにゆえ艦隊を遣わし、大阪湾にて演習と相成るのでございましょうや」
「議会が十分に働かぬ上は、言葉はもはや力を持たぬ。ゆえに武をもって言葉に力を持たせる他ないのだ」
次郎は目の前の男を見据えた。
それでも使者は、真意を測りかねて顔をこわばらせている。
無理もない。
戦を避けるために軍艦を動かす。この矛盾をただの使者にどうやって理解させればいいのだろうか。
次郎は考えていたが、やがて結論に達した。
「ご使者殿、戻ってご城代にお伝えなされよ。その後はご城代の判を仰げばよろしい。それがしが真に言葉を届けたいのは、ご城代ではない。公方様に直にお目通り願い、わが本意をお伝えしたい。そうお伝えくだされ」
次郎はそれ以上語らず、ただ静かに使者を見つめた。
将軍謁見の権利は旗本以上にあったが、次郎は従五位上の左衛門佐である。十分に資格がある。
「承知仕りました。必ずやお伝えいたします」
退出する使者の背を見送り、次郎は小さく息を吐いた。
「ご家老様、いかがでしたか」
隼之助が静かに問いかけた。
「意は伝えた。されど彼の者らが返事を寄越すのを待たずともよい」
次郎の次の行動は決まっていたのだ。
「揚陸艦『彼杵丸』の支度はいかに?」
「はっ。今しがた手配済みとの知らせを受けております。命あれば速やかに上陸能いまする」
「艦橋――見張り」
「はい艦橋」
「沿岸より二杯の小舟が近づく。旗印は一つは中黒の幕府軍艦旗、今一つは……日月の意匠、朝廷のご使者かと思われる」
幕府と朝廷の使者が乗る小舟が近づいているのである。
隼之助は次郎の顔を見た。
次郎は動じない。むしろ、わずかに口の端を上げた。
「うーん。いいタイミングだねえ……」
「御家老様、今何と?」
「うん? いや、よい頃合いで来たな、と言うたのだ。両者が同時に来るとは手間が省ける」
次郎は静かに告げた。
「使者が誰かは分からぬが、丁重に迎え入れよ。ゆえに『彼杵丸』からの上陸は待てと伝えるのだ。いずれ上陸はする」
「ははっ」
隼之助は即座に復唱した。
「久しいどすなぁ、次郎はん」
岩倉具視には焦りも戸惑いもない。
しかしもう一方の使者は、心中は穏やかではなかった。
「お久しゅうございます。左衛門佐殿」
大村海軍伝習所以来の知己ではあったが、幕臣の勝は公式な挨拶にならざるを得なかった。
「岩倉様、お久しゅうございます。それに勝殿、次郎で構いませんよ。腹を割って話さねばならんでしょう」
「……かたじけない」
勝は次郎の言葉に甘え、3人は会談のために艦長室へ向かった。
岩倉は椅子に腰を下ろし、勝が先に口を開く。
「単刀直入に伺いたい。艦隊を大阪の海の上で動かし、この後何をなさるおつもりなのでしょうか」
次郎は士官室係が運んで来た茶を勝に勧める。
「まずは一服なされよ。急いても仕方ござらん」
「急いておられるのは、むしろ次郎殿の方ではありませぬか。この大艦隊が、何よりの証左にございます」
勝は湯のみには手を伸ばさずに反論した。
「ほほう、それがしが急いておると。では聞こう。急くの反対は何であろうか、勝殿」
次郎は少し笑みを浮かべながら、落ち着いて勝の反論に質問で返した。
勝は即座に答える。
「それは『待つ』にございましょう。されど、今の貴殿の行動は『待つ』とは程遠い」
「ふふふふふ、さようか。してそれがしは、何をいかにして待てばよいのでござろうか」
用意された茶を飲み干した次郎は、士官室係にコーヒーを頼む。
「失礼、しばし便所に。すぐに戻るゆえ、申し訳ない」
話の腰を折って便所にいく次郎に対して、勝は不快感を持ちはしない。苦笑いする勝と黙って聞いている岩倉がいた。
「失礼、先程の続きにござるが、それがしは何をいかにして待てばよいのでござろうか」
「議会が結論を出すのを待つべきにございましょう。それが公議輿論というもの」
勝は静かに答えたが、次郎は運ばれてきたコーヒーに口をつけ、香りを確かめる。
「はて、議会はまだ議論を続けておるのでしょうか。勝殿は江戸にて海軍の差配に忙しいゆえご存知ないのかもしれぬが、議会はすでに役を果たしてはおりませぬ。中納言様と肝いりの議題草案にて、つまるところは幕府の差配によって果(結果)が決まる。これの何が公議輿論にござろうか」
「議会が役を果たしておらぬことは承知しております。されど、貴殿が武をもって口入れ(介入)するは筋が違いましょう。今は辛抱強く、政局が動くのを待つべきではありませぬか」
勝もまた、感情をあらわにせず、次郎同様に落ち着いて受け答えした。
「はて……。これは異なことを承る。ただ今の議会はどなたが議長か存ぜぬが、それは徳川の世のため、側のみ新しゅうした何も変わらぬ仕組みのことにござろうか。加えて勝殿、貴殿はそれがしを説き伏せに来られたのか。それとも話を聞きに来られたのか。いずれでござろうか」
次郎の言葉は鋭く勝の核心をついた。
一瞬言葉に詰まったが、すぐに勝は冷静さを取り戻す。
「いずれでもあります。貴殿の本意を伺ったうえで、公方様……中納言様へいかに進言すべきかを見定める。それがしは、そのための使者にございます」
「なるほど、ならば話は早い。それがし、大村艦隊はこれより兵を上陸させ、淀川沿いに京の都まで向かわせまする。無論、それがしも同行いたす。加えて入洛したならば速やかに演習を執り行う所存」
勝の顔色が変わった。
「なっ……。京で演習と仰せか。それはもはや示威ではない。武をもって為す脅しにござるぞ」
抑えきれない動揺が浮かんでいる。
「これは異なことを。演習の旨はすでに岩倉様を通じて奏上しておる。加えて脅しとは何ぞや? 我らは敵ではござらぬ。何をさように恐れておいでなのか」
次郎が岩倉を見て反応を促すと、岩倉は黙ってうなずいた。
勝は次郎の悪びれない言葉に、底知れない覚悟を感じ取る。単なる脅しではない。全てが計算上の行動なのだ。
「民が、洛中の民が恐れましょう。要らぬ乱れを招くだけにございます」
勝はなんとか反論の糸口を探す。
「民には前もって触れを出しております。ご覧なされ、この大阪の街で騒いでおるのは幕臣の方々のみでございますぞ」
次郎は大阪の方角を指し示した。
確かに街は落ち着いている。次郎の言葉は、勝に反論の余地を与えなかった。
「恐れているのではありませぬ。憂いているのでございます。貴殿のその行いが、取り返しのつかぬ事態を招くことを」
「取り返しのつかぬ事態とは、内乱にございますかな。あははははは、それは万に一つもございませぬ。火の粉がかからねば仕掛けもせぬゆえ、ご安心召されよ。さて、そろそろ良いかな。それがしからは何もない。岩倉様、よろしいでしょうか」
岩倉は笑顔でうなずいた。
次郎は朝廷の敵ではない。
もし敵がいるとすれば、それは幕府であり、幕府に乗り換えた公家衆である。
岩倉は勝と次郎の会話からそれを理解した。
次回予告 第482話 『洛中演習』
大阪湾に展開する大村艦隊の元へ、幕府の勝海舟と朝廷の岩倉具視が訪れる。
次郎は機能不全に陥った議会では言葉は力を持たないと断じた。
自らの本意を幕府に認めさせるため、海兵隊を京へ進軍させて「演習」を行うと一方的に宣言。
次回、次郎は洛中で演習を実施し、力ずくで幕府の専横を糾弾しつつ真の国益とはなんぞや? と帝と将軍への謁見を試みる!


コメント