第481話 『京への道』

 慶応五(明治二)年六月十一日(1869年7月19日) 大坂湾沖

 大村第一艦隊旗艦『知行』の艦橋は静寂に包まれていたが、今まで遠巻きに見ていた小舟のうち、一際大きな小舟が艦隊へとゆっくりと接近してきた。

 幕府の紋を掲げたその小舟には、大阪城代からの使者が乗っている。

 次郎は双眼鏡を下ろし、緩く首を縦に振った。

「使者を迎え入れよ。応接室へ案内するように」

 江頭隼之助は、表情を引き締めて返事をする。

 知行には純顕も乗艦していたが、相手が使者ならお出ましはない。

「承知いたしました」

 隼之助はすぐさま艦長に指示を出し、航海科員から甲板要員に指令は伝わる。

 艦内に緊張が走った。

 使者を乗せた小舟は、『知行』の舷側に接舷し、慎重な面持ちの幕府の役人が恐る恐る艦内へと足を踏み入れていく。

 次郎は応接室で静かに使者を待った。

 数分後使者が応接室へと入ってきたのだが、明らかに緊張しているのが分かる。

「太田和左衛門佐殿におかれましては、ご機嫌麗しく……」

 使者が口上を述べようとするのを、次郎は片手を上げて制した。

「口上は不要にござる。それがしも貴殿のご要件は存じておりますし、貴殿も答えが知りたいでしょう」

 意表をつかれた使者ではあったが、内心はホッとしている。

 自分の仕事は交渉ではない。

 次郎の意図の確認である。

「は、はは。仰せの通りにございます。大阪城代牧野越中守様(貞直・現貞利)より、貴艦隊がこの地において演習の由、いかなるご存念がおありなのか、確かめてまいるようにとの命にございました」

 次郎は静かにうなずいた。

「それがしの意趣は明らか。中納言様が公議輿論を旨として設けた議会、じつのところは益なきものとしておるのはご存知か。賛否両論が飛び交い、是々非々で論ずるのが議会の本質。決まらぬのはそれだけ重き議題に他ならぬ」

 使者は次郎の言葉に耳を傾けているが、その本意が汲み取れない。

「さりながら、その儀がなにゆえ艦隊を遣わし、大阪湾にて演習と相成るのでございましょうや」

「議会が十分に働かぬ上は、言葉はもはや力を持たぬ。それゆえ武をもって言葉に力を持たせる他ないのだ」

 次郎は目の前の男を見据えた。

 それでも使者は、真意を測りかねて顔をこわばらせている。

 無理もない。

 戦を避けるために軍艦を動かす。この矛盾をただの使者にどうやって理解させればいいのだろうか。

 次郎は考えていたが、やがて結論に達した。

「ご使者殿、そのまま戻ってご城代にお伝えなされよ。その後はご城代の判を仰げばよろしい。それがしが真に言葉を届けたいのは、ご城代ではない。公方様に直にお目通り願い、わが本意をお伝えしたい。そうお伝えくだされ」

 次郎はそれ以上語らず、ただ静かに使者を見つめた。

 将軍謁見の権利は旗本以上であったが、次郎は従五位上の左衛門佐である。十分にその資格はある。

「承知仕りました。必ずや、お伝えいたします」

 退出する使者の背を見送り、次郎は小さく息を吐いた。

「ご家老様、いかがでしたか」

 艦橋に戻った次郎に|隼之助《はやのすけ》が静かに問いかけた。次郎は応えず、壁の海図へと視線を移す。その指先は大阪湾から淀川へと続く水路をゆっくりとなぞった。

「意は伝えた。されど彼の者らが返事を寄越すのを待たずともよい」

 次郎の次の行動は決まっていた。

「揚陸艦『彼杵丸』の支度はいかに?」

「はっ。今しがた手配済みとの知らせを受けております。命あれば速やかに上陸能いまする」

「艦橋――見張り」

「はい艦橋」

「沿岸より二杯の小舟近づく。旗印は一つは中黒の幕府軍艦旗、いま一つは……日月の意匠、朝廷のご使者かと思われる」

 艦橋内に緊張が走った。

 幕府の使者と、朝廷の使者が乗る小舟が近づいているのである。

 隼之助は次郎の顔を見た。

 次郎は動じない。むしろ、わずかに口の端を上げた。

「うーん。いいタイミングだねえ……」

「え、御家老様、今何と?」

「うん? いや、よい頃合いで来たな、と言うたのだ。両者が同時に来るとは手間が省ける」

 次郎は静かに告げた。

「使者が誰かは分からぬが、丁重に迎え入れよ。ゆえに『彼杵丸』からの上陸は待てと伝えよ。いずれにせよ上陸はするが、待つのだ」

「ははっ」

 隼之助は即座に復唱した。

「久しいどすなぁ、次郎はん」

 岩倉具視には焦りも戸惑いもない。

 しかしもう一方の使者は、落ち着いているようにも見えたが、心中は穏やかではない。

「お久しゅうございます。左衛門佐殿」

 大村海軍伝習所以来の知己ではあったが、幕臣の勝は公式な挨拶にならざるを得なかった。

「岩倉様、お久しゅうございます。それに勝殿、次郎で構いませんよ。腹を割って話さねばならんでしょう」

「……かたじけない」

 勝もそう言って次郎の言葉に甘え、3人は会談のために艦長室へ向かった」

 艦長室は無駄な装飾が一切ない、機能的な空間だった。

 岩倉は椅子に腰を下ろし、勝が先に口を開く。

「単刀直入に伺いたい。この艦隊を大阪の海の上で動かし、この後何をなさるおつもりなのでしょうか」

 次郎は士官室係が運んで来た茶を勝に勧める。

「まずは一服なされよ。急いても仕方ござらん」

「急いておられるのは、むしろ次郎殿の方ではありませぬか。この大艦隊が、何よりの証左にございます」

 勝は勧められた湯呑みには手を伸ばさずに反論した。

「ほほう、それがしが急いておると。では聞こう。急くの反対は何であろうか、勝殿」

 次郎は少し笑みを浮かべながら、落ち着いて勝の反論にさらに質問で返した。

 勝は次郎の問いに即座に答える。

「それは『待つ』にございましょう。されど、今の貴殿の行動は『待つ』とは程遠い」

「ふふふふふ、さようか。してそれがしは、何をいかにして待てば良いのでござろうか」

 用意された茶を飲み干した次郎は、士官室係にコーヒーを頼む。

「失礼、しばし便所に。すぐに戻るゆえ、申し訳ない」

 話の腰を折るように便所にいく次郎に対して、勝は不快感を持ちはしない。苦笑いする勝と黙って聞いている岩倉がいた。

「失礼、それで先程の続きにござるが、それがしは何をいかにして待てば良いのでござろうか」
 
「議会が結論を出すのを待つべきにございましょう。それが公議輿論というものでしょう」

 勝は次郎の問いに静かに答えたが、次郎は運ばれてきた珈琲に口をつけ、その香りを確かめる。

「はて、議会はまだ議論を続けておるのでしょうか。勝殿は江戸にて海軍の差配に忙しいゆえご存知ないのかもしれぬが、議会はすでにその役を果たしてはおりませぬ。中納言様と肝いりの議題草案にて、つまるところは幕府の差配によって果が決まる。これの何が公議輿論にござろうか」

「議会が機能不全であることは承知しております。されど貴殿が武をもって口入れするは筋が違いましょう。今は辛抱強く、政局が動くのを待つべきではありませぬか」
 
 勝もまた、感情をあらわにせず、次郎同様に落ち着いて受け答えした。

「はて……。これは異なことを承る。ただ今の議会はどなたが議長か存じぬが、それは徳川の世のための、側のみ新しゅうした何も変わらぬ仕組みのことにござろうか。加えて勝殿、貴殿はそれがしを説き伏せに参ったのか。それとも話を聞きに来たのか。いずれでござろうか」

 次郎の言葉は鋭く勝の核心を突いた。

 一瞬言葉に詰まったが、すぐに勝は冷静さを取り戻す。

「いずれでもあります。貴殿の本意を伺った上で、公方様……中納言様へ如何に進言すべきかを見定める。それがしは、そのための使者にございます」

「なるほど、ならば話は早い。それがし、大村艦隊はこれより兵を上陸させ、淀川沿いに京の都まで向かわせまする。無論、それがしも同行いたす。加えて入洛したならば速やかに演習を執り行う所存」

 次郎の言葉に、勝の顔色が変わった。

「なっ……。京で演習を、と仰せか。それはもはや示威ではない。武をもって為す恫喝そのものにござるぞ」

 勝の声には、抑えきれない動揺が浮かんでいた。

「これは異なことを。演習の旨はすでに岩倉様を通じて奏上しておる。加えて恫喝とは何ぞや? 我らは敵ではござらぬ。何をさように恐れておいでなのか」

 次郎が岩倉を見て反応の促すと、岩倉は黙ってうなずいた。

 勝は次郎の悪びれない言葉に、次郎の底知れない覚悟を感じ取る。これは単なる脅しではない。全て計算された上での行動なのだ。

「民が、洛中の民が恐れましょう。不要な乱れを招くだけにございます」

 勝はなんとか反論の糸口を探す。

「民には事前に触れを出しております。ご覧なされ、この大阪の街で騒いでおるのは幕臣の方々のみでございますぞ」

 次郎は大阪の街の方角を指し示した。

 確かに街は落ち着いている。次郎の言葉は、勝に反論の余地を与えなかった。

「恐れているのではありませぬ。憂いているのでございます。貴殿のその行いが、取り返しのつかぬ事態を招くことを」

「取り返しのつかぬ事態とは、内乱のことですかな。あははははは、それは万に一つもございませぬ。火の粉がかからねば、仕掛けることはありえぬゆえ、ご安心召されよ。さて、そろそろ良いかな。それがしからは何もない。岩倉様、よろしいでしょうか」

 次郎の言葉に岩倉は笑顔でうなずいた。

 次郎は朝廷の敵ではない。

 もし敵がいるとすればそれは幕府であり、幕府に鞍替えした公卿たちである。

 岩倉は勝と次郎の会話からそれを理解した。

 次回予告 第482話 『洛中演習』

 大阪湾に展開する大村艦隊の元へ、幕府の勝海舟と朝廷の岩倉具視が訪れる。

 次郎は、機能不全に陥った議会では言葉は力を持たないと断じた。

 自らの本意を幕府に認めさせるため、海兵隊を京へ進軍させて「演習」を行うと一方的に宣言。

 次回、次郎は洛中で演習を実施し、力ずくで幕府の専横を糾弾しつつ真の国益とはなんぞや? と帝と将軍への謁見を試みる!

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