慶長九年一月六日(1604年2月6日) 諫早城
「実は、先ほど申し上げた北からの知らせとは別に、南明の領内より看過できぬ知らせが届いております」
官兵衛は、手にした書状の中から数枚を抜き出して純正に渡した。
「ほう、何じゃ?」
「はっ。四川省、加えて河南省の南一帯にて、大き一揆が起きております。凶作と餓えに追い詰められし民を立ち上がらせたかと」
「詳しく申せ」
官兵衛は書状を手に情勢を報告した。
それによれば王嘉胤が反乱の旗を掲げたという。山深く、もともと中央の支配がおよびにくい土地柄であったが、南明政権による苛烈な食糧の徴発が民の怒りに火をつけたのであった。
さらに開封府の南、河南省の汝寧府あたりでは高迎祥が蜂起している。
飢えた流民をまとめ上げて豪族や役所を襲撃して食糧を奪い、現在も勢力を拡大中であった。
両者は連携しているわけではなかったが、まるで呼応するかのように南明の支配地を内側から侵食している現状である。
「南明の軍の動きは」
官兵衛の表情は厳しい。
南明軍は寧夏への備えで手一杯の上、俸給の遅配で士気は地に落ちていたのだ。
反乱軍の勢いを前にして、討伐どころか城に籠るのが精一杯で、もはや自らの領土内で発生したウミを自力で取り除く力さえ失っているのである。
報告を聞き終えた純正は直茂へと視線を戻した。
「直茂、聞いたとおりだ。お主の懸念は、すでに現実になりつつある。彼の者らを、我らはいかに使うべきか」
純正は、二人の重臣の知恵を試すように質問した。
直茂はしばらく考えた後、静かに口を開く。
「……殿下。これは危うくはありますが、またとない好機にございます。南明の内なる弱まりは、我らが手を下すまでもなく進んでおります。ならば流れをさらに速め、望む道へと導くべきかと」
「ほう。官兵衛と同じ事を申すか」
「いえ、官兵衛の謀は、さらにその先にございます。それがしが考えますのは、一揆を『寧夏が手にするであろう果実を、内側から腐らせる毒』のごとく使う策にございます」
直茂の視線が、地図上の四川・河南と、北に広がる寧夏の位置関係を捉える。
いずれ南明が滅びれば、寧夏が領土を併合しようと南下するはずだ。
その時に寧夏が豊かで安定した土地を手に入れては元も子もない。
日本が反乱を密かに支援して、復興に長期間を要する状態にするのだ。そうなれば寧夏は、手に入れた領土を安定させるために、膨大な時間と国力を消耗せざるを得なくなる。
これが直茂の策であった。
「なるほど。して、一揆の民はいかがいたす」
「官兵衛の策どおり助力なさるべきかと。されど次からは二つの道がございます。一つは先程申し上げたとおりにございますが、今一つはさらに助力し、王嘉胤と高迎祥に国を建てさせるのでございます」
「ほほう?」
建国させるとは。
純正の目が光った。
2つの道があるならば、より国益に適う道を選ぶべきである。
「二つあげたのは、いずれにも一長一短があるのだな」
「然に候」
直茂は地図上の四川と河南を指し示しながら、1つ目の道について説明を始める。
それは一揆を支援して泥沼化させる策であった。
この策の長所は、介入が簡単で確実な成果を得られる点にある。
戦略は単純明快であった。兵糧と武器を少しずつ与え続けるだけで民衆は互いに相争い、決してまとまらない。
寧夏が南下した折に手にするのは実り豊かな土地ではなく、統治に手間と費用のかかる不毛の荒れ地である。寧夏の国力を削ぐ目的に対し、これほど確実な手はないのだ。
日本の危険を最小限に抑えつつ、目的を達成するための堅実な策であった。
ローリスク・ハイリターンである。
「されど」
直茂は言葉を続ける。
「この策には短所もございます。一つは、泥沼があまりに深くなりすぎ、我らの手に負えぬようになる恐れ。一揆衆の中から、我らの見当を超える傑物が現れ、乱を収めて我らに牙をむかぬとも限りませぬ。今一つは、かの地より我らが益を得られぬ点にございます。荒れ果てた土地からは、税も取れず、富も生まれませぬゆえ」
「ふむ。して、今一つの道は」
純正が促した。
2つ目の道は、王嘉胤、高迎祥らに国を建てさせるものである。
この策の長所は、成功すれば日本にとって計り知れない利益をもたらす点にあった。
支援して建国させれば、その国は事実上の操り人形となる。
寧夏の南に、未来永劫、日本に従順な巨大な国家を設けられるのだ。
さらに、恩を盾に鉱山やあらゆる産物の利権を日本が独占するのも可能となる。
大陸の富を安定して恒久的に吸い上げる仕組みを築けるのだ。
すでに中米・北米の海岸から西はアフリカの沿岸まで、広大な領土を有する日本である。しかしそこに中国大陸の利権が含まれれば、八紘一宇の実現と継続に大きく資するのだ。
泥沼化とは正反対の発想である。
「されどこちらの道は、それだけに難しく、危うき儀もございます」
直茂は慎重に言葉を選びながら短所を述べ始めた。
「まず、国一つを興すには、ばく大な銭と人がいります。食と武器を与えるだけでは済みませぬ。統べる仕組みを作り、法を定め、民を教化せねばなりませぬ。我らが担うは一つ目の策とは比べものになりませぬ」
「……金と人の話か。それは構わぬ。他に危うき儀とは」
事実である。
日本にとって、今や資金も人材も不足はない。
純正が知りたいのは、それ以外の本質的な危険である。
直茂は慎重に言葉を選びながら、最大の危険性を述べた。
それは育てた犬に手を噛まれる恐れである。
王嘉胤や高迎祥が、日本の助けで国を得た後に、いつまでも従順であるとは限らない。力をつければ、いずれは真の独立を画策するだろう。
その時、日本は自らの手で、寧夏に匹敵する新たな敵を作り出してしまうかもしれないのだ。
弱すぎては役に立たず、強くなりすぎれば制御が効かなくなるのである。
「加えて、寧夏が黙って見過ごすはずもございません。自らが治むると目論んでいた土地に、我らが傀儡国を建てようとすれば、それは寧夏に対する明白な敵対行為と受け取られましょう。もっとも悪しきは、寧夏との間に戦となるやもしれませぬ」
2つの策。
1つは危険が少なく見返りも少ない、大陸の混乱を長引かせる策。
もう1つは危険が大きく見返りも大きい、大陸に日本の覇権を盤石にするための新たな秩序を築く策。
「うむ、そうであるな……では傀儡の策といこう」
純正は即座に決断した。
直茂が提示した2つの道の危険性と利益を瞬時に天秤にかけ、より大きな見返りのある道を選んだのである。
言葉に迷いはない。
「直茂、官兵衛、聞こえたな。これより我らは、大陸の南に新たな国を作る。我らが意のままとなる、忠実なる傀儡国家をだ」
「……はっ。かしこまり、ました」
直茂はわずかに驚きを見せたが、すぐに表情を引き締めて深く頭を下げた。
主君の決断は絶対である。
即座に第2の策を成功させるための方策へと、思考を切り替えた。
しかし、隣で控える官兵衛はまだ口を開かない。
「官兵衛、何か言いたげな顔だな。申してみよ」
「いえ、殿下のご決断、真に時宜を得たものと感服しております。されど、左衛門督様が仰せの危うき儀、すなわち育てた犬に手を噛まれる恐れと、寧夏との戦の恐れ。これらをいかにして避けるか、策はすでにお持ちでございましょうか」
官兵衛は、あえて純正に問いかける形を取った。
それは、主君の決断を試すようでありながら、自らが持つさらに巧妙な策を開陳するための、計算された問いだったのである。
「ふむ……策とな。考えてはおらぬが、すなわち国益と国益の戦いであろう? そもそも我らは寧夏がこれ以上強くなるを望んでおるのか? 大陸に寧夏が覇を唱えれば、危ういのは理の当然であろう? さればそうならぬよう、布石を打つのが自明の理ではないか。策などと大それたものはいらん」
純正はこともなげに言い放った。
策を弄するまでもなく、帝国の国益を追求するためには、当然取るべき道であると断じたのである。
「南明の地に新たに国が建ち、明が滅びぬともそれらと寧夏、そして韃靼と女真。それぞれと交易を行い、戦があれば仲をとりもってともに栄える。冊封を望むなら冊封いたす。これで良いではないか。それでなお逆らうならば、致し方ないわ」
「はは。殿下の深謀遠慮、恐れ入りましてございます」
かくして大陸再分割の計が新たに産声をあげた。
次回予告 第926話『暗雲』
南明領内で大規模な民衆反乱が勃発したとの知らせを受け、純正たちはこれを好機と捉える。
鍋島直茂は、反乱を支援し寧夏が手にする領土を内側から腐らせる「泥沼化」と、危険を冒してでも日本の傀儡国家を建国させる2つの策を提示。
純正は傀儡国家策を採用し、新たな大陸分割の計が始まるが、その未来を暗示するかのような知らせが届く――。

コメント