慶応四年九月三日 夜更け 京都 大村藩邸
日付がまさに変わろうとする刻限であった。
自室に長州藩の家老・周布政之助と重臣・久坂玄瑞を残し、次郎は純顕の私室へと続く廊下を速足で進んでいく。
静まり返った屋敷に、次郎の足音だけが響いた。その歩みに一切の迷いはない。
脳裏には誇りを捨て去った2人の男の土下座姿が焼き付いている。彼らは今も別室で、固唾をのんで次郎の返答を待っているはずだ。
あの2人を、このまま手ぶらで藩邸に帰すわけにはいかない。
何の成果もないのに『朝まで待て』と言ったって、激怒している若者たちが聞くわけないじゃないか。
その結果、京都市内での暴発から日本全土を巻き込む内乱が始まる。
タイムリミットは、夜が明けるまでのあと数時間しかない。
彼らと日本を破滅から救うには、口先の慰めなど無意味だ。
若者たちの激高した感情を無理やり押さえつけ、夜明けまで持ちこたえさせるだけの、強力で絶対的な『成果』が必要なのである。
『大村藩主が、自ら動く』
この確約こそが、彼らが持ち帰りうる唯一にして最大の手土産なのだ。
そのためには家臣として最大の禁忌を犯すほかに道はない。
次郎の覚悟はすでに定まっていたのである。
純顕の私室へと続く手前の襖で、次郎は寝室を守る近習の者に制止された。
「御家老様。斯様な夜更けに何用でしょうか。殿はすでにお休みになっております。如何なる儀であろうとも、明朝になさっていただきたい」
近習の言葉は、職務への忠実さを物語っている。
「一刻を争うのだ。日の本の行く末を左右しかねない火急の儀であるぞ。もし、この機を逃せば、朝には取り返しのつかぬ有り様となる。責はこの次郎左衛門が全て負うゆえ、急ぎ取り次ぐのだ」
鬼気迫る次郎の眼光に、近習は息をのんだ。
次郎が軽はずみな判断で動く人間ではないと、藩邸の誰もが知っている。近習は意を決してうなずき、静かに襖の向こうへと姿を消した。
部屋の中では、純顕が簡素な夜着の上に羽織を一枚まとっただけで、机の前に座っている。
「……次郎か。まったく、お主と一緒におれば退屈はせんな。して……いかが致した? このオレを夜着のまま叩き起こしてまで言上したい儀とは、よほどの事であろう」
純顕の声には、次郎への信頼と事態の異常さを理解したうえでの響きがあった。次郎は純顕の前に進み出ると、深く頭を下げる。
「は。殿の安眠を妨げました事、万死に値します。然れどこの深夜にこそ、ご決断を仰がねばならぬ儀がございました」
『万死』の言葉が出ると純顕はフフッと笑った。
親しき仲にも礼儀あり。君臣の間柄ではなおさらだが、次郎が改まって言葉にしたので驚いたのだ。それが笑みにあらわれている。
次郎は周布と久坂の来訪と長州藩の状況を報告し、自らがなぜ禁忌を犯してまで参上したのかを述べた。
「……長州の使者を、手ぶらで帰すわけにはまいりませぬ。彼の者らが藩邸の若者を抑えるには、殿御自ら動くと、確と約する『手土産』が要るのです。それなくば、長州は夜明けを待たずに暴発いたしましょう」
純顕は黙って次郎の話を聞いていた。
話が終わると腕を組んで目を閉じたが、しばらくしてゆっくりと目を開く。瞳にはすでに主君としての決意が宿っていた。
「……あい分かった。次郎、お主の判断、間違ってはおらぬ。動かねばなるまい。このオレが、大村藩の主として動かねば」
「ははっ!」
「夜が明け次第、直ちに中納言様に使者を送れ。丹後守が直にお会いして話がしたい、と。これは求めではない。大村家中の強き意志であると伝えるのだ」
次郎から純顕出馬の確約を得た周布と久坂は、何度も深く頭を下げると、一縷の望みを胸に、夜の京を藩邸へと急いだのである。
夜が明けると同時に、大村藩邸から二騎の早馬が飛び出した。
一方は二条城の徳川慶喜へ、もう一方は会津藩邸の松平容保へ向かったのである。
純顕自らの会談を申し入れる、異例の使者であった。
申し入れを受けた慶喜は、これを拒んだ場合の不利を即座に計算して受諾。自らが場を設けるとして、容保を二条城へ召致した。
こうして会談は、その日の昼過ぎ、二条城の一室にて行われる運びとなったのである。
部屋の上座には会談の主催者である慶喜が座り、慶喜から向かって左に容保、右手に純顕が座していた。
純顕は穏やかながらも、威厳を込めた口調で口火を切る。
「先日、議会において決まりし三つの掟。これがその場の末々(現場の末端)まで徹底されていないと聞き、憂慮致しております。このままでは議会の定めし儀は絵に描いた餅となり、その権失墜なさるは必定。中納言様(慶喜)におかれましても、それは本意ではありますまい」
純顕はこの問題を会津と長州の局地的な争いではなく、議会全体の権威、ひいては徳川の体面に関わる問題へと巧みにすり替えたのである。
慶喜の『丹後守殿の申す儀、一理ある』との発言に、純顕はすかさず畳み掛けた。
「一理ではなく全てにございましょう」
当然であった。
不眠不休で食事もさせないなど、拷問に等しい。
いや、間違いなく拷問である。
決定事項が履行されていないのだ。
「改めてお約束願いたい。拷問と証なき捕縛を禁ずるを徹底し、加えて捕縛された者の身柄を保護し、公正な取り扱いを保証する事。この三点を、総督と守護職の名において、お約束いただきたい」
『公正な取り扱い』に、純顕は特に力を込めた。
藩主自らが出てきて理を尽くし、慶喜にまで同調されては、容保に反論の余地はない。
「……承知、した」
容保はそう答えるしかなかった。
その日の夕刻、会談の結果はすぐに長州藩邸にいる久坂たちの元へもたらされた。
一室に集まった若者たちの前で、久坂は純顕が取り付けた約束を語って聞かせる。
「……以上の通り、丹後守様(純顕)が直々に総督と守護職に話をつけられた。捕らえられた者たちの身の安全は、大村藩の名において保証されたのだ!」
部屋に安堵と、しかし完全には晴れない疑念の入り混じった空気が流れる。
「じゃが、同志はまだ帰ってこんではないか!」
若手の一人が不満げにつぶやいた。
「今すぐ解き放たれはしなかったが、証なき捕縛はいずれ解かれるであろう」
議会では証拠のない捕縛も禁止されていたのである。
「加えて無体な扱いは受けぬと約されたのだ。これは大いなる前進ぞ。今我らが軽挙妄動に走れば、丹後守様の面子を潰し、全てが元の木阿弥となる。然すれば次こそ我らに未来はない」
久坂は必死に説いた。
大村藩主直々の調停が、これ以上ない大きな力となって働いたのである。その事実は、激高していた若者たちの心を、かろうじて現実に引き戻した。
全員がすぐに帰ってこない状況への不満はくすぶり続けるが、最悪の事態だけは回避できたのである。
その安堵感が、憎悪の炎をわずかに鎮めていた。
次回予告 第449話 (仮)『絶望の炎』

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