慶応五(明治二)年六月七日(1869年7月15日) 京都 貴族院
伊達宗城による『済衆議会』の結成宣言は、議会を新たな局面へと移行させた。
4つの政党がそれぞれの思惑を抱えてにらみ合い、議場は完全に行き詰まっていたのだ。
勘定奉行の選出は振り出しに戻り、時間だけが空費されていく。もはや、この論争は誰にも収拾がつかないかに思われた。
今日もまた、上野介と由利公正の間の議論の応酬から始まる。
「由利殿。大村藩のごときただ一つの成功の例をもって、天下国家の財政を語るのは、いささか早計に過ぎるのではござらぬか」
その一言が、ざわついていた議場を静寂で満たした。
「『国債』計画は興味深い。されど根に疵瑕(欠点)あり。すなわち定まらざる点多き事にござる」
彼は指を折りながら、列挙していく。
「第一に、諸藩に資金を貸し付けると仰せだが、返納の目途は誰がいかにして担保するのか。第二に、貸し付けた資金が、殖産興業ではなく、無駄な軍備や藩主の贅沢に消える恐れをいかように管理するのか。第三に、そもそも全ての藩に、大村藩のごとき事業を成就させるだけの才覚と技術ありと本気でお考えか。あまりに軽々しく、浮き世離れに他なりませぬ」
上野介の指摘に対して、由利は想定問答のように全てを論破していく。
「上野介殿。まず一つ目にござるが、藩の財政を吟味し、新政府の介入とあわせて返済計画を考える。むろん担保が必要であればとる。また、使途については役人を遣わし不正なきようすればよい。最後に、才覚などと、藩は人間一人にあらず。その物言いは無礼ではありませぬか。技術の優劣はあって当然。さらば引き上げるようすればよい」
至極当然ではありませんか、と由利は締めくくった。
反論は理路整然としており、日本公論会の議員たちから賛同の声が上がる。しかし上野介は全く動じなかった。むしろ口元には冷笑さえ浮かんでいる。
「まさに机上の空論。役人を遣わすは結構。されど、その役人はいずこより出すので。諸藩の財政を正しく吟味し、不正を見抜く眼を持つ者が、この日の本にいかほどいると仰せなのか。技術を引き上げると仰せだが、手取り足取り教えたとして、真に生かせる者がいなければ、宝の持ち腐れに終わるだけだ」
「ははははは! 議長、よろしいか?」
「許可します」
由利は挙手して発言の許可を求めた。
「上野介殿、お言葉そのままお返しいたします。かかる役人の儀において、これだけ御料所の財政が窮している砌にござる。幕府にはそれを能う役人がいるのでござろうか? 加えて技術を真に生かせる者ならば、ただ今の横須賀の職人と、大村藩に長州や薩摩、佐賀の職人を比べて見れば分かりましょう」
由利の痛烈な皮肉に、議場は大きくどよめいた。
幕府の財政難と、大村藩を中心とした西南雄藩の技術力は、誰もが知る事実である。しかし上野介は無表情だ。彼は静かに由利を見据え、落ち着いた声で応じた。
「由利殿、論点を違えてはなりませぬ。個々の職人の技量を比べても意味がない。それがしが申しておるのは、国家百年の計として束ね、計画を滞りなく進める党なり衆(組織)の力。それこそが肝要と申しておるのです」
「さればこそ! ただ今の幕府におありかと聞いておるのです!」
堂々巡りの議論に由利がうんざりして反論した。
大村藩があったからこその今ではないか。
公議党の議員は認めたくはないだろうが、紛れもない事実である。
言葉に出さなくても公論会寄りの議員はそう思っている。
「あるかないかの水掛け論は詮無き事。それがしが示したいのは、現に進んでおる事実にござる」
上野介は懐から一枚の図面を取り出して広げた。図面には、緻密な計算に基づいて設計された船渠や工場の配置が描かれている。空論ではない現実の計画であった。
「これが現にて、二年前に工事を始めけり横須賀製鉄所建設の計画と進み具合にございます」
上野介は全ての議員を見渡して宣告した。図面に描かれた計画は、単なる絵空事ではない。
「横須賀では第一号船渠の掘削はほぼ完了し、全てが計画通りに進んでおる。『もし』の話にあらずして既に行われておる『事実』にござる」
その言葉と証拠である図面が持つ現実の重みが、議場の空気を支配した。
由利の掲げた理想は、上野介が提示した具体的な成果の前にかすんで見えた……が、由利は一笑に付す。
「議長、よろしいでしょうか」
「許可します」
「もはやため息しかでませぬが、横須賀の船渠と同じ大きさの船渠が、大村には既に八つもございます。佐賀には一つ、長州と薩摩もこしらえているおるさなか。これでも幕府でなればならぬ道理はいかに? 上野介殿は今出来つつある船渠の話をしておられるが、大村では何年も前にできあがっておるのです」
やはり、決まらない。
両陣営の根本が違うからこそ、前に進まないのだ。
由利は初めて『新政府』という言葉を使った。
あきらかに幕府を意識しての言葉である。
次郎が休憩を挟もうとしたその時――。
「上様のおなーりー」
張り上げられた声が、堂々巡りの議論を打ち破った。
誰もが声のした議場の入り口に視線を向け、息をのむ。護衛の武士たちが慌ただしく道を空け、深々と頭を下げる。
議員たちは我に返って次々と床に額を擦り付けた。絶対的な静寂が議場を支配する。
将軍・徳川家茂が、徳川慶喜と学者風の男を伴い、ゆっくりと足を踏み入れた。
家茂は一同を見回して、次郎が空けた議長席の脇の上座へと静かに腰を下ろした。慶喜は隣に控えている。
しばらくの沈黙の後、家茂自身が、穏やかだが芯の通った声で口を開いた。
「皆の者、面を上げよ」
許しを得て、議員たちがおずおずと顔を上げる。
家茂は、彼ら一人ひとりの顔を見渡しながらゆっくりと視線を動かした。その眼差しに、怒りや軽蔑の色はない。あるのは深い憂いとかすかな失望であった。
「日の本が未曾有の国難にあるこの時に、ただ一人の奉行も決められず、日を空費するそなたらの姿を見るは、誠に忍びない。このままでは、国はまとまらぬ」
静かな言葉は誰の怒声よりも重く、議員たちの心に突き刺さった。将軍自らの痛切な憂慮は、責任感の表れである。
家茂の言葉を受け、慶喜が冷徹な声で続けた。
「上様の御心痛いかばかりか。臣これを謹んでお察し申し上げ、無益な乱れを収めるべく、名代として『議題草案』を披露いたす。草案に基づき、議会は国家元首たる『大君』、すなわち上様の導きの下、真の秩序を取り戻す事となる」
慶喜は懐から取り出した書状を広げ、その中の一文を読み上げた。
「大君は、時宜に応じ、この議会を解する権を持つ」
その一言が、議場に絶対的な静寂をもたらした。
淡々と読み上げられる議題草案と将軍の威光の前に誰もが平伏し、慶喜の勝利が確定したかに見えたその時――。
「恐れながら申し上げます。この『議題草案』が真であるならば、これまで我らが積み重ねてきたこの議会は、全てが茶番であったと、そう仰せなのでしょうか?」
将軍を前にした不敬な一言に、議場が凍りついた。
次回予告 第477話 『最後通牒』
勘定奉行選出を巡り議会が完全に行き詰まる中、将軍・家茂が徳川慶喜を伴い京に上洛。
議場の機能不全を憂う家茂の名代として、慶喜は議会の権限を大幅に制限する『議題草案』を突きつける。
将軍の絶対的な権威の前に誰もが平伏する中、議長・次郎がただ一人立ち上がり、その真意を問うた。
将軍への不敬な一言に、議場は凍りつく。
次郎が断腸の思いで抜く伝家の宝刀とは?

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