第461話 『懐柔』

 慶応五(明治二)年二月五日(1869年3月17日) 京都・小浜藩邸

 障子の外からは、夕刻を告げる鐘の響きがかすかに届いていた。

 調えられた食卓には、鯛や鴨の吸物、白味噌仕立ての碗、そして京の野菜を使った膳が並んでいる。夜の饗応は豪奢ではないが、随所に趣向がこらされていた。

 純顕は背筋を正し、無駄なく箸を進めていた。

 次郎はその隣に座って、口に運ぶ動作を抑え気味にしている。

 対座する慶喜はときおり笑みを浮かべ、客を迎える主の余裕を見せていた。

 沈黙を区切るように慶喜が盃を掲げる。

「議場の仕切り直し、ご苦労であった。左衛門佐の手腕には、ただただ感服するばかりだ」

 慶喜の声は柔らかく抑えられていたが、次郎は表情を動かさぬままで、深く頭を下げた。

「ありがたきお言葉。然りながら議場の仕切りはあくまでも議事を進める術にすぎませぬゆえ、功などというものではありません」

 慶喜は笑みを浮かべて盃を口に運び、しばらく沈黙を保った。

 その間に膳の数品が取り替えられる。

 季節の椀が置かれると、場の空気が緩やかに動いた。

「|六衛督《ろくえのかみ》(純顕)殿。|左衛門佐《さえもんのすけ》(次郎)殿。ひとつ、余の胸中を聞いてほしい」

 慶喜が箸を置いて真っ直ぐに2人を見据えると、純顕の眉がわずかに動く。

 次郎は呼吸を浅く整えながら口を閉ざした。

「これまで日本公論会、公議政体党と意見を重ねてきたが、互いの考え場違いすぎる。ゆえに争いばかりが際立った。然れど将軍家の思し召しは、争いではなく和合による政。この徳川の威を損なわず、それでいて新しきを導く。余に託された役目はそこにある」

 声は穏やかに保たれていた。

 しかし言葉の端には重みのある意志が重なっている。

 慶喜は言葉を区切りって、おもむろに二人の前に身を乗り出した。

「そこで余は思う。六衛督殿には老中首座を、左衛門佐殿には勘定奉行並、ならびに外国奉行並、加えて軍艦奉行並の職をお願いしたい」

 その場の空気が凍るように静まり返った。

 燃える灯の影だけが壁に揺れている。

 純顕は盃を持つ手を止め、深く視線を落とした。次郎も同じく、動揺していない。

 藩邸で2人で話し合った際に、ある程度予測していたのだ。

「驚かぬか……ふふふ。さすがとしか言いようがない。然らば余の思いは一つ。力を合わせて国を導くことにある。諸外国との条約は成り、貿易を盛んにして国を富ませる道筋はたったが、障り多きこと変わりなし。加えて薩摩長州はいまだ騒がしい。然ればこそ、徳川と大村、互いの力を寄せ合えば難局を超えられよう」

 慶喜ははっきりとした口調で告げる。盃に映る光が一瞬だけきらめいた。

「なれば中納言様(慶喜)、ひとつ伺いたき儀がございます」

「なんでござろうか」

「中納言様は先程、公儀政体党と日本公論会はあまりに考え方が違う、と仰せにございました。如何に違うのでございましょうや」

 慶喜は次郎の問いかけに、少しだけ虚を突かれた顔をした。

 まさかそんな問いが返ってくるとは予想していなかったのだろう。公言はしていなかったとはいえ、公儀政体党は旧来の秩序を柱とし、日本公論会の党是は新しい政体の構築だと誰もが知っていたからだ。

 慶喜はふむ、と一声発してからゆっくりと話し始める。

「左衛門佐殿らしい問いだ。なればこそ率直に答えよう。我ら公議政体党が目指すは、徳川二百五十年の泰平の世を礎とした国造り。将軍家を公儀の中心に据え、諸藩がこれを支える。その上で、異国の知恵を取り入れ、国を豊かにしていく。いわば、古き良きものを守りながら、新しきを採り入れる政だ」

 一度言葉を区切って、慶喜は純顕と次郎の顔を交互に見た。

「されど、日本公論会の仕方(やり方)はあまりに急いておる。全国すべての家中の長を集めた議会、徳川も他の大名も等しく一票を投じる政。聞こえは良いが、それは長年国を支えてきた秩序を根から破壊する行いだ。礎なくして、家は建たぬ。我らはその点を最も危ぶんでおる」

 それは徳川による支配の正当性を説く、使い古された論理であった。

 次郎は表情を一切変えずに、慶喜の言葉を聞いていた。

「なるほど、よく分かりました。今ひとつ、よろしいでしょうか」

 純顕は横で黙って聞いている。

 慶喜との夕食を前に、相当にシミュレーションをしていたのだ。

 今のところは、想定内である。

「何であろうか」

「ここ数年は取りやめになっておりますが、開闢以来続いてきた参勤交代は、何のためだったのでしょうか?」

 慶喜は、次郎の唐突な問いにわずかに眉をひそめた。

 話の流れが、思わぬ方向に転じたからである。

 懐柔の言葉を重ね、相手の心を解きほぐそうとしていた矢先に、なぜ二百年以上も前の制度の話が出てくるのか。その意図を測りかね、慶喜は慎重に言葉を選んだ。

「参勤交代か。言うまでもなく、将軍家と諸大名の主従の関わりを確かめ、公儀への忠誠を形にするための儀礼。ひいては、それが国の安寧を保つ礎となってきた」

 当たり障りのない模範解答であったが、次郎はその答えを待っていたかのように、間髪入れずに言葉を重ねた。

「なるほど。忠誠を形にする儀礼、でございますか。然れどその実の有り様は江戸と国許の両地住まいを強いて大名の財力を削ぎ、人質として妻子を江戸に置かせることで、謀反の芽を摘むための策。すなわち、力による支配の仕組みそのものではございませぬか」

 次郎の声は静かであったが、部屋の空気を鋭く切り裂いた。

 慶喜の表情から笑みが消える。

「……いささか言葉が過ぎるのではないか、左衛門佐殿。それは泰平の世を築くための、先人の知恵だ」

 慶喜の声にかすかな苛立ちが混じった。

 次郎の問いが単なる歴史問答ではないことに、ようやく気づいたのである。

「先人の知恵にございますか……。ではそれを除いたとして、参勤交代は藩の財政を蝕み、我が藩にいたっては在府の年は大いなる不足にございました。また改易・転封・減封においては生きるも死ぬも幕府の沙汰次第。西国の大名にいたっては自らの所領の他にも長崎の備えに金が消え、奥州諸藩も蝦夷地にて同じにございました。それでもなお、この先も続けると仰せなのでしょうか」

 慶喜は固まった。

 次郎の言葉は単なる批判ではなく、徳川二百五十年の治世そのものへの根本的な問いかけであったからだ。藩財政の疲弊、幕府による一方的な処遇、そして外様大名が負わされてきた理不尽。

 それら全てを、目の前の男は静かな口調で突きつけている。

「……昔の仕組みを持ち出して、揚げ足を取るか。泰平のためには然るべき差配であったと申しておる。三百諸侯の力が一にならねば国は乱れる。それを束ねる重しがなければ、この日の本の形は保ててはおらぬ」

 慶喜は声を絞り出すように反論した。

 それは徳川の当主として、言わねばならぬ言葉であった。しかし、その声にはかつての自信が宿っていない。

「その重しが、(徳川宗家でなければならぬ故はなんでございましょうや。いや、これはまだ早い)……いえ、なるほど得心いたしました」

「……」

 慶喜は無反応だ。

「先の中納言様のお申し出、我が殿ともよく考えていたのでございますが、条件を飲んで頂けるのならば、謹んで拝命いたします」

 沈黙のあと、次郎が口を開いた。

「……条件、とな? 如何なるものか?」

 次回予告 第462話 (仮)『あり得ない条件』

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